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第五話 憑依

 中王国(なかおうこく)の都───游都(ゆうと)は、城郭都市(じょうかくとし)である。

 内宮(ないぐう)外宮(がいぐう)を囲むもの、さらに市街を囲むものの、二つの城壁があり、その守りは堅い。

 銀江(ぎんこう)陶江(とうこう)などの大河にほど近く、気候も穏やかで、土地は豊かである。

 まもなく日が沈むという頃合いの游都は、美しかった。冬至祭(とうじまつ)りの真っ只中ということもあり、大通りの脇に並ぶ建物には、数え切れないほどの赤い提灯が飾られている。街なかを縦横無尽に走る水路に、その光が反射して、足元までも赤く輝いていた。

(きれいだわ)

 雨星(うせい)と一緒にこの光景を見たかった、と、紅雪(こうせつ)は思った。

 すれ違う人々の多くは、面布(めんぷ)をつけている。軽やかな絹の面布だ。冬至祭りで着飾るのは、扇市(せんし)も都も変わらないように思われたが、時折、見たこともないほどきらびやかな装いの人々を見かけ、紅雪は、普段着のままの自分を少し恥ずかしく思った。どうせなら着飾って、雨星と二人でこの中を歩きたかった。

(雨星……)

 元気でいるだろうか。ちゃんと食べているだろうか。刺繍をする余裕もなくて、落ち込んではいないだろうか。季潤(きじゅん)の言うように、雨星が───王族であるというのなら、きちんと守られているはずだから、その点は心配いらないだろう。

「おじさん」

 紅雪は足を早め、季潤の隣に並んだ。

「話の続きなんですけど」

「うん」

「しつこいようですが、本当なんですか?にわかには信じがたくて……」

「何が」

「おじさんが、この国の王子っていうことがです」

 季潤は弱々しく笑った。

「別に信じなくてもいいよ。わたしの身上は、さほど重要なことじゃない」

 紅雪は慌てて手を振った。

「あ、いえ、おじさんが王子さまに見えない、とかそういうことじゃなくて……見えないっていうのはまあ、本当なんですけど……その、つまり、王子さまなのに、どうして王位を継ぐんじゃなく、新賜(あらたま)に婿入りしたかなと思って」

 ああそのこと、と、季潤は何でもないことのようにつぶやいた。

「わたしには、王位を継げない理由があったんだ。父はわたしを(うと)ましく思って、新賜にやった。決して友好な関係を築いているとは言えない国にね。そこで死んでも構わない、くらいに思われていただろう。わたしも、それでよかったんだ」

「それは……」

 紅雪は口を開きかけ、そっと閉じた。

 季潤の口調は軽かったが、そこには、これ以上のことは聞いてくれるな、というような響きもあった。それを感じた紅雪は、結局のところ何も言わずに、再び季潤と並び歩き出した。

 そのまま大通りをまっすぐに進み、やがて、彼は立ち止まった。

「あの壁の向こうが、外宮だ」

 紅雪は、城壁を仰ぎ見た。

 壁の上にはいくつものやぐらが据えられ、見張りが立っている。

「こんなところ、どうやって入り込むつもりなんですか?」

「内宮はともかく、外宮に入り込むのは、意外と簡単なんだよ」

 季潤はにこりと笑んだ。

「あそこは、多くの官人たちが政治を行う場だ。外交の場でもある。さまざまな人間が行き交うからね。うまくやれば、門番もいちいち細かいことは確認しないはずだ」

「何だか妙に詳しいですね」

 つぶやいてから、それも当然のことか、と思った。

(あの向こうに……)

 雨星がいる。

 そして、おそらくは。

理生(りお)も)

 その名を思うたびに、なぜか胸が苦しくなる。彼は山箭(さんや)。新賜の女王の兵。雨星を殺すためにこの国に来た。今もなお、雨星を追っている。そんな気がする。

(気のせいかしら。あなたは、苦しそうだった。悲しそうだった)

 彼に人を殺して欲しくない。雨星を、殺して欲しくない。

 何としてでも、理生を止めなければ。

(待ってて。雨星)


               **


 冬来(ふゆき)と話した日から数日、何事もなく時は過ぎた。

 今夜は、冬至祭りの最後の夜であった。

「とてもきれいだ」

 雨星が言うと、香蓮(かれん)は、おしろいを塗った頬をわずかに緩めた。

 まとうのは、淡い桃色の衣である。その上に純白の薄衣を重ね、ふんわりと色や刺繍が透けて見えるようになっていた。よくよく見れば、その薄衣のほうにも、極細の糸で北斗七星の文様を入れてある。すばらしい技術だった。

 黒髪は、横をすくい上げてかんざしを挿し、後ろを流している。

 中王国では一般的な、未婚の者がする髪型であった。

「香蓮は、結婚してないんだね」

 それを見て雨星がぽつりと言うと、極端な反応を示したのは、恵麻(えま)だった。

 かんざしを追加で挿し込む手が止まり、ぴくりと片眉が跳ね上がる。

 それ以上を口にすればどうなるか、とでも言うような恵麻の眼力に、思わず雨星が(ひる)むと、その横で香蓮が苦笑した。

「恵麻」

 いいのよ、と。

 身支度を終えた香蓮は、ふわりと裾をさばきながら椅子に座った。そして、卓に並べられている点心(てんしん)を雨星にすすめた。まだ何か言いたげな恵麻に茶の支度を命じ、下がらせると、口を開く。少し、困ったような顔で。

「しようと思えば、いつでもできるのよ」

 強がりじゃなくね、と、香蓮は力なく微笑む。

「夫の候補はたくさんいるの」

「……よりどりみどり?」

「ええ、本当にそう。でも、わたくしは……」

 香蓮はふと目を伏せて、とても大事なことを口にする時のように、言葉を口の中で転がしてから、ゆっくりと雨星に話した。

「……父さまは───国王陛下は、何年か前からお体の調子を崩されていてね。わたくしは、儀式や政務をお手伝いしていたの。最初は勝手がわからなくて、ひどく戸惑ったわ。けれど、そうこうしているうちに、もっと政に深く関わりたいと思うようになってしまったのよ」

「それは」

 雨星は思わず言葉に詰まった。特に政治に関心のない彼でさえ、この国の王は男しかなれないということくらいは知っている。

 香蓮は、わかっているとばかりに諦念(ていねん)を込めて首を振った。

「王になりたいなんて、大それたことは思ってないわ。ただ、一人の官人として、臣として、父さまを支えていければいい。それくらいに思っていたの。けれど、父さまのお具合が(かんば)しくないとなって……いよいよ、わたくしの役目を望まれる段になってしまった。夫を───新たな王を迎えるという役目よ」

「香蓮……」

「それはいいの。王女として生まれたからには、仕方のないことだと思ってる。でもせめて、父さまと母さまのような、愛のある結婚がしたい。母が亡くなった後も、父は側妃(そくひ)を迎えなかった。それはきっと、母のことを、本当に愛していたからだと思うの。わたくしも、どうせ結婚するなら、心から(した)わしいと思える相手としたい。そう思うのは、おかしなことなのかしら?」

「おかしくない」

 雨星は断言した。

 香蓮の足元にひざまずき、その手をそっと取る。

「何も、おかしいことなんてないよ。絶対に」

 目をぱちぱちとさせたのち、香蓮は微笑んだ。

「ありがとう、雨星」

 すると、いつの間にか退室していた恵麻が戻ってきて、香蓮に「姫さま、そろそろ」と声をかけた。それを受け、彼女は雨星の手を握ったまま、ともに立ち上がる。

「ごめんなさいね。もう、行かなくては」

 今夜はもっとも大事な儀式なの、と香蓮は言う。

 冬至祭りとは、帰ってきた祖霊たちに感謝を捧げる祭りであり、最後の日には、彼らをまたあちらの世界へと送り返してやらねばならず、その儀式なのだという。

茉莉(まり)を置いていくから、何か不便があったら、彼女に」

 香蓮は、雨星の少しばかり痩せた頬を撫でた。軽く息をつくと、並べられていた点心の中から、胡麻団子(ごまだんご)をいくつか取って懐紙(かいし)に包む。そしてそれを、雨星の手の上にそっと乗せた。

「逃げてもいいのよ」

 雨星ははっと顔を上げた。

「たとえ遠く離れて、二度と会えなくても───大事な人には、生きていて欲しい。それだけでいいの。ただ、生きていてくれるだけで、きっと幸せでいると、信じることができるから」

 嘉月(かげつ)の死は、幼かった香蓮の心に、深い傷を残したのだろう。今もまだ生々しく、癒えない傷が、彼女にそう言わせたのだと、雨星は思った。

「これからどうするか、代わりに決めてあげることはできないけれど、一緒に兄を待つことくらいはしてあげられるわ。あなたを守るために、助けるために、できることなら何でもしてあげる。だから生きて、雨星。わたくしはいつだって、あなたの味方よ」

「香蓮」

 雨星は目の奥が熱くなるのを感じた。渡された胡麻団子をそっと両手で包み込み、言葉なくうなずく。

「あまり、思い悩みすぎないようにね」

 そんな雨星に、香蓮は優しく言うのだった。




(このままずっと、ここにいられたら)

 雨星は、渡殿(わたどの)欄干(らんかん)に手をかけた。

 あてがわれた部屋へと戻る中途であった。

 ぼうっと目を向ける先は、夜の庭である。日はすっかり沈み、山茶花(さざんか)の咲く庭は、ぽつぽつと灯る火に照らされ、美しく浮かび上がって見えた。雲間から覗く月が、波のない池の水面に映り、白々と輝いている。

(父さん……)

 ここへ来てからすでに数日。

 生きているはずと信じて待っているけれども、時折、こんなふうに一人でいると、心が折れそうになる。父と家に帰ることがかなわないのならば、ここで、香蓮と静かに暮らしたい。それこそかなうはずがないとわかってはいたが、思わずにはいられなかった。

(いっそのこと、あの池に身を投げたら、楽になれるのかな……)

 気疲れのためか、そんなことを考えてしまう。

 あの睡蓮の池。あの池で、嘉月は溺れ死んだ。雨星にとっては、祖母にあたる人物だ。彼女もまた、今の雨星のように何かに疲れ、ふと魔が差してしまったのだろうか。いや、と雨星は思う。ほんのわずか言葉をかわしただけだが、そんな雨星にも、彼女がいかに気高く、心優しいかがすぐにわかった。あのようなひとが、幼い娘を残して自死するとはとても思えない。

(殺された……?)

 だが、誰に?

 軽く息をつき、雨星が歩き出そうとした、その時だった。

「……?」

 誰か───いる?

 池の浅瀬に、人影のようなものが見える。

 雨星はぞくりとした。その黒い影は、じっとこちらを見つめていた。その姿が一瞬、血まみれの霜飛(そうひ)のように見えて、思わず悲鳴を上げそうになる。だが実際のところ、恐怖のあまり声は出なかった。逃げ出そうにも体が動かず、目もそらせない。

(誰か)

 がくりと膝の力が抜けて、転倒しそうになった雨星を、力強い腕が支えた。

 茉莉が来てくれたのだ、と雨星は思った。

 ほっとして、その顔を見上げた雨星は、驚愕(きょうがく)した。

「冬来……!?」

 なぜここに、と思わず問う。

 縄で縛られ、扉には(かんぬき)がかけられていたはず。

(どうやって、あの部屋から)

「侵入者だ」

 彼は短く言った。

「え?」

「二人か、三人。この殿舎(でんしゃ)の中に入ってきた」

「それって……」

 あそこの、と、雨星は指差そうとして、愕然(がくぜん)とした。

(いない?どうして)

 池のほとりには、誰もいなくなっていた。

 しばし周囲を警戒していた冬来が唐突に、

「つかまれ」

 と言った。

 そして、雨星を小脇に抱えたまま、渡殿の欄干に足をかける。

「え?」

 何をするつもり、と、雨星が問いかける間もなく、冬来はその欄干を足がかりに、跳躍(ちょうやく)した。緑に塗られた柱を蹴り、屋根に手をかけ、軽やかにその上へと駆け上がる。雨星を抱えたまま、である。

(嘘でしょう)

 信じられない身軽さだった。いくら細身とは言え、人間一人を片腕に抱えて、渡殿の屋根に登るなど───尋常(じんじょう)ではない。山箭は皆、このように身軽なのだろうか。それとも、冬来が特別なのだろうか。

 突然のことに腰が抜け、雨星は、屋根の上でへたり込んでしまった。

 かすかに震える彼を見て、冬来は、追手が来たことに怯えているのだ、と思ったのだろう。音もなく、静かに、雨星のそばにかがみ込んだ。

「雨星」

 その名前を呼ぶ声の、意外なほど優しい声音に思わず、雨星は顔を上げた。

「大丈夫だ。おまえのことは、おれが守る」

「───」

 目を大きく見開いて、雨星は、彼の顔をまじまじと見つめた。

 冬来は、父のように優しく微笑んでもくれず、紅雪のように抱きしめてくれることもなく、香蓮のように手を握ってくれることもなかった。けれどたしかに、そこには───同じような優しさがあった。雨星は、触れられるよりも間近に、彼のあたたかさを感じたように思った。

(わからない。このひとのことが)

 雨星が混乱しているうちに、冬来は何事もなかったかのように立ち上がり、屋根の縁へと移動してしまった。身を低くして、上から下の様子を伺い始める。

(あなたは、わたしの、何?)

「あれは……」

 何かに気づいたのか、冬来がつぶやいた。

 どこか困惑したような声音だ。

 雨星は、這いずるようにして冬来のそばへと近づき、同じく下を見下ろした。そして、あっと声を上げたのだった。


               **


「本当に大丈夫なんですか?こっちで合ってます?」

「大丈夫。間違いないよ。祥月殿(しょうげつでん)の抜け道は熟知してるんだ」

 ほら、と季潤は言う。

 ずぼ、と生い茂った灌木(かんぼく)───庭木だろうか、その茂みを抜けて、紅雪は立ち上がった。

 所々に配されている灯火のおかげで、目の前に大きな池と、奥に殿舎らしき建物があるのが、何となく見て取れた。あれよあれよという間に、本当にたどり着いてしまったのだ。内宮の、祥月殿と呼ばれる場所に。

(入ったはいいけど、見つかったら殺されるのでは)

 紅雪は不安に思いながらも、汚れてしまった衣の裾を払った。

 すると、

「紅雪!」

 どこかから、声が聞こえた。

 雨星の声だ。紅雪ははっとして、周囲を見回すが、人の姿は見えない。彼女が戸惑っていると、紅雪、ともう一度声が聞こえ、渡殿の屋根の上から、人影が飛び降りてくるのが見えた。

「紅雪!父さん!」

 足をもつれさせながらも、こちらに向かって全力で駆けてくるのは、雨星だった。

 紅雪もまた駆け寄り、二人はぶつかり合うようにして抱きしめあった。

「雨星。よかった」

「どうして?どうして、紅雪が、なんで」

「いつもぼうっとしてるあなたが心配だったから!」

 絶対に泣くまい、と決めていたが、無理だった。

 雨星の無事な姿を見たら、涙が溢れ出た。離れていたのはほんの数日なのに、少し痩せたように感じる。紅雪は雨星の顔を手挟んで、じろじろと見つめた。やつれてはいたが、変わらない。たしかに雨星だった。

「よかった。あなたが無事で、本当によかった」

 おじさん、と紅雪は顔を上げ、季潤に声をかけた。

「雨星が───」

 そうして、彼の様子が少しおかしいことに気づく。

「おじさん……?」

「父さん?」

 親子の再会を喜ぶ場面であるはずなのに、季潤は、違うことに気を取られていた。

 寄り添う紅雪と雨星を、守るように背後にして、一人の男と対峙していた。

(あのひとって……)

 どこか見覚えがある。そう思ってから、理生とともに宿に泊まっていた一人だ、と思い出した。つまりは───彼の仲間。山箭なのだ。紅雪は息を呑み、雨星の手をぎゅっと握りしめた。

「冬来。なぜ、おまえがここに?」

 季潤は、険しい表情で男に問う。

「どういうことだ?なぜ生きている?(うらら)に仕えていた山箭は、皆殺されたはずだ。麗の側近だったおまえが、なぜ殺されることなく生きていて───ここにいるんだ」

(麗の側近?)

 麗はつまり、先代の女王、雨星の母親だ。

 彼女に仕える山箭であったのならば……その側近であったのならば、たしかに、真っ先に殺される人物であったはずだろう。それがどうして、雨星を狙う理生たちとともにいて───今は逆に、雨星のそばにいるのだろうか。

「答えろ」

 季潤は命じた。

 彼が麗に仕えていたというのなら、その夫であった季潤の命令も、やはり聞くべきだろうと紅雪は思った。だが、冬来と呼ばれた男は答えなかった。

「……言えない理由があるということか。言うと都合が悪い。そうなんだな」

 それでも冬来は答えなかった。

 季潤は、怒りと悲しみがない混ぜになった顔で、うめいた。

「まさか───まさか、おまえが、麗を……」

「伏せろ」

 唐突な一言だった。発したのは冬来だ。

 紅雪たちは、ぽかんとした。

 それに構わず、冬来は慣れた動作で刀を抜くと、一足飛びに紅雪たちの頭上を飛び越えた。え、と思わず声が漏れる。背後から、金属同士がぶつかる苛烈な音が聞こえ、思わず身をすくめた。

「殿舎の中へ入れ!早く!」

 冬来が叫ぶ。

 その声に咄嗟(とっさ)に動いたのは、季潤だった。紅雪と雨星両方の手をつかみ、殿舎の中へと向かって走る。手を引かれながら紅雪は、何が起こっているのかと、背後を振り返った。はっきりとは見えないが、冬来が何者かと戦っているような様子だ。

(まさか、山箭?)

 明るい殿舎の中へと逃げ込み、三人は、息を整えるために立ち止まった。

 花窓の美しい、廊下の中ほどである。

「な、何が起こっているんですか?まさかもう、ここまで追手が?」

 切れ切れに問う紅雪に、季潤は顔をしかめ、「とにかく逃げよう」とだけ言う。

 紅雪は、そんな、とつぶやき、

「雨星、大丈夫?」

 親友に声をかけた。彼が、妙に静かだったからだ。

 ここまで同じように走ってきたはずなのに、息一つ乱していない。ややうつむいた顔に、赤みがかった髪が垂れかかっている。肩に触れると、ふらりと揺れた。紅雪は眉をひそめた。そこでようやく、季潤も雨星の様子がおかしいことに気づいたようだった。

「雨星?どうした?」

 雨星は、ゆっくりと顔を上げた。

「───」

 その顔を間近で見て、紅雪は息を呑んだ。そこにいたのが───まったくの別人だったからだ。造作はたしかに雨星のものなのだが、別人としか言いようがなかったのである。

(このひとは、誰?)

 血の気を失った唇に、薄く浮かぶ笑み。

 吐息は氷のように冷たい。

 炯々(けいけい)と輝く瞳。

 紅雪はぞっとした。

 これは女だ、と彼女は思った。目の前にいるのは、雨星ではなく、雨星によく似た、恐ろしいほどに美しい女だった。

青晨(せいしん)

 彼女は、季潤のほうを見て、彼をそう呼んだ。

 歌うような声音で。

「は……───」

 季潤は今にも卒倒しそうな顔で、雨星の体を借りた女を見た。

「母上……?」

冰玄(ひょうげん)はどこ』

 女は問いかけた。

 ほうと、白く、冷たい息を吐く。それは紅雪の目の間で、音を立てて凍りつき、ぱらぱらと床に落ちた。

『わたくしを、冰玄のところまで連れておゆき』

「そ、れは……」

 季潤はうめいた。

 そのとき、薄暗い廊下の奥から足音がした。それとともに、耳障りな音が。(さや)から刀身を抜き放つ、あの音だ。紅雪は猛烈に嫌な予感がして、逃げ道を探した。右にまっすぐ走るか。いや、左に曲がる?

(あたしじゃ道がわからない)

「おじさん!」

 紅雪は、凍りついている季潤の腕をつかみ、揺さぶった。

 廊下の向こうから、足音がゆっくりと近づいてくる。薄闇を拭うように、灯火の下へとあらわれた人物が、紅雪の目に映った。片手に抜き身の細い刀をぶら下げ、灯火に、鮮やかな赤毛を照らし出されたその人物は……。

「理生」

 紅雪はささやいた。

 理生もまた、紅雪を見て、目を見開いていた。

「どうして」

「───おじさん!」

 紅雪が再び叫ぶと、季潤ははっとして、ようやく我に返った。

 そして、雨星の体を借りた女の手を引くと、走り出したのだった。


               **


 轟音が鳴り響き、香蓮を含め、そこにいる者たちは全員が後ろを振り返った。

 祭祀(さいし)の場であるこの神聖な殿舎の扉は、大の男が数人がかりでようやく開くことのできる、観音開きの巨大なものだ。それがまさか、見張りの兵を吹き飛ばしながら、凄まじい勢いで開いたのである。

 冷たい風が中へと吹き込み、「何が起こったのだ」、「風の仕業か?」などと、居並ぶ官たちは首を伸ばした。

 その開かれた扉をくぐり、あらわれたのは、三人の人物だった。

(あれは)

 香蓮は壇上で、思わず息を呑んだ。顔にかかる面布をはねあげる。

 兄さま。そう口にしながら、香蓮は一歩を踏み出した。

 少し老けたが、懐かしい顔だ。かつてのやんちゃな少年だった頃の面影が、今もなお残っている。青晨だ。やはり生きていたのだ。

「兄さま!」

 裾をからげ、香蓮は壇上から駆け下りた。

 そんな彼女に対して、壇の奥、薄絹の(とばり)の向こうに腰掛ける男は、身じろぎ一つしない。闖入者(ちんにゅうしゃ)たちの姿が見えているのだろうが、それに声を上げることもなかった。だが、香蓮と同じく、ひどく驚いているような様子はあった。

「まさか」

 彼は───中王国の王は、つぶやく。

 青晨か、と、死んだはずの息子の名を呼んだ。

「兄さま、無事だったのね!」

 香蓮は駆け寄り、こらえきれず、力強く抱きしめた。

 彼女が闖入者の一人を『兄さま』と呼んだことで、周囲のざわめきはいっそうのこと増した。驚きの声が、あちらこちらから響き始める。

「あなたのことだから、きっと大丈夫だろうとは思っていたけれど、よかったわ」

 でも、と続ける。

 彼の背後にいる、二人の人物を見つめて。

「───どうしてここへ?」

「ちょっと、問題が起きてしまってね」

 青晨はどこか青ざめた顔で言った。

 その目線が示すのは、雨星だ。彼は背筋を伸ばして歩み出て、青晨と香蓮を追い越し、玉座の帳の前に立った。

(何だか……)

 様子が変だ。

 香蓮が知るかぎりでは、雨星は、このような場で堂々とできるような少年ではない。だが、今はどうだろう。ずらりと居並ぶ官と、この国の王を前にして、物怖じせずに立っている。その口元に、うっすらと笑みさえ浮かべて。

『冰玄』

 雨星は、王の名を呼んだ。

 歌うような声音で。

「───」

 香蓮は息を止めた。

 そうだ、あのまなざし。あの笑み。この歌うような声音。

「かあさま……?」

 そんