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第七話 分岐

 パキン。

 足元で、何かの割れる音がした。

雨星(うせい)!」

 伸ばされた紅雪(こうせつ)の手を取る。

 だが次の瞬間、床が消えた。強烈な浮遊感に見舞われ、思わず目を閉じた拍子に、つないでいたはずの紅雪の手を離してしまった。

「紅雪!」

 極彩色に乱れる暗闇に向かって、雨星は叫んだ。

 あの池で溺れた時と同じように、体が重い。息ができるがなぜか苦しく、上も下もわからなくなる。雨星はもがき、探した。どちらへ行けば、正しい道なのか。

(戦うか、逃げるか)

 どちらが正しい?

『雨星』

 誰かが呼んだ。

 振り返ると、男が立っていた。それは血まみれの霜飛(そうひ)のようにも見えたし、刀を手にした冬来(ふゆき)のようにも見えた。彼らは、雨星に向かって手を差し出していた。こちらへ来い、とでも言うように。

(わたしは……)

 突然足元をすくわれ、雨星は転倒した。

 流されていく。

 もう何も選べない。

 そもそも、正しい道などあるのだろうか。誰かにとっての正しい道は、別の誰かにとって、間違った道なのでは?

 闇の中で、何かが金色に光る。

 懐中時計だった。カチ、コチと音を立て、針が動く。逆に進み、どんどんと時をさかのぼっていく。

(進むのか、戻るのか)

『こちらへおいで』

 ふいに手を引かれた。

 だれ、と問いかける。姿は見えない。

『ありがとう。おまえのおかげで、わたくしはもう、あの冷たい場所で迷わずにすむ。ようやく、あのひとのもとへ行くことができる。ありがとう、雨星』

 優しく歌うような声音だった。

『おまえも、迷わずにお行き。さあ、あそこだ』

 手を引かれた先には、光があった。

 待って、と思わず雨星は口走っていた。行かないで、教えて欲しい、わたしはどうすればいいの───と。だが答える声はなく、代わりにそっと、背中を押された。

(待って、まだたくさん、話したいことが───)

 ふっと、宙に放り出される。

 バキバキバキ、という、すさまじい音と衝撃に揉まれながら、雨星は落ちていった。

 わああ、と悲鳴を上げ、手足をばたつかせる。もうだめだ、と雨星は思った。このまま自分は、地面に叩きつけられて死ぬ。父とともに扇市(せんし)に帰ることもできず、紅雪とまた、他愛ない話をしながら刺繍することもかなわず……。

「痛い!」

 そんなことを考えている間に、着地していた。

 だが、思いのほか固くない。むしろ柔らかい。そしてまた、あたたかいような。

「わあ!」

 雨星は慌てて飛び退いた。

「ごめんなさい!」

 そこには人が一人、倒れていた。

 若い男のようだ。周辺には、折れた枝が無数に落ちている。雨星が下敷きにしたその男は、かろうじて生きてはいるようだったが、ぴくりとも動かなかった。

(だ、大丈夫かな……?)

 雨星はそっと男の顔を覗き込み、そしてそばにある木を見上げた。おそらくあの上あたりから、自分は落ちてきたようだった。死ななくてよかったとほっとするが、一歩間違えたらどちらかが死んでいたと思うと、ぞっとした。

「だ……」

 その時だった。

 背後から小さな声がした。

 しまった、見られていた───と思いながら、振り返る。

 驚いた顔でそこに座り込んでいたのは、おおよそ十歳くらいの少年だった。

「あんた、誰だ。なんで、木の上から……」

 目を真ん丸にして、雨星を見ている。

 まずいことになった、と思った。どう説明すればよいものか。

「ええと、わたしは……」

 ごにょごにょと喋り出してから、雨星はあることに気づき、口をつぐんだ。

 少年の小さな顔が、赤く腫れ上がっていたのだ。それだけではない。はだけた衣から見える腹や、手足にも同じようにあざがある。明らかな暴力のあとだった。

(ひどい。こんな小さな子を)

 ちらりと、倒れている若い男に目をやる。

 少年よりもだいぶ年かさだが、彼も若い。まだ青年だ。二人とも、同じような黒装束を身にまとっていた。雨星が目線を戻すと、少年は、殴られたことを恥じるかのように目をそらし、あざだらけの体を衣で隠した。

(そうだ。そういえば、あれが……)

 その場に膝をつき、雨星は、少年と目線を合わせた。

 不審そうにこちらを見る彼へと微笑みかけ、衣のふところを探り、懐紙(かいし)の包みを取り出した。手のひらの上で、それを広げてみせる。

 少年は、興味を引かれたように首を伸ばした。

「……それ、何だ?」

胡麻団子(ごまだんご)だよ。中に餡が入ってる」

「胡麻団子……」

 食い物か、とつぶやき、つばを飲む。どうやらお腹が空いているらしい。

「これをあげるから、わたしが木の上から落ちてきたことは、誰にも言わないでおいてくれる?わたしも、ここできみと会ったことは、黙っていてあげるから」

 そう言って、雨星が困ったように笑うと、少年は目を丸くして彼を見つめた。

 食べ物につられてか、その微笑みにつられてかはわからないが、一瞬ぼんやりとうなずきかけた彼だったが、慌てて首を振り、打って変わって疑わしげなまなざしで雨星を見た。そして、指先で胡麻団子を軽くつつく。

「毒でも入ってんじゃないだろうな」

「入ってないよ。ほら」

 その場で、三つあるうちの一つを口に入れてみせる。すっかり冷めて固くなってしまっていたが、美味しかった。

 少年はなおも警戒していたが、雨星が美味しそうに頬張るのを見て、我慢できなくなったのか団子に手を伸ばした。獣のようにくんくんとにおいを嗅いだ、その時。

「うーん……」

 かたわらから低くうめく声が。

 気絶していた青年が、目を覚まそうとしているのだ。

 少年ははっとして、手の中の胡麻団子と、雨星とを見比べると、

「来い」

 と、手を差し伸べてきた。

「え?」

 戸惑う雨星の手をつかみ、そのまま足早に歩いていく。

 (やぶ)をかき分け、森の中を進んでいった。こっちだ、と少年が示した先、生い茂る枝葉を抜けると、突然視界が開け、あらわれた光景に雨星は息を呑んだ。

 町だ。渓谷に立派な町が広がっている。

「気をつけろ」

 言われて足元を見下ろすと、苔と雑草に覆われた石段がある。欄干(らんかん)も何もなく、一歩踏み出せば、向こう側は断崖絶壁だった。

「すごい……」

 美しい景色だった。

 町は輝いていた。隙間なく連なる屋根瓦が、黒々として美しいのだ。

 穏やかな陽光に照らされて、周囲の山々が錦に染まっている。赤や黄に色づいた葉が、谷間を吹き抜ける風に舞い飛んでいた。至るところから立ち上る白い煙が、大勢の人間のざわめきが、活気のある集落であることを教えてくれている。

 知らない町。知らない景色。

 それなのになぜか、懐かしい。

「座れよ。突っ立ってると危ないぞ」

 石段に腰掛け、少年が言う。雨星はその隣に腰を下ろした。

 少年はようやく胡麻団子に口をつけた。半分ほどをかじり、ぱっと目を輝かせる。どうやら口に合ったと見えて、すぐさまもう半分も口の中に放り込んでいた。

「こっちも食べる?」

 最後の一つを差し出すと、彼はすぐに手を伸ばそうとしてやめ、じとりと雨星を見た。

「あんた、新しい女中か何かか」

「女中……」

 いやわたしは男で、と言いかけ、もはや訂正するのも面倒になり、ため息をつく。

 答える代わりに、少年を見た。ごまかしはききそうにない。黒い瞳の目は鋭く、利発そうな顔立ちをしている。髪は耳にかかる程度と短く、黒い衣の袖や裾から伸びる手足は、痩せてはいたが、しなやかだった。

「逆に聞いてもいいかな」

 雨星の言葉に(いぶか)しげな顔をした少年だったが、胡麻団子が警戒心を解いたのか、しぶしぶながらうなずいてくれた。

「───ここはどこ?」

「はあ?」

 頭がおかしいのか、という顔をされた。

(まあ、当然か……)

 ───雨星にはなぜか、祥月殿(しょうげつでん)の庭で、父と紅雪と再会して以降の記憶がない。

 気がつけば、あの大きな殿舎(でんしゃ)の中におり、状況がつかめないままに、冬来と赤毛の山箭(さんや)の戦いが始まってしまった。おそらくだが、雨星は───あの赤毛の山箭に、割符(わりふ)を投げつけられたのだ。それが足元で割れた。ちょうど同じ瞬間に、紅雪と手をつないでしまったために、彼女はその移動に巻き込まれた。そしてはぐれてしまったのである。

(でもきっと、近くにいるはずだ)

 だが、どの程度近くなのかがさっぱりわからない。あてがない。どうしたものか、と雨星は思った。

 すると、団子を食べ終えた少年が、どこか憐れむような目で雨星を見た。

「城の中にいるってことは、きちんと大門(だいもん)を通ってきたんだろ?そこからどうやって迷子になれるんだよ。御ノ内(おんのうち)は一本道だろうが。まあでも、いくら迷ったからって、木の上に登るのはどうかと思うけどな。で、どこに行くつもりだったんだ?」

「……ん?」

 雨星はややうなだれていた顔を上げた。

(……城?)

