第六話 遷移
第二章 新賜
1
理生は、冬来と戦っていたことも忘れ、呆然と立ちつくした。
(───そんな)
理生が投げつけた割符は、目論見どおり、雨星の足元で割れた。
が、それと同時に駆け寄った紅雪が、巻き込まれてしまったのである。
理生は、二人の消えたその場所を見つめた。だが、誰もいない。当然だ。自分が割符を投げつけたのだから。すぐ近くにいる人間は、巻き込まれる。基本中の基本ではないか。
唐突に、獣のようなうなり声が聞こえたかと思うと、横ざまの衝撃が理生を襲った。
たまらず吹き飛び、床に倒れ込んだ彼の上に、冬来がのしかかってくる。
彼は理生の胸ぐらをつかむと、叫んだ。
「どこだ!」
怒号だった。彼は、力任せに理生を揺さぶった。
「あれはどこにつながる割符だ!言え!」
「……」
理生は抵抗することも忘れ、冬来を見返した。
(こいつは本当に、冬来か?)
以前にも感じた疑問を、反芻する。
理生がよく知る彼は、感情という感情が抜け落ちたような、どことなくうつろな男だった。若手の指導にあたり、致命的な失態を目の当たりにしても、声を荒げて怒ることすらしない。かといって、笑うこともない。彼が焦るところなど想像もつかず、ましてや……。
「言え!理生!」
理生の胸ぐらをつかみ、今にも殺しかねない勢いで怒りをあらわにしているこの男は、明らかにみっともなく狼狽していた。雨星が消えたことで、我を忘れ、獣のように獰猛になっていた。
「誰が───」
理生が口を開いたところで、「捕らえろ!」という声が殿舎の中に響き渡った。
それもそのはず、王宮の内部で、刀を抜き、大立ち回りをしてみせたのだ。そりゃそうなるよな、と理生は思った。新賜へとつながる割符は、先ほど投げつけてしまった。国に戻る手段は、もう何もない。冬来の持っていた割符も、とっくにどこかで処分してしまっているだろう。
(ここで詰みか)
紅雪。
なぜか、彼女のことを思った。彼女は勇敢で、聡明な少女だ。だからこそ、きっと殺されてしまうだろう。なぜならあの女王は、そういった人間をこそ、もっとも嫌う女だからだ。
「クソ」
珍しく、冬来が口汚く毒づいた。
武装した兵たちが、騒がしく殿舎の中に駆け込んでくる。このまま二人とも捕らえられ、首をはねられて終わりか、と理生は思った。
だが、冬来はそうは思っていなかったようだ。
彼は、理生にのしかかった姿勢のまま、山箭刀を振りかぶった。手の中で刃をくるりと返し、柄頭を下に持ち替えたかと思うと、それを、固い床に向かって、叩きつけたのである。
「何を」
その瞬間、景色が一変した。
背中に感じられていた冷たい床の感触が消失し、代わりに、強烈な落下の感覚が理生を襲った。荘厳な殿舎の格天井や、彩色画が、ざらりと溶けて消えていく。周囲を満たす闇は、極彩色に瞬いていた。何度使っても、この感覚には慣れない───それは、割符で、どこかにつながる時の感覚だった。
ふいに風を感じ、比較的まともな高さから地面に向かって落下した。
だが理生は、冬来にのしかかられた姿勢で移動したため、受け身が取れず、したたかに頭を打ち付けたのだった。
「ってえ」
後頭部を押さえ、うめく。
「クソが」
二度目の口汚い罵声を発したのは、冬来だった。
───こんなことに使う羽目になるなんて。
彼のそのつぶやきを、理生は聞き逃さなかった。
おそらく、この場所へつながるために使った割符のことを言っているのだろう。柄頭などという場所に仕込んでいたのだから、奥の手として、雨星を逃がすために持っていたものに違いない。ざまあみろ、と理生は思った。
「言え!」
山箭刀の切っ先が、喉元に突きつけられる。
「ふざけるな。誰が教えるか!」
理生は言い放ち、冬来の顔面に向かってつばを吐きかけた。
わざとらしく、ケタケタと笑ってみせる。
「残念だったな。行き先を知ったところで、もう遅い。雨星はすぐに殺されるだろう。ざまあみろ。これが報いだ」
「貴様」
理生は大きく足を振り上げると、のしかかる冬来の首を挟み込んだ。
そのまま締め上げようとするが、そううまくはいかず、冬来は身を捻ってするりとそれを抜けた。同時にのしかかりから解放された理生は、すばやく起き上がり、短刀を向けた。
「なぜ慶を殺した!」
踏み出した足が、やけに沈み込む。足元は、どうやら砂地のようだ。あたりは暗いが、背後からうっすらと明かりが差し、正面から波の音がすることから、海岸だろうと推測できた。
「なぜ仲間を殺した。言え!」
冬来は答えず、無言で突っ込んでくる。
速い。かろうじて刃を避けるが、重い回し蹴りが襲いかかった。
「……っ!」
側頭部に直撃しそうだったそれを、手甲で防御する。骨のきしむ音がした。
理生は逆の手で、完全に冬来の死角になる位置から、鉄針を投げつけた。普通の人間であれば、確実に当たる距離であり、隙であったはずだ。だが、冬来は普通の人間ではなかった。
(な───)
見えているはずもない鉄針を、いとも簡単に弾いたのである。
理生は驚愕し、そのわずかばかりの隙が、この戦いの決定打となった。
足を払われ、あっけなく砂浜へと倒れる理生。うつぶせに押さえつけられ、両の手を締め上げられた。
「あれは、新賜につながる割符だな?」
答えなければ一本ずつ折る、とでも言うように、冬来の手が理生の指にかかる。
クソが、と理生は毒づいた。
「てめえは死ぬべきだ。おれたちはみんな人殺しだが、あんたは仲間を殺した。それだけは許されないことだ。死んで償え!」
そう威勢よく言うものの、しかし身動きが取れない理生は、同じ口で、殺すなら殺せよ、と挑発した。強がりではなく、半分ほどは本当にそう思っていたからだった。すべてはうまくいった。おれの役目は、これで終わり。あとは、女王が約束を果たしてくれさえすれば。
(ただ)
紅雪。彼女だけが。
「そうか」
冬来は低くうなずき、なら死ね、と続けた。
「おい、ふざけんな!」
理生は、腕一本くらいの犠牲を覚悟して、反動をつけて身を捻った。転がるようにして、振り下ろされた刃をかわす。理生のうなじに突き立つはずだった山箭刀は、砂浜に深く突き刺さった。理生はぞっとした。
「てめえ、生真面目かよ。そう言われて、本当に殺すやつがいるか!」
「……」
冬来は無言で立ち上がり、山箭刀を抜いた。
理生は舌打ちした。あの殿舎の中で、山箭刀を手放してしまったのは痛手だった。こちらには短刀と、残り少ない鉄針しかない。大きく呼吸を繰り返しながら、理生は冬来を見据えた。自分より一回りは年上の山箭。もっとも腕の立つ男。一見して、変わった様子はないが……。
(雑だ。何もかも)
攻撃も、防御も。一手一手に焦りが見える。
動揺で切っ先が鈍り、体術にもキレがない。早く決着をつけようと焦るあまり、とどめを刺すことに失敗している。それも、何度も。いつもの冬来であれば、考えられないことだった。
理生は短刀を逆手にして構え、地を蹴った。一気に肉薄する。
「戻ったって無駄だ!」
煽りながら、息をつく間もなく斬りかかる。
右から左へ。上から下へ。かわされ、いなされ、反撃される。だが、理生は攻撃の手を止めなかった。どうせ雨星は殺される、無駄足だ、などと大げさに嘲笑いながら、短刀を振る。冬来が苛立っていくのが、手に取るようにわかった。
「今から戻ってどうする?そんなに雨星の死体と対面したいのか?あの女王の性格は、あんたのほうがよく知ってるだろ。まあ、あんたが死にに行くって言うんなら大歓迎だし、喜んで見送ってやるけどな。だが、助けようと思ってんなら無駄だぜ。もう、どうしたって間に合わない。きっと今頃───」
「黙れ!」
山箭刀の大振り。
冬来の体が、がくりと傾いだ。砂浜に足を取られたのだ。
「……っ!」
今だ。
無防備にさらけ出された首筋に、短刀を突き立てようとする。だが。
「───」
がつりと足をつかまれた。冬来の手だった。二人はもろともに体勢を崩し、もつれ合うようにして砂浜に倒れ込む。お互いに刃を持った腕をつかみ合い、上へ下へと入れ替わりながら、ごろごろと転げ回った。
「なぜだ!」
理生は叫んだ。
刃を挟んで。
冬来の、見たこともないような必死の形相に、顔をぐっと寄せて。
「なぜそこまでする!あんな子供に、一体どんな価値がある!あんたがそこまでする理由は何だ!仲間を殺してまで!女王を裏切ってまで!すべてを捨ててまで、なぜ、あんたは雨星を助けようとするんだ!」
「愛しているからだ!」
冬来は叫んだ。
勢いに任せて、そう、叫んでしまってから───はっとしたように口をつぐむ。
理生はぽかんとした。
開いた口が塞がらなかった。
(今、何……)
冬来は今、何と言った?
愛しているから?
(そんなんでいいのか?)
ぽつりと思ったのは、そういうことだった。
そんな理由でいいのか。そんなことでできてしまうのか。すべてをかなぐり捨てることを───愛しているから、という、たったそれだけのことで。
冬来が大きく舌打ちし、上にいた理生の腹を蹴り上げた。
完全な不意打ちだったために、受け身も取れず、理生は砂浜に転がる。うずくまり、激しく咳き込む彼に、だが、冬来はとどめを刺そうとはしなかった。深い───とても深いため息をつくと、刀を鞘に収め、理生に背を向けて歩き出す。
「ちょ……」
思わず、待て、と呼びかけてしまってから、そんな必要はなかったと気づく。
あまりのことに拍子抜けしてしまって、その背中に鉄針を投げるとか、斬りかかるとか、そういった考えがすっぽ抜けてしまったのだ。
「まさか、本当に戻るつもりか」
問いかけるが、冬来は立ち止まらない。
理生は全身の痛みにうめきながら、起き上がり、周囲を見回した。
(ここは……)
見上げれば、満天の星。
肌を撫でる風は湿っていて、潮の香りがした。寄せては返す、波の音。橙色に浮かび上がる、街明かり。港町だ。どこか見覚えのある風景だった。
しばらくして、ようやく思い出した。
ここは、理生と母親が、新賜に向かう船に乗った港町だ。
(てことは)
ここはブリシェだ。理生の故郷。
「船はもう出ないぞ」
理生がそう声をかけると、冬来はようやく足を止めた。
「中王国が監視してる。それに、たとえ船が出たところで、もう間に合わない。かといって、陸路で向かうにしても───」
「だったら、おまえはそれでいいのか」
静かな声音だったが、無人の海岸にはよく響いた。
冬来の黒い目が、じっと理生を見つめている。責めるように。問いかけるように。そこにはもう、殺意はなかった。
「あの宿の娘は、おまえを必死になって止めようとしていた。死んで欲しくない、と叫んでいただろう。何の力もない、武器も扱えないような、ただの町娘が、あんな場所までおまえを追いかけ、おまえに生きろと言っていた。なのに、おまえは───諦めるのか」
(諦める?)
それでいい。それでいいんだ。仕方のないことなんだ。
そう思わなければ、生きてこられなかった。
ブリシェに帰りたい、と泣きながら死んでいった母親の顔が、今でもまぶたの裏にこびりついている。
(すべて仕方のないこと)
───本当に?
寄せては返す波の音が、夜の海が、胸をざわつかせる。
あれだけ殺してやりたかった相手を前にしているのに、手も足も出ない。
彼女の、大きな瞳ばかりを思い出す。
火明かりにきらきらと輝いて、なんて美しいのだろうと、理生は思った。
(紅雪)
もし───もしも、まだ、生きているのなら。
(助けられる可能性が、少しでもあるのなら)
馬鹿げている。そんな、わずかな可能性に賭けて、これまでのすべてを諦めるのか。女王を敵に回せば、約束はなかったことになる。これまでの努力がすべて無駄になる。愚かだとしか思えない。たった一人を助けるために、何もかもを、かなぐり捨てるなんて
(おれは……)
しばしの間、黙って答えを待っていた冬来だったが、やがて一つため息をつくと、きびすを返して歩き出した。
理生は、その背中を見つめた。
そして、待て、と声をかけたのだった。
「───戻る方法なら、ある」
冬来はぴたりと立ち止まり、信じがたいといった表情で振り返った。
「……何だと?」
「割符がある。新賜につながる割符だ」
「どういうことだ」
冬来はずかずかと歩み寄り、力なくうなだれる、理生の胸ぐらをつかんだ。
「それはどこにある。おまえが持っているのか」
「ここにはない。だが、ブリシェ国内にある」
「わかるように言え!」
理生は覚悟を決め、顔を上げた。
そして言った。
「新賜はブリシェと───正確には、ブリシェの解放軍と、密約をかわしている。それを取りつけたのは、おれだ。この国での拠点に、割符を隠してある」
その言葉に、冬来の眉間の皺が深くなる。彼は苦々しげに吐き捨てた。
「……女王は、戦争を起こすつもりか」
「そうだ」
理生はうなずいた。
「他の山箭には知らされていないが、おれは女王の命令で、何度かブリシェに渡っていた。今もなお、中王国の支配に抵抗し続けている者たち───解放軍と渡りをつけるためにだ。機を見て、新賜側は割符を用い、中王国の王宮内部から崩壊を引き起こす。その混乱に乗じて、南からブリシェが攻めるという密約だった。……今回、雨星の暗殺に成功したあかつきには、戦端を開く手はずになっていた」
冬来は額に手を当て、愚かな真似を、とうめいた。
「母親と同じ道を歩むとは」
───麗と綾の母親は、名を、真子という。
割符は、王室典範により、戦争に用いることは固く禁じられている。
しかし彼女はかつて、割符を用いて中王国に攻め込もうと画策した。そして、それに反対する勢力によって玉座を追われた。割符を管理する符官を後ろ盾に、特に強力に動いたのは、実の娘である麗だった。
真子を追いやり、当時まだ十五だった麗が、新しい女王となったのだ。
「急ぐ理由が増えた。───今すぐ拠点に案内しろ」
冬来が言う。
理生はうなずいた。
(王が変わる)
そのことには、きっと意味がある。
理生はこの目で、中王国の王が落ちるところを見た。王が変わる。王が変われば、国が変わる。新しい時代がやって来る。その先に、支配や占領とは違う未来があるかもしれない。そう信じたい。
(けど、そのためには)
綾を打倒する必要がある。
紅雪、と、理生はその名をささやいた。
(絶対に、きみを助ける)
**
それは、今までに経験したことのない感覚だった。
唐突に訪れた、絶望的な浮遊感に、紅雪は思わず悲鳴を上げた。だがその悲鳴すらも、無限の闇に吸い込まれていくのだった。あらゆる景色の、色という色が混ざり合い、極彩色の複雑な文様をなしていく。
(落ちる)
胃の腑が浮き上がるような感覚に、ぎゅっと目をつぶった紅雪だったが、実際に高所から落下することはなかった。
背中には、冷たい地面の感触が。
恐る恐る目を開けると、星空が見えた。吐いた息は白くけぶった。
(ここはどこ……?)
ゆっくり身を起こして見てみれば、地面はうっすらと白い雪に覆われていた。
どうにも明かりの乏しい場所だった。段々と慣れてきた目で見回せば、紅雪の背丈ほどに巡らされた回廊が、四方を取り囲んでいた。ここは庭のようだ。低木がきれいに整えられて茂っており、甘い香を放っていた。早咲きの沈丁花らしい。
「なんで……?」
つい先ほどまで、中王国の王宮の、一際大きな殿舎の中にいたはずだ。
(あたしは、雨星に手を伸ばして)
そしてつかんだ。二人の手が重なったと、そう思った瞬間───。
パキン。
そう、音だ。
音が聞こえた気がする。何か、固いものが割れるような。
「誰だ!」
ふいに声が響き、紅雪はびくりと肩を震わせた。
振り返ると、男と思しき人影が、真っ暗な中をずかずかとこちらに歩いてくるのが見えた。男は、腰に手を回していた。その動作には、見覚えがあった。刀に手をかけているのだ。紅雪はぞっとした。
「ここは奥ノ院の庭だぞ。軽々しく足を踏み入れていい場所では……」
男は紅雪に近づくと、刀の切っ先を喉元に向けた。
自然と上げられた彼女の顔を見て、なぜか男は息を呑み、すぐさまぎゅっと眉根を寄せたのだった。
「あなたは……」
驚きを以てつぶやかれたその声に、かぶせるようにして、
「───なにごと?」
女の声がした。
幼い少女のような物言いだったが、声音は大人の女のものだ。
回廊の上に、女が立っていた。
灯りを手にした黒装束の男たちを従え、こちらを見下ろしている。
「侵入者のようです」
紅雪の脇に立つ男が答えた。
「ここに、か?」
女が口にしたのはたったそれだけだったが、その中には、そんなわけがなかろう、そうだとしたらおまえたちは何をしていたのだ、と叱責する響きがあった。肌を刺すような強い難詰の声だ。
「は。申し訳も……」
「そなたは誰だ?」
どうでもいいとばかりに謝罪を遮り、女が問う。
紅雪に、である。そうだと気づくまでに、少し時間がかかった。
「おまえは誰か、と聞いておる」
すると、ひどく苛立たしげに、女は問いを重ねた。
美しい女だった。
濃い紫の地に、金色の大輪の花が咲き乱れる、目を見張るような艶やかな長衣を身にまとっていたが、それに負けじと面差しも華やかだ。くっきりとした目鼻立ちをしている。その、こぼれ落ちんばかりに大きな目は、無邪気に笑んでいれば可愛らしくもあろうに、今は地を這う虫でも眺めるかのような様子で、紅雪を見下ろしているのだった。
(このひとは……)
何と答えるのが正解か。
紅雪は考えを巡らせた。
最後に聞いた、パキンという音。あれはおそらく、割符が割れる音だ。理生が雨星に何かを投げつけたのは見えたが、それが割符だったのだろう。紅雪は、割れる瞬間に雨星のすぐそばにいたため、ここへつながる力に巻き込まれた。
紅雪は顔を上げ、まっすぐに女を見据えた。
何も言わない。それが、彼女の出した答えだった。
「……」
女はその目つきに、まなじりを軽く引きつらせた。そして、隣の男に対して、ごくごく軽い口調で命令する。
「殺せ」
「───」
紅雪は絶句した。
「陛下、お待ちを!」
だが意外にも、声を上げたのは命令を受けた男のほうだった。
陛下と呼ばれた女───新賜の女王、綾は、神経質そうに眉をひそめる。
「口答えするの。維人」
「決してそのようなつもりは」
「なら、なに」
低く、うなるように言う。
「この者は、雨星の知人です。見覚えがあります」
その言葉に、綾は軽く目を見張る。
「何?」
「割符のご確認を。理生かもしれません」
綾は無言で、山箭に目配せした。それを受け、一人がすぐさま回廊の向こうへと駆けていく。やがて戻ってきたその者から耳打ちを受けると、綾は、「たしかに」と口を開いた。
「理生の割符が使われたようだ。だが、なぜここにその娘しかおらぬ?」
「それは……」
維人、と呼ばれた山箭は、ちらりと紅雪を見た。
「どのような状況であったかは、見当つきかねますが、雨星も近くにつながった可能性が高いでしょう。僭越ながら、付近を捜索すべきと申し上げます。この者は、ただ巻き込まれただけかと」
綾は片眉を跳ね上げた。ならば殺しても構わぬではないか、とばかりに。
維人は、やや気圧されたようにあごを引いたが、続けた。
「……もし、雨星が冬来とともにいた場合、厄介です。先ほどは知人、と申し上げましたが、この者は雨星の親しい友人です。人質としての価値は、十分にあるでしょう。殺さず、捕らえておくのが賢明かと存じます」
ふうん、と綾はつぶやき、酷薄に笑んだ。
「ならば、そうせよ」
「はっ」
「雨星を捕らえよ。そののち、かの者の目の前でそこな娘の首をはねてやろうぞ。わらわを見るその目つきが気に食わぬゆえ!」
彼女はそう言い捨てると、高笑いをしながら回廊の向こうへと消えていった。
綾がいなくなったというだけで、ぴんと張り詰めていた冷たい空気が、わずかに緩んだように感じられる。見た目はたしかに美しい大人の女だったが、ころころと変化する表情や、口調が、気まぐれな幼い少女を思わせた。そして、その少女の無垢さそのままに、簡単に人を殺そうとするのだ。足の裏で、虫を踏み潰すみたいに。
(雨星……)
どうか逃げ延びて、と願うしかない。
「なぜ」
刀を鞘に収め、維人はため息交じりに言った。
「なぜあなたが、ここに?」
そこでようやく、紅雪は維人のことを思い出した。
肩ほどで切り揃えられた、黒髪。まだ幼さの残るその顔には、覚えがある。理生とともに宿に泊まっていた、山箭の一人だ。だから彼は紅雪のことを知っていたのだ。
「一体、どのような経緯でこんなことに?あなたはたしかに雨星の友人だが、それだけで、何の関係もないはずでしょう。こんな場所に来るような目に遭うとは、とても……」
「お願い。助けて」
紅雪が小声で言うと、維人は、面食らったように身を引いた。
「あたしのことを覚えてくれているのなら、話が早いわ。あなたの言うとおり、あたしはただ巻き込まれただけの、何の関係もない庶民。人質の価値なんて、きっと、これっぽっちもないはず。女王にそう説明して。ううん、それができないなら、ここから逃がしてくれるだけでいい」
維人は眉を寄せ、困ったように目をそらした。
「あなたのことは、誰にも言わない。約束するわ。あたしはただ、雨星と一緒に扇市に帰りたいだけなの。平和に暮らしたいだけなのよ。雨星は女王を傷つけたりしない。そんなこと、絶対にしないわ。そういう人間なの。だから見逃して。お願い」
だが維人は軽く息をつき、言い放った。
「それはできません」
冷たい風が吹き、彼の衣の袖をふわりと舞い上げた。
よく見れば維人には、右腕がなかった。彼は紅雪のことを、同情を込めた目で見はしたが、首を縦に振ることはなかった。
「残念ながら、あなたには人質の価値がある。あなたは雨星の親しい友人だ。雨星があなたの言うような、清廉な人間だったとして、そんな人物が、巻き込まれただけの大切な友人を、助けもせずに放っておくでしょうか?」
「それは……」
「雨星は必ず、ここに来る。冬来とともに。ぼくは正直、あなたのことも、雨星のこともどうだっていい。ただ───あの男を、この手で殺してやりたい。だから、あなたを逃がすわけにはいかないんです」
行きましょう、と言って、維人は紅雪を立たせた。
背中を押され、ふらつきながら歩き出す。
(どうすればいいの……)
雨星が今どこにいるにしろ、そのまま逃げ延びて欲しい。その気持ちは本当だ。だが雨星が逃げても、捕まっても、どちらにしろ紅雪は殺される。───助けに来て。そう思うのも、本当なのだった。
**
紅雪はうずくまり、明かり取りの小窓を見上げていた。
その対面に、ぼんやりと光る灯火に照らされ、浮かび上がるのは、床から天井までを塞ぐ頑丈な格子。どんなに揺らしても壊れないことは、すでにわかっていた。
(どうすればいいの……)
もうすっかり夜更けだが、眠れそうにない。
かすかにお腹が鳴る。こんな時でさえ、きちんと腹は減るのだから、人間とは不思議なものである。
ふと、物音がした。小さな足音が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
紅雪は思わず身構えたが、やって来たのが山箭ではなく、一人の老女であることに気づき、ほっと力を抜いた。老女は、膳を手にしていた。どうやら、食事を持ってきてくれたらしい。
老女はしずしずと牢の前まで歩いてくると、膳を格子の下から差し出してきた。
小さな椀に盛られた白飯と、漬物だ。紅雪はそれを受け取り、老女に頭を下げた。
「ご親切に、ありがとうございます」
礼を言われるとは思っていなかったのか、老女は、目を丸くした。
そして、なぜか一瞬泣きそうな顔をしたかと思うと、音もなく格子の前まで身を寄せてくる。髪は真っ白だが、意外にも、肌に皺は見られなかった。
「……あなたは、なぜここに?」
老女が問うてくる。そこには、確認のような響きがあった。
「なぜって……」
紅雪は困惑した。なぜかと聞かれれば、女王がそう、山箭に命じたからだと答える他にない。だが、彼女の聞きたいことはそういうことではないのでは、と思い、紅雪は言った。
「……あたしが、人質になるからだと言われました。雨星の、友達だから」
「ああ」
ああやはり、と声を上げ、老女が唐突にくずおれたものだから、紅雪はぎょっとした。発作でも起こしたのではないかと思ったのだ。
「大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫。大丈夫です。あなたは、お優しい方ですね。このような状況で、見ず知らずの女の身を案じるなど……」
「そんなことは」
「どうにかして、あなたをここから出して差し上げましょう」
その言葉に、紅雪は目をしばたたかせた。
(どう───どういうこと?)
「このようなはした女の言うことなど、にわかには信じられませんでしょうが、どうか、わたくしの話を少しばかり聞いてはくださいませんか」
紅雪が戸惑いながらもうなずくと、老女は話し出した。
「今は違う名を名乗っておりますが、わたくしのかつての名は、夕顔。───わたくしは、先代の女王、麗に仕える侍女にございました」
「え」
大声を上げそうになり、紅雪は慌てて口元を押さえた。
「……こんなところにいて、大丈夫なんですか?」
もちろん、と夕顔は答える。
「大丈夫ではございません」
そして微笑んだ。静かだが、強い意志のこもった笑みだった。
「見つかれば殺されるでしょう。ゆえに、炊事場のはした女にまで身を落とし、隠れ潜んでいたのでございます」
「なぜそこまでして……」
夕顔はその笑みのまま、どうしてでしょうねえ、とつぶやいた。
「わたくしにも、わからないのでございますよ。ただ、麗さまは、わたくしにとって娘も同然でございましたゆえ。そのお子である、あ……雨星さまは、わたくしにとっては孫も同然なのでございます。ならばわたくしにできることは、そのご友人であるあなたを、ここから逃がして差し上げることくらいでしょう?」
夕顔は微笑んでいたが、紅雪には、彼女が泣いているようにしか見えなかった。
娘のように大事に思っていたひとを殺されて、もういないそのひとのために、それでもしてあげられることを、ずっと探し続けながら生きているのだ。
その彼女の思いが胸をついたのか、紅雪の目から、涙がこぼれ落ちた。
そんな自分に驚き、彼女は慌てて袖で涙を拭う。
恐ろしゅうございましたね、と、夕顔が気遣うように言った。
「よくぞお一人で、気をたしかに持ってらっしゃいました。あなたはお優しく、とても強い方です」
「そうじゃ……」
ない、と言おうとして、そうかもしれない、と紅雪は思った。
たしかに恐ろしかった。心細かった。悲しかった。雨星に会いたかった。ずっと、こうして泣きたかったのだ。なぜなら。
(あのひとに、声が届かなかったから)
きっと、自分の声なら届くはずと、どこかで思っていた。
きっと聞いてくれるはずだと。かわしたまなざしで、言葉にならない、通じ合うものがたしかにあったと思えたから。理生も同じように感じてくれているはずだと。
(でも───聞いてくれなかった。届かなかった。あたしはなんて馬鹿だったんだろう。彼も同じように思ってくれているはずだと、思い込んで、突っ走って……家族と離れて、旅に出て、本当はすごく怖かったけど、ずっと強がってた。そうでもしなきゃ、前に進めなかったから)
彼に人を殺して欲しくなかった。死んで欲しくなかった。
そんなものより───自分を選んで欲しかった。
(あたしは、理生のことが好きだったんだわ)
顔を覆って泣き出してしまった紅雪の肩を、夕顔はそっとさすってくれた。
紅雪が落ち着くのを辛抱強く待ち、彼女は、「行きましょう」と言う。
「行くって、でも」
牢には鍵がかかっている。それに、外には見張りもいるはずだ。
しかし夕顔は、袖に隠していた小さな鍵でいとも簡単に牢を開け、紅雪を外へと出してくれたのだった。
「ありがとう……」
「安心するのは早うございます」
夕顔は言い、小脇に抱えていた包みを紅雪に渡した。
「こちらにお召し替えを。お急ぎください。もうすぐ、見張りが戻ってくる頃です」
紅雪はうなずき、彼女と同じはした女の装いに、急ぎ着替えた。
ひとまず出ましょう、と言って、夕顔は牢のある建物の外へと、紅雪を連れ出した。
「ここは北殿と呼ばれる場所です。城の外へ出るには、本来であれば道なりに下っていき、大門を通らねばなりません。ですが……」
紅雪は大きく息を吸った。
凍えるほどの寒さだったが、空が、風が心地よく、清々しいほどだった。
「こちらへ」
手燭に火を灯し、夕顔が先導する。
正面へ進むと、少し開けた場所につながっているようだった。
夕顔はそちらへは進まず、ぐるりと建物の裏側へと回っていく。
石造りの塀や門で整然と区切られた、中王国の王宮とは違い、新賜の城はすべてが鬱蒼とした森に覆われていた。山城なのだ。もっとも大きな黒い屋根瓦の御殿が、頂上にあたる位置に見えた。おそらく、紅雪が割符によってつながったのは、あのあたりだったのだろう。ちょうど今は、中腹あたりだ。
雑草だらけの、あまり使われている様子のない石段を、足元を照らしながらゆっくりと下っていった。おそらく崖か、山の斜面に面しているようで、小さな灯り一つでは、底は見えなかった。
ふもとには光が見える。
渓谷に沿って、大きな町が広がっていた。
「まだ信じられない。雨星がこの国の、王子さまだなんて」
紅雪がぽつりとつぶやくと、夕顔は彼女を振り返り、尋ねた。
「雨星さまは、中王国で、不自由な思いはされていませんでしたか」
「不自由、ですか?」
ううん、と紅雪は首をひねる。
「どうかな、毎日、楽しそうにしてたと思います。あたしたち、一緒に針子の仕事をしてたんですけど、まあとにかく、雨星は刺繍が上手で……それだけじゃなくて、とにかく針を持つのが好きだったみたいなんですけど……」
「さようでございますか」
夕顔は嬉しそうに笑った。
「たしかに、あの方は刺繍がお上手でいらっしゃいましたねえ。わたくしも、麗さまも、あの方の腕前には、とにかく驚いたことを覚えております」
(……ん?)
紅雪は首を傾げた。
(雨星が刺繍を始めたのは、扇市に来てからって聞いていたけど、違ったのかしら)
やがて暗い石段が終わり、小道があらわれた。ほぼ獣道だ。
その先を指差し、夕顔が言う。
「ここを抜ければ、物見台の横に出られます。城外へと続く大門は、ふもとにございますゆえ、そこへとつながる御ノ内を通らねばなりません」
「おんのうち?」
「今はぐるりと避けて下ってまいりましたが、本来であれば中腹にある門と、ふもとの大門とをつなぐ道にございます。ここから下は、脇道がございませんで……しかしながら、幸いにも奥ノ院などとは違い、ふもとあたりを守るのは山箭ではありませぬゆえ、何とかなりましょう」
枝葉を手で避け、藪をかき分け、獣道を抜ける。
その先には、山の斜面に沿ってうねる、きちんと整備された道があった。そしてそれを見下ろすように、巨大な岩が。よく見ればそれは、石積みの砦のような建物だった。おそらくこれが、夕顔の言っていた物見台なのだろう。
いくつもの篝火が焚かれていたが、見えるところに人影はない。
「急ぎましょう」
夕顔が短く言い、再び先導を始めた───その時だった。
「かように急がずともよい」
声がした。
夜気によく響き渡る、澄んだ声音だった。
二人は同時に立ち止まり、はっと上を見上げた。物見台の上を。
「もっとも、黄泉路を急ぐのであらば、止めはせぬがな」
冷たい風に翻る、豪華絢爛な衣。
金糸で描かれた獅子の文様が、篝火の光で、燃えるように輝いていた。
(そんな。どうして)
紅雪は愕然とし、夕顔はうめいた。
物見台の上、山箭たちを引き連れ立っていたのは、新賜の女王、綾そのひとであった。
結い上げた髪に挿された、いくつもの翡翠のかんざしが、彼女が小首を傾げるのにつれ、互いにぶつかって涼しい音色を奏でる。楽しげに見開かれた大きな目は炯々と光り、濡れたような赤い唇は満面に笑んでいた。
「なにゆえここに、という顔をしておるな。───とうとうもうろくしたか、夕顔よ。おまえの主の先見の力は、まことちっぽけなものであったが、わらわは違う。だがそこに、死んだはずのおまえの姿が見えた時には、さすがに驚いたぞ」
綾は声を立てて笑い、二人を冷たく見下ろした。
「───よもや、生き恥をさらしておったとは」
「黙れ……!黙れ黙れ!」
夕顔は激しいうなり声を上げた。
「麗さまは、おまえなどとは違う。ご自分の命よりも、まずお子の命を守ろうとなされたのだ!わたくしはその命令に従ったまで!恥ずべきことなど何もない!」
「なるほど?」
綾は、持っていた扇を口元に当てた。
「あの日、雨星と父親を逃がしたのは、おまえであったか」
「おまえだけは許せぬ……!」
夕顔はぶるぶると震えながら、ふところに隠し持っていた短刀を抜いた。
そのまま物見台を駆け上がろうとするが、いつの間にか近くにいた山箭に取り押さえられ、あえなく地に伏せる。そうなってもなお、彼女は叫んだ。
「今のこの国を見よ!重税にあえぎ、苦しむ民の姿を!国を形作るのは、王ではない!山だらけの土地を耕し、水を引き、作物を育て生きる、あらゆる民だ!麗さまが、身命を賭してよりよく変えていったこの国を、おまえは無茶苦茶にした!身を以てその罪を贖うがいい!」
「よくもまあ、負け犬のごとく吠えるババアよ」
黙らせて、と綾は山箭に命じた。
猿ぐつわを噛まされ、地面に強く押さえつけられる夕顔。
その彼女へと、思わず駆け寄ろうとした紅雪に刀を向けたのは、維人だった。彼は苦々しげに、小さく首を振る。
「おい、小娘」
綾の目が、紅雪を射抜いた。
「おまえは、健気だの。おのれが危ないという時に、友や、見ず知らずの女を気遣えるのだから。───わらわは、おまえのような健気な者が、大嫌いだ。おのれの美しい心から生まれたものであれば、正しいと信じて疑わぬ、おまえたちのことが大嫌いなのだ。麗のような、健気で、美しい心を持った者が、母上を玉座から引きずり下ろし、死へと追いやった」
ゆえに、と続けて、綾は扇の陰でウフフと笑った。
「おまえのような者を殺すと、本当に胸がすっとするのよ!」
紅雪は言葉もなく、祈るように目を閉じた。
まぶたの裏側に浮かぶのは、家族の顔だ。父母と、弟妹たち、祖父母。そして雨星。また会って、刺繍をしながら、他愛のない話をしたかった。一緒に祭りを回りたかった。
(理生)
もしもう一度会えたなら、今度はきっと伝えるのに。
あなたが好きだと。
「連れて行け」
綾は山箭に命じた。
「奥ノ院の、庭へ。───そやつらの首をはねる」




