第七話 分岐
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パキン。
足元で、何かの割れる音がした。
「雨星!」
伸ばされた紅雪の手を取る。
だが次の瞬間、床が消えた。強烈な浮遊感に見舞われ、思わず目を閉じた拍子に、つないでいたはずの紅雪の手を離してしまった。
「紅雪!」
極彩色に乱れる暗闇に向かって、雨星は叫んだ。
あの池で溺れた時と同じように、体が重い。息ができるがなぜか苦しく、上も下もわからなくなる。雨星はもがき、探した。どちらへ行けば、正しい道なのか。
(戦うか、逃げるか)
どちらが正しい?
『雨星』
誰かが呼んだ。
振り返ると、男が立っていた。それは血まみれの霜飛のようにも見えたし、刀を手にした冬来のようにも見えた。彼らは、雨星に向かって手を差し出していた。こちらへ来い、とでも言うように。
(わたしは……)
突然足元をすくわれ、雨星は転倒した。
流されていく。
もう何も選べない。
そもそも、正しい道などあるのだろうか。誰かにとっての正しい道は、別の誰かにとって、間違った道なのでは?
闇の中で、何かが金色に光る。
懐中時計だった。カチ、コチと音を立て、針が動く。逆に進み、どんどんと時をさかのぼっていく。
(進むのか、戻るのか)
『こちらへおいで』
ふいに手を引かれた。
だれ、と問いかける。姿は見えない。
『ありがとう。おまえのおかげで、わたくしはもう、あの冷たい場所で迷わずにすむ。ようやく、あのひとのもとへ行くことができる。ありがとう、雨星』
優しく歌うような声音だった。
『おまえも、迷わずにお行き。さあ、あそこだ』
手を引かれた先には、光があった。
待って、と思わず雨星は口走っていた。行かないで、教えて欲しい、わたしはどうすればいいの───と。だが答える声はなく、代わりにそっと、背中を押された。
(待って、まだたくさん、話したいことが───)
ふっと、宙に放り出される。
バキバキバキ、という、すさまじい音と衝撃に揉まれながら、雨星は落ちていった。
わああ、と悲鳴を上げ、手足をばたつかせる。もうだめだ、と雨星は思った。このまま自分は、地面に叩きつけられて死ぬ。父とともに扇市に帰ることもできず、紅雪とまた、他愛ない話をしながら刺繍することもかなわず……。
「痛い!」
そんなことを考えている間に、着地していた。
だが、思いのほか固くない。むしろ柔らかい。そしてまた、あたたかいような。
「わあ!」
雨星は慌てて飛び退いた。
「ごめんなさい!」
そこには人が一人、倒れていた。
若い男のようだ。周辺には、折れた枝が無数に落ちている。雨星が下敷きにしたその男は、かろうじて生きてはいるようだったが、ぴくりとも動かなかった。
(だ、大丈夫かな……?)
雨星はそっと男の顔を覗き込み、そしてそばにある木を見上げた。おそらくあの上あたりから、自分は落ちてきたようだった。死ななくてよかったとほっとするが、一歩間違えたらどちらかが死んでいたと思うと、ぞっとした。
「だ……」
その時だった。
背後から小さな声がした。
しまった、見られていた───と思いながら、振り返る。
驚いた顔でそこに座り込んでいたのは、おおよそ十歳くらいの少年だった。
「あんた、誰だ。なんで、木の上から……」
目を真ん丸にして、雨星を見ている。
まずいことになった、と思った。どう説明すればよいものか。
「ええと、わたしは……」
ごにょごにょと喋り出してから、雨星はあることに気づき、口をつぐんだ。
少年の小さな顔が、赤く腫れ上がっていたのだ。それだけではない。はだけた衣から見える腹や、手足にも同じようにあざがある。明らかな暴力のあとだった。
(ひどい。こんな小さな子を)
ちらりと、倒れている若い男に目をやる。
少年よりもだいぶ年かさだが、彼も若い。まだ青年だ。二人とも、同じような黒装束を身にまとっていた。雨星が目線を戻すと、少年は、殴られたことを恥じるかのように目をそらし、あざだらけの体を衣で隠した。
(そうだ。そういえば、あれが……)
その場に膝をつき、雨星は、少年と目線を合わせた。
不審そうにこちらを見る彼へと微笑みかけ、衣のふところを探り、懐紙の包みを取り出した。手のひらの上で、それを広げてみせる。
少年は、興味を引かれたように首を伸ばした。
「……それ、何だ?」
「胡麻団子だよ。中に餡が入ってる」
「胡麻団子……」
食い物か、とつぶやき、つばを飲む。どうやらお腹が空いているらしい。
「これをあげるから、わたしが木の上から落ちてきたことは、誰にも言わないでおいてくれる?わたしも、ここできみと会ったことは、黙っていてあげるから」
そう言って、雨星が困ったように笑うと、少年は目を丸くして彼を見つめた。
食べ物につられてか、その微笑みにつられてかはわからないが、一瞬ぼんやりとうなずきかけた彼だったが、慌てて首を振り、打って変わって疑わしげなまなざしで雨星を見た。そして、指先で胡麻団子を軽くつつく。
「毒でも入ってんじゃないだろうな」
「入ってないよ。ほら」
その場で、三つあるうちの一つを口に入れてみせる。すっかり冷めて固くなってしまっていたが、美味しかった。
少年はなおも警戒していたが、雨星が美味しそうに頬張るのを見て、我慢できなくなったのか団子に手を伸ばした。獣のようにくんくんとにおいを嗅いだ、その時。
「うーん……」
かたわらから低くうめく声が。
気絶していた青年が、目を覚まそうとしているのだ。
少年ははっとして、手の中の胡麻団子と、雨星とを見比べると、
「来い」
と、手を差し伸べてきた。
「え?」
戸惑う雨星の手をつかみ、そのまま足早に歩いていく。
藪をかき分け、森の中を進んでいった。こっちだ、と少年が示した先、生い茂る枝葉を抜けると、突然視界が開け、あらわれた光景に雨星は息を呑んだ。
町だ。渓谷に立派な町が広がっている。
「気をつけろ」
言われて足元を見下ろすと、苔と雑草に覆われた石段がある。欄干も何もなく、一歩踏み出せば、向こう側は断崖絶壁だった。
「すごい……」
美しい景色だった。
町は輝いていた。隙間なく連なる屋根瓦が、黒々として美しいのだ。
穏やかな陽光に照らされて、周囲の山々が錦に染まっている。赤や黄に色づいた葉が、谷間を吹き抜ける風に舞い飛んでいた。至るところから立ち上る白い煙が、大勢の人間のざわめきが、活気のある集落であることを教えてくれている。
知らない町。知らない景色。
それなのになぜか、懐かしい。
「座れよ。突っ立ってると危ないぞ」
石段に腰掛け、少年が言う。雨星はその隣に腰を下ろした。
少年はようやく胡麻団子に口をつけた。半分ほどをかじり、ぱっと目を輝かせる。どうやら口に合ったと見えて、すぐさまもう半分も口の中に放り込んでいた。
「こっちも食べる?」
最後の一つを差し出すと、彼はすぐに手を伸ばそうとしてやめ、じとりと雨星を見た。
「あんた、新しい女中か何かか」
「女中……」
いやわたしは男で、と言いかけ、もはや訂正するのも面倒になり、ため息をつく。
答える代わりに、少年を見た。ごまかしはききそうにない。黒い瞳の目は鋭く、利発そうな顔立ちをしている。髪は耳にかかる程度と短く、黒い衣の袖や裾から伸びる手足は、痩せてはいたが、しなやかだった。
「逆に聞いてもいいかな」
雨星の言葉に訝しげな顔をした少年だったが、胡麻団子が警戒心を解いたのか、しぶしぶながらうなずいてくれた。
「───ここはどこ?」
「はあ?」
頭がおかしいのか、という顔をされた。
(まあ、当然か……)
───雨星にはなぜか、祥月殿の庭で、父と紅雪と再会して以降の記憶がない。
気がつけば、あの大きな殿舎の中におり、状況がつかめないままに、冬来と赤毛の山箭の戦いが始まってしまった。おそらくだが、雨星は───あの赤毛の山箭に、割符を投げつけられたのだ。それが足元で割れた。ちょうど同じ瞬間に、紅雪と手をつないでしまったために、彼女はその移動に巻き込まれた。そしてはぐれてしまったのである。
(でもきっと、近くにいるはずだ)
だが、どの程度近くなのかがさっぱりわからない。あてがない。どうしたものか、と雨星は思った。
すると、団子を食べ終えた少年が、どこか憐れむような目で雨星を見た。
「城の中にいるってことは、きちんと大門を通ってきたんだろ?そこからどうやって迷子になれるんだよ。御ノ内は一本道だろうが。まあでも、いくら迷ったからって、木の上に登るのはどうかと思うけどな。で、どこに行くつもりだったんだ?」
「……ん?」
雨星はややうなだれていた顔を上げた。
(……城?)
王宮ではなく、城と。
だから、と苛立たしげに少年は言い募る。
「女王の即位式に向けて、今、臨時の女中を雇ってるんだろ。そのためにここに来たんじゃないのか。特に針子部屋はてんやわんやだっていう噂だから、そこに行くつもりだったのかと思ったんだけど、違うのか?」
(───女王?)
そうか、そうだよ、当然だ、と雨星は思った。
もやがかかったようにぼんやりとしていた頭が、すっと晴れた気がした。
そんな簡単なことに、なぜ思い至らなかったのだろう。あの赤毛の山箭が持っていた割符で、雨星たちはここにつながったのだ。
ならば当然、ここは。
この場所は。
(新賜だ)
なんてことだ、と雨星は今さらながらに焦りだした。このままではまずい。大変なことになる。早く、紅雪を見つけなければ。女王よりも先に!
(でも、どうやって?)
雨星は、おのれの頬を手挟んだ。女王の城の中で、女王に見つからないように、どこにいるかもわからない紅雪を探す───不可能だ。どこかで、待ち合わせでもしていないかぎり。
(待ち合わせ……)
雨星ははっとした。
「それだ!」
突然叫び、少年の肩をつかむ。
何なんだよ、と文句を言う少年に構わず、その肩をガクガクと揺さぶった。
「針子部屋だ。そこに行けば会えるかも!」
「はあ……?」
道を教えてくれ、と勢い込む雨星に気圧される形で、少年はここからの道順をざっくりと教えてくれた。新賜の城は山城となっていて、今はちょうど中腹あたりであり、もう少し登ったところが南殿という区画になっていて、そこに針子部屋があると。
「助かった。ありがとう」
「別に」
食い物もらったし、とそっぽを向きながら言われる。照れているのだ。
さっそく立ち上がり、そういえば、と雨星は思った。
「きみの名前を聞いてなかったね。───わたしは、雨星だ」
少年はちらりと雨星を見上げ、しぶしぶといった様子で答えた。
「……冬来」
**
「───冬来?」
思わず、口の中でその名を繰り返した。
脳裏に浮かぶのは、あの黒い獣のような男だ。
彼は、痩せた手足の少年ではありえない。胡麻団子を頬張り、目を輝かせるような子供ではない。笑ったり、泣いたりする、人間らしいことから、ほど遠い場所にいるような男だ。
ただの偶然?
名前が同じだけ?
「?そうだけど、何だよ?」
動かなくなってしまった雨星を、冬来がどことなく心配そうな目で見つめてくる。それは記憶に新しい、あの優しいまなざしだった。
(違う)
偶然なんかじゃない。名前の一致でもない。
この少年は、冬来だ。あの冬来と同じ。
(───そうか。ここは、過去なんだ……)
愕然とした。
なぜ気づかなかったのだろう。昼夜が違う。季節も違う。過去に移動し、嘉月と出会った時と同じ。また割符によって、過去につながってしまったのだ。だとすれば一体、どれくらい前にいるというのだろう。あの冬来がおおよそ三十歳前後だとして、今のこの少年は、十歳か、少しばかり上くらいに見える。
(二十年前?それよりもっと?)
まだ、雨星は生まれてすらいない。
(だったら)
今の女王は。
「もう一つ、教えて欲しいことがある」
雨星がずいっと身を寄せると、冬来はのけぞった。
「この国の、今の女王って───」
「冬来!どこだ!」
その時だった。
凄みのある怒鳴り声が、あたりに響き渡ったのだ。
声音からして男だが、先ほどの青年ではなく、やや年のいった別人だ。冬来のことを探しているようだった。
「さぼるな!出てこい!ぶっ飛ばすぞ!」
「チッ」
その声に舌打ち一つ。
冬来は、悪いけど、と雨星に告げて、さっと立ち上がった。
「おれは逃げる。道順は覚えたか?」
「え?」
針子部屋への道のことだ。雨星が曖昧にうなずくと、彼は呆れたように苦笑した。
「大丈夫かよ。あんた、なんかぼうっとしてんな。道に迷ってももう、木に登ったりすんなよ。あと、あれだ。───団子、うまかった。ありがとう」
「冬来」
そして、ぱっと風のように走り去ってしまう。その小さな背中は、瞬く間に見えなくなった。取り残されたのは、心もとない様子でたたずむ、雨星が一人。
(冬来……なの?)
本当に、彼なのだろうか。
先ほど確信したばかりだが、もうすでに自信がなかった。
(考えていても、仕方ない)
ともかく、ずっとここで立ちつくしているわけにはいかないのだ。
紅雪を探す。そのために雨星は、教えられた道を歩き出した。
(きっと、あれがそうだ)
黒々と輝く屋根瓦の、大きな建物が見えてきた時、雨星は思った。
門の前には、門番が二人立っており、なぜかうんざりとした表情をしていた。
「入れ」
雨星が何かを言う前に、すんなりと通される。
「え、でも」
「いいから、さっさと入れ。新しい針子だろう。……とにかく、中に行けばわかる」
「?はあ……」
首を傾げながらも、雨星は門をくぐり、奥へと進んでいった。
恐る恐る中を覗き込んだ、その瞬間、
「あなた!そこのあなた!」
いきなり呼びかけられる。
雨星がおのれを指差すと、「そう、あなたよ!」と女が言う。
女は、腕にたくさんの反物を抱えていた。香色の袴をきっちりと着こなしていたが、髪は大いに乱れている。
「新しく来た人ね!ああ、助かったわ。とりあえずそこに置いてあるもの全部持って、一緒に来てくれる?」
「そこ?」
とある一間に乱雑に置かれていたのは、さまざまな色合いの布地だった。
濃藍、薄紅、浅葱、山吹……それらが、山のように積まれている。
「え?全部?」
「そう、全部!」
早く、と急かされ、雨星は積み重なった布地を一息に抱え上げた。崩れそうになったところを、よろめきながらこらえ、女とともに廊下を小走りする。
「あなた、見た目よりも力持ちね。よかったわ。追加の布を運ぶひとがいなくて」
「大変そうだね」
「当たり前でしょ!今はもう、このとおり、どこの部屋も手が足りなくて」
長い廊下を歩きながら見渡すかぎり、同じ格好をした女たち───針子たちが、布にへばりつくようにして作業を進めている。てんやわんやとは冗談ではなかったのだな、と雨星は思った。
「話は聞いてるでしょうけど、即位式を二日後に控えていて、それに向けての衣装やら何やらを仕立てないといけないの。あまりに急な話だったから、とにかくみんな、寝る間もなくこうして作業を進めているのだけど……」
「間に合わない?」
雨星が尋ねると、女は、とんでもない、と据わった目を向けてきた。
「間に合わせないといけないのよ。でないと、首が飛ぶわ」
「首が……」
それははたして、仕事のほうの首なのか、本物の首なのか……恐ろしくて聞くことはできなかった。
「わたしは、刺繍なら得意だ」
「本当?それは助かるわ。一番手が足りてないところよ。あなたは……」
ふと、雨星の全身を眺めて、訝しげに眉を寄せる。
「ブリシェ人?まあ、あそこのひとは手先が器用だって言うしね。大門を通っているなら身元はたしかだろうし、今は誰であろうと大歓迎よ。お姫さまだろうと山箭だろうと……針を持つ手があれば十分だわ。頑張って」
「わかった」
雨星はうなずき、にっこりと笑った。
その後、針を持った雨星の邁進は、凄まじいものがあった。
もちろん臨時の下っ端ではあったので、儀式用の衣などは扱えず、女王が私的な場で着るような衣に刺繍を施していったのだが、そのあまりの手の速さに女中頭が仰天し、「少し休んできてよい」とまで言われるほどであったのだ。
ふう、と雨星は息をついた。
すっかり日も暮れて、涼しい秋の夕べである。
部屋の殺伐とした空気から逃れ、庭に面した廊下のへりに座り、一人夜風を浴びていた。
休むついでに、各部屋をこっそりと覗いてみたりもしたのだが、髪を振り乱す女中たちの中に、紅雪と思われる人物の姿はなかった。
(そもそも、割符が割れたときに一緒にいたからといって、同じく過去につながるわけではないのかもしれない。嘉月さまと会った時も、冬来の姿はどこにもなかったし)
だとすれば、紅雪は、現在の……。
嫌な考えが頭をかすめ、雨星はぶんぶんと首を振った。とにかく今は、ここでできることをするしかない。どうすれば今に戻れるかがわからない以上、ここで過ごすしか道はないのだ。
「よし」
軽く頬を叩くと、ぐう、とお腹が鳴った。
そういえば、朝に胡麻団子を一つ食べたきりで、それから何も口にしていないのだった。
するとその時、小さな笑い声がどこかから聞こえてきた。
くつくつと喉を鳴らす、忍び笑いだ。
周囲を見回すが、誰もいない。廊下の向こうにも、庭先にも。不思議に思っていると、
「こっちだ」
上から声がした。
ちょうど真上。庇の上から顔だけ覗かせていたのは、見覚えのある少年だった。
「冬来」
なぜここに、と目を丸くして雨星がつぶやくと、彼は、軽い身のこなしで庭先に降り立った。腫れがやや引いて、すっきりとした白い顔があらわになっている。
「無事に針子部屋にたどり着けたかどうかが気になって、見に来たんだよ。で、そのまま帰ろうとしたら、腹の虫が聞こえたもんだから……」
笑っちまって、と。
そして、ごそごそと黒い衣のふところを探った。取り出したのは、竹の皮に包まれた、いくつかの丸餅だった。中王国のものとよく似ており、きれいに焼き色がついていた。
「これ、やるよ」
「でも、これは、あなたの……」
「いいんだ」
彼はそう言って、丸餅の一つにかじりついた。
「適当に、厨からかっぱらってきたやつだから。朝の団子の礼だ」
「かっぱら……」
ほら、と差し出され、受け取らないわけにもいかず、雨星はありがたく頂戴することにした。
餅は、醤か何かが塗ってあるのか、一口かじると、甘じょっぱい味がして、とても美味しかった。
それにしても、と雨星は思った。冬来がまとうのは、山箭の黒い衣だ。山箭は、王を守る私兵だと彼は言っていた。こんなところでふらふらしていて、怒られないのだろうか。それとも、雨星と同じように休みをとっているだけなのか。
そういったことを雨星が尋ねると、冬来は、「おれは山箭じゃない」と言った。
「え?でも、その格好は……」
「させられてるだけだ。おれは山箭になる気はないし、鍛錬もしてない。うるせえおっさんがしつこく追いかけてくるけど、逃げ回ってる」
(ああ、あの時の……)
朝のあの、凄みのある怒鳴り声は、その『うるせえおっさん』の声だったというわけだ。おそらく、彼の上役にあたる人物なのだろう。
「そんなになりたくないなら、城を出ればいいのでは?閉じ込められているわけではないんだろう。家に帰れば、それですむ話じゃないか」
「帰る家のあるやつは、山箭になんてならない」
餅をかじりながら、冬来はさらりと言った。
「おれは寝る場所と、食い物があるからここにいるだけだ。女王に仕える気もないし、ましてや命を懸けるつもりもない。……まあ、そうやってタダ飯食らいしてるせいで、他のやつらは、おれのことが気に食わないらしいけど」
「まさか、今朝はそれで殴られていたのか」
「まあな」
なんてことはないとでも言うように、肩をすくめてみせる。実際に、ああいったことが日常茶飯事なのだろうと思われた。雨星が何かを言おうと口を開けると、それを遮るように、「ん」と竹筒が差し出された。水だ。
「そういうあんたは、どこから来たんだよ?髪が赤いし、ブリシェ人なのか?たまに、船が来るのを見かけるぜ。城に入れたってことは、それなりの身分のひと?」
「違うよ」
雨星は思わず苦笑した。
「もっと遠くから来たんだ」
「遠く……?」
そう───今ははるか遠くだ。
だがそれでも、雨星には帰る家がある。つらいことから逃げ出して、駆け込めるような場所が。愛してくれる家族がいて、何でも話せる親友がいる。
帰る家のあるやつは、と冬来は言った。
殴られても、追いかけ回されても、それでもここにいるということは、彼に帰る家はないのだろう。帰る家はなくとも、父母はいるのだろうか。きょうだいは。友は?
さみしくはないの、とぽつりと問いかけた雨星に、冬来は驚いた顔をした。
「さみしい?」
「うん」
冬来は、どうかな、とつぶやいた。腕を組み、うなる。
「考えたことなかったな。さみしい……さみしいか。父親のことも母親のことも、恋しいと思ったことは、あまりない。どっちもクズだったし」
雨星が目を丸くすると、そんなもんだよ、と彼は笑った。
「おれの母親は、山箭だったんだ。真子女王に仕えてた」
え、と雨星は口を開けた。
「そうなの?」
「ああ。でも、おれを生む前にお役御免になった」
殺されなかっただけましだ、と彼は言う。
「山箭の役目を放棄して、城内で働く男にうつつを抜かしたんだ。それでおれを身ごもった。自業自得だ」
冬来の母親は、真子女王に仕える山箭でありながら、城内での色恋沙汰に夢中になってしまったのだという。それも、相手は、城下町に妻子のある男だった。身ごもったことでそれがばれ、山箭を辞めさせられた。
「どこにも行くあてがなくて、結局、その男を頼ったんだ。本妻と子供がいる屋敷の片隅で、隠れるようにしておれを生んだ。……馬鹿な女だよ。結局それで、いないもののように扱われ続けて、あげく心を病んで……」
自害したのだ、と。
「───」
「男のほうは、残されたおれが邪魔だったんだろうな。山箭にでもなれと言われて、城内に放り込まれた。まあ、どっかの山に捨てられなかっただけましなんだろう。あいつのことを、父親だと思ったことは一度もない。ましてや、恋しいと思ったことなんて、絶対に───」
冬来はそこで、言葉を止めた。
雨星を見つめ、目をしばたたかせる。
「なんで、あんたが泣くんだよ?」
「だって」
雨星がまばたきすると、そのたびに、涙のしずくがこぼれ落ちた。
「ごめん……」
「いや、別に、謝る必要はねえけど」
冬来はもごもごと言う。
「変な話しちまって、こっちこそごめん」
「違う。ごめん。そうじゃないんだ……」
雨星は両手で顔を覆った。涙が止まらなかった。
───冬来は、雨星のことを守ると言った。
力の及ぶかぎり、おまえを生かし、おまえの望む場所にともに行こうと。その言葉どおり、彼は身を挺して、命を懸けて、雨星を守ろうとしてくれた。
(でも、だったら───あなたのことは、誰が守ってくれるの?)
「あなたの、お母さんは……」
雨星は涙を拭いながら、ぽつりと言った。
「馬鹿なんかじゃない。すごいひとだ。あなたのことを、本当に愛していた」
冬来は一瞬、虚をつかれたような顔をしたが、すぐに顔をしかめた。
「そんなはずない」
「ううん。きっとそうだ」
雨星は続けた。
「大事なことって、いっぱいあるだろう。その全部を、ずっと抱えていられればいいなって、わたしはいつも思うんだ。けど、現実はうまくいかない。どれか一つを選べと言われて、他のものは諦めろと迫られる。……わたしは勇気がなくて、どれも選べなくて、こんなところまで流されてしまった。でも、あなたのお母さんは違う」
「……」
「あなたのお母さんは、たくさんある大事なことの中から、あなたを選んだんだ。他のすべてを諦めることになってしまって、つらくて、最後には命を絶ってしまったのかもしれないけれど……でも、あなたを道連れにはしなかった。それはきっと、あなたを愛していたからだと思う」
冬来は、何か言いたげに口を開いたまま、雨星を見つめていた。
やがて、その唇をかすかに動かし───、
「雨星?」
ふいに聞こえたその声に、びくりと肩を震わせたのだった。
「どこにいるの?女中頭が呼んでるわよ」
雨星を呼びに来た、針子の誰かだろう。
その足音がこちらへとやって来る前に、冬来は、目にも留まらぬ速さで屋根の上へと跳び上がった。そして、そのままさっと姿を消してしまった。
「あ……」
振り向きもせずに去っていった姿に、雨星は少し後悔した。
知ったような口で、余計なことを言ってしまったと思ったからだった。彼を傷つけてしまっただろうか。それとも、怒らせてしまっただろうか。最後に彼は、何と言おうとしていたのだろう?
(もう、会いに来てはくれないかもしれない……)