 王宮ではなく、城と。

 だから、と苛立たしげに少年は言い募る。

「女王の即位式に向けて、今、臨時の女中を雇ってるんだろ。そのためにここに来たんじゃないのか。特に針子部屋(はりこべや)はてんやわんやだっていう噂だから、そこに行くつもりだったのかと思ったんだけど、違うのか?」

(───女王?)

 そうか、そうだよ、当然だ、と雨星は思った。

 もやがかかったようにぼんやりとしていた頭が、すっと晴れた気がした。

 そんな簡単なことに、なぜ思い至らなかったのだろう。あの赤毛の山箭が持っていた割符で、雨星たちは()()につながったのだ。

 ならば当然、()()は。

 この場所は。

新賜(あらたま)だ)

 なんてことだ、と雨星は今さらながらに焦りだした。このままではまずい。大変なことになる。早く、紅雪を見つけなければ。女王よりも先に!

(でも、どうやって?)

 雨星は、おのれの頬を手挟んだ。女王の城の中で、女王に見つからないように、どこにいるかもわからない紅雪を探す───不可能だ。どこかで、待ち合わせでもしていないかぎり。

(待ち合わせ……)

 雨星ははっとした。

「それだ!」

 突然叫び、少年の肩をつかむ。

 何なんだよ、と文句を言う少年に構わず、その肩をガクガクと揺さぶった。

「針子部屋だ。そこに行けば会えるかも!」

「はあ……?」

 道を教えてくれ、と勢い込む雨星に気圧される形で、少年はここからの道順をざっくりと教えてくれた。新賜の城は山城(やまじろ)となっていて、今はちょうど中腹あたりであり、もう少し登ったところが南殿(なんでん)という区画になっていて、そこに針子部屋があると。

「助かった。ありがとう」

「別に」

 食い物もらったし、とそっぽを向きながら言われる。照れているのだ。

 さっそく立ち上がり、そういえば、と雨星は思った。

「きみの名前を聞いてなかったね。───わたしは、雨星だ」

 少年はちらりと雨星を見上げ、しぶしぶといった様子で答えた。

「……冬来」


               **


「───冬来?」

 思わず、口の中でその名を繰り返した。

 脳裏に浮かぶのは、あの黒い獣のような男だ。

 彼は、痩せた手足の少年ではありえない。胡麻団子を頬張り、目を輝かせるような子供ではない。笑ったり、泣いたりする、人間らしいことから、ほど遠い場所にいるような男だ。

 ただの偶然?

 名前が同じだけ?

「?そうだけど、何だよ?」

 動かなくなってしまった雨星を、冬来がどことなく心配そうな目で見つめてくる。それは記憶に新しい、あの優しいまなざしだった。

(違う)

 偶然なんかじゃない。名前の一致でもない。

 この少年は、冬来だ。あの冬来と同じ。

(───そうか。ここは、過去なんだ……)

 愕然(がくぜん)とした。

 なぜ気づかなかったのだろう。昼夜が違う。季節も違う。過去に移動し、嘉月(かげつ)と出会った時と同じ。また割符によって、過去につながってしまったのだ。だとすれば一体、どれくらい前にいるというのだろう。()()冬来がおおよそ三十歳前後だとして、今のこの少年は、十歳か、少しばかり上くらいに見える。

(二十年前?それよりもっと?)

 まだ、雨星は生まれてすらいない。

(だったら)

 今の女王は。

「もう一つ、教えて欲しいことがある」

 雨星がずいっと身を寄せると、冬来はのけぞった。

「この国の、今の女王って───」

「冬来!どこだ!」

 その時だった。

 凄みのある怒鳴り声が、あたりに響き渡ったのだ。

 声音からして男だが、先ほどの青年ではなく、やや年のいった別人だ。冬来のことを探しているようだった。

「さぼるな!出てこい!ぶっ飛ばすぞ!」

「チッ」

 その声に舌打ち一つ。

 冬来は、悪いけど、と雨星に告げて、さっと立ち上がった。

「おれは逃げる。道順は覚えたか?」

「え?」

 針子部屋への道のことだ。雨星が曖昧にうなずくと、彼は呆れたように苦笑した。

「大丈夫かよ。あんた、なんかぼうっとしてんな。道に迷ってももう、木に登ったりすんなよ。あと、あれだ。───団子、うまかった。ありがとう」

「冬来」

 そして、ぱっと風のように走り去ってしまう。その小さな背中は、瞬く間に見えなくなった。取り残されたのは、心もとない様子でたたずむ、雨星が一人。

(冬来……なの?)

 本当に、彼なのだろうか。

 先ほど確信したばかりだが、もうすでに自信がなかった。

(考えていても、仕方ない)

 ともかく、ずっとここで立ちつくしているわけにはいかないのだ。

 紅雪を探す。そのために雨星は、教えられた道を歩き出した。




(きっと、あれがそうだ)

 黒々と輝く屋根瓦の、大きな建物が見えてきた時、雨星は思った。

 門の前には、門番が二人立っており、なぜかうんざりとした表情をしていた。

「入れ」

 雨星が何かを言う前に、すんなりと通される。

「え、でも」

「いいから、さっさと入れ。新しい針子だろう。……とにかく、中に行けばわかる」

「?はあ……」

 首を傾げながらも、雨星は門をくぐり、奥へと進んでいった。

 恐る恐る中を覗き込んだ、その瞬間、

「あなた!そこのあなた!」

 いきなり呼びかけられる。

 雨星がおのれを指差すと、「そう、あなたよ!」と女が言う。

 女は、腕にたくさんの反物(たんもの)を抱えていた。香色(こういろ)の袴をきっちりと着こなしていたが、髪は大いに乱れている。

「新しく来た人ね!ああ、助かったわ。とりあえずそこに置いてあるもの全部持って、一緒に来てくれる?」

「そこ?」

 とある一間に乱雑に置かれていたのは、さまざまな色合いの布地だった。

 濃藍(こあい)薄紅(うすべに)浅葱(あさぎ)山吹(やまぶき)……それらが、山のように積まれている。

「え?全部?」

「そう、全部!」

 早く、と急かされ、雨星は積み重なった布地を一息に抱え上げた。崩れそうになったところを、よろめきながらこらえ、女とともに廊下を小走りする。

「あなた、見た目よりも力持ちね。よかったわ。追加の布を運ぶひとがいなくて」

「大変そうだね」

「当たり前でしょ!今はもう、このとおり、どこの部屋も手が足りなくて」

 長い廊下を歩きながら見渡すかぎり、同じ格好をした女たち───針子たちが、布にへばりつくようにして作業を進めている。てんやわんやとは冗談ではなかったのだな、と雨星は思った。

「話は聞いてるでしょうけど、即位式を二日後に控えていて、それに向けての衣装やら何やらを仕立てないといけないの。あまりに急な話だったから、とにかくみんな、寝る間もなくこうして作業を進めているのだけど……」

「間に合わない?」

 雨星が尋ねると、女は、とんでもない、と据わった目を向けてきた。

「間に合わせないといけないのよ。でないと、首が飛ぶわ」

「首が……」

 それははたして、仕事のほうの首なのか、本物の首なのか……恐ろしくて聞くことはできなかった。

「わたしは、刺繍なら得意だ」

「本当?それは助かるわ。一番手が足りてないところよ。あなたは……」

 ふと、雨星の全身を眺めて、訝しげに眉を寄せる。

「ブリシェ人?まあ、あそこのひとは手先が器用だって言うしね。大門を通っているなら身元はたしかだろうし、今は誰であろうと大歓迎よ。お姫さまだろうと山箭だろうと……針を持つ手があれば十分だわ。頑張って」

「わかった」

 雨星はうなずき、にっこりと笑った。




 その後、針を持った雨星の邁進(まいしん)は、凄まじいものがあった。

 もちろん臨時の下っ端ではあったので、儀式用の衣などは扱えず、女王が私的な場で着るような衣に刺繍を施していったのだが、そのあまりの手の速さに女中頭(じょちゅうがしら)が仰天し、「少し休んできてよい」とまで言われるほどであったのだ。

 ふう、と雨星は息をついた。

 すっかり日も暮れて、涼しい秋の夕べである。

 部屋の殺伐とした空気から逃れ、庭に面した廊下のへりに座り、一人夜風を浴びていた。

 休むついでに、各部屋をこっそりと覗いてみたりもしたのだが、髪を振り乱す女中たちの中に、紅雪と思われる人物の姿はなかった。

(そもそも、割符が割れたときに一緒にいたからといって、同じく過去につながるわけではないのかもしれない。嘉月さまと会った時も、冬来の姿はどこにもなかったし)

 だとすれば、紅雪は、現在の……。

 嫌な考えが頭をかすめ、雨星はぶんぶんと首を振った。とにかく今は、ここでできることをするしかない。どうすれば()に戻れるかがわからない以上、ここで過ごすしか道はないのだ。

「よし」

 軽く頬を叩くと、ぐう、とお腹が鳴った。

 そういえば、朝に胡麻団子を一つ食べたきりで、それから何も口にしていないのだった。

 するとその時、小さな笑い声がどこかから聞こえてきた。

 くつくつと喉を鳴らす、忍び笑いだ。

 周囲を見回すが、誰もいない。廊下の向こうにも、庭先にも。不思議に思っていると、

「こっちだ」

 上から声がした。

 ちょうど真上。(ひさし)の上から顔だけ覗かせていたのは、見覚えのある少年だった。

「冬来」

 なぜここに、と目を丸くして雨星がつぶやくと、彼は、軽い身のこなしで庭先に降り立った。腫れがやや引いて、すっきりとした白い顔があらわになっている。

「無事に針子部屋にたどり着けたかどうかが気になって、見に来たんだよ。で、そのまま帰ろうとしたら、腹の虫が聞こえたもんだから……」

 笑っちまって、と。

 そして、ごそごそと黒い衣のふところを探った。取り出したのは、竹の皮に包まれた、いくつかの丸餅だった。中王国のものとよく似ており、きれいに焼き色がついていた。

「これ、やるよ」

「でも、これは、あなたの……」

「いいんだ」

 彼はそう言って、丸餅の一つにかじりついた。

「適当に、(くりや)からかっぱらってきたやつだから。朝の団子の礼だ」

「かっぱら……」

 ほら、と差し出され、受け取らないわけにもいかず、雨星はありがたく頂戴することにした。

 餅は、(ひしお)か何かが塗ってあるのか、一口かじると、甘じょっぱい味がして、とても美味しかった。

 それにしても、と雨星は思った。冬来がまとうのは、山箭の黒い衣だ。山箭は、王を守る私兵だと彼は言っていた。こんなところでふらふらしていて、怒られないのだろうか。それとも、雨星と同じように休みをとっているだけなのか。

 そういったことを雨星が尋ねると、冬来は、「おれは山箭じゃない」と言った。

「え?でも、その格好は……」

「させられてるだけだ。おれは山箭になる気はないし、鍛錬もしてない。うるせえおっさんがしつこく追いかけてくるけど、逃げ回ってる」

(ああ、あの時の……)

 朝のあの、凄みのある怒鳴り声は、その『うるせえおっさん』の声だったというわけだ。おそらく、彼の上役にあたる人物なのだろう。

「そんなになりたくないなら、城を出ればいいのでは?閉じ込められているわけではないんだろう。家に帰れば、それですむ話じゃないか」

「帰る家のあるやつは、山箭になんてならない」

 餅をかじりながら、冬来はさらりと言った。

「おれは寝る場所と、食い物があるからここにいるだけだ。女王に仕える気もないし、ましてや命を懸けるつもりもない。……まあ、そうやってタダ飯食らいしてるせいで、他のやつらは、おれのことが気に食わないらしいけど」

「まさか、今朝はそれで殴られていたのか」

「まあな」

 なんてことはないとでも言うように、肩をすくめてみせる。実際に、ああいったことが日常茶飯事なのだろうと思われた。雨星が何かを言おうと口を開けると、それを遮るように、「ん」と竹筒が差し出された。水だ。

「そういうあんたは、どこから来たんだよ?髪が赤いし、ブリシェ人なのか?たまに、船が来るのを見かけるぜ。城に入れたってことは、それなりの身分のひと?」

「違うよ」

 雨星は思わず苦笑した。

「もっと遠くから来たんだ」

「遠く……?」

 そう───今ははるか遠くだ。

 だがそれでも、雨星には帰る家がある。つらいことから逃げ出して、駆け込めるような場所が。愛してくれる家族がいて、何でも話せる親友がいる。

 帰る家のあるやつは、と冬来は言った。

 殴られても、追いかけ回されても、それでもここにいるということは、彼に帰る家はないのだろう。帰る家はなくとも、父母はいるのだろうか。きょうだいは。友は?

 さみしくはないの、とぽつりと問いかけた雨星に、冬来は驚いた顔をした。

「さみしい?」

「うん」

 冬来は、どうかな、とつぶやいた。腕を組み、うなる。

「考えたことなかったな。さみしい……さみしいか。父親のことも母親のことも、恋しいと思ったことは、あまりない。どっちもクズだったし」

 雨星が目を丸くすると、そんなもんだよ、と彼は笑った。

「おれの母親は、山箭だったんだ。真子(まこ)女王に仕えてた」

 え、と雨星は口を開けた。

「そうなの?」

「ああ。でも、おれを生む前にお役御免(やくごめん)になった」

 殺されなかっただけましだ、と彼は言う。

「山箭の役目を放棄して、城内で働く男にうつつを抜かしたんだ。それでおれを身ごもった。自業自得だ」

 冬来の母親は、真子女王に仕える山箭でありながら、城内での色恋沙汰に夢中になってしまったのだという。それも、相手は、城下町に妻子のある男だった。身ごもったことでそれがばれ、山箭を辞めさせられた。

「どこにも行くあてがなくて、結局、その男を頼ったんだ。本妻と子供がいる屋敷の片隅で、隠れるようにしておれを生んだ。……馬鹿な女だよ。結局それで、いないもののように扱われ続けて、あげく心を病んで……」

 自害したのだ、と。

「───」

「男のほうは、残されたおれが邪魔だったんだろうな。山箭にでもなれと言われて、城内に放り込まれた。まあ、どっかの山に捨てられなかっただけましなんだろう。あいつのことを、父親だと思ったことは一度もない。ましてや、恋しいと思ったことなんて、絶対に───」

 冬来はそこで、言葉を止めた。

 雨星を見つめ、目をしばたたかせる。

「なんで、あんたが泣くんだよ?」

「だって」

 雨星がまばたきすると、そのたびに、涙のしずくがこぼれ落ちた。

「ごめん……」

「いや、別に、謝る必要はねえけど」

 冬来はもごもごと言う。

「変な話しちまって、こっちこそごめん」

「違う。ごめん。そうじゃないんだ……」

 雨星は両手で顔を覆った。涙が止まらなかった。

 ───冬来は、雨星のことを守ると言った。

 力の及ぶかぎり、おまえを生かし、おまえの望む場所にともに行こうと。その言葉どおり、彼は身を挺して、命を懸けて、雨星を守ろうとしてくれた。

(でも、だったら───あなたのことは、誰が守ってくれるの?)

「あなたの、お母さんは……」

 雨星は涙を拭いながら、ぽつりと言った。

「馬鹿なんかじゃない。すごいひとだ。あなたのことを、本当に愛していた」

 冬来は一瞬、虚をつかれたような顔をしたが、すぐに顔をしかめた。

「そんなはずない」

「ううん。きっとそうだ」

 雨星は続けた。

「大事なことって、いっぱいあるだろう。その全部を、ずっと抱えていられればいいなって、わたしはいつも思うんだ。けど、現実はうまくいかない。どれか一つを選べと言われて、他のものは諦めろと迫られる。……わたしは勇気がなくて、どれも選べなくて、こんなところまで流されてしまった。でも、あなたのお母さんは違う」

「……」

「あなたのお母さんは、たくさんある大事なことの中から、あなたを選んだんだ。他のすべてを諦めることになってしまって、つらくて、最後には命を絶ってしまったのかもしれないけれど……でも、あなたを道連れにはしなかった。それはきっと、あなたを愛していたからだと思う」

 冬来は、何か言いたげに口を開いたまま、雨星を見つめていた。

 やがて、その唇をかすかに動かし───、

「雨星?」

 ふいに聞こえたその声に、びくりと肩を震わせたのだった。

「どこにいるの?女中頭が呼んでるわよ」

 雨星を呼びに来た、針子の誰かだろう。

 その足音がこちらへとやって来る前に、冬来は、目にも留まらぬ速さで屋根の上へと跳び上がった。そして、そのままさっと姿を消してしまった。

「あ……」

 振り向きもせずに去っていった姿に、雨星は少し後悔した。

 知ったような口で、余計なことを言ってしまったと思ったからだった。彼を傷つけてしまっただろうか。それとも、怒らせてしまっただろうか。最後に彼は、何と言おうとしていたのだろう?

(もう、会いに来てはくれないかもしれない……)


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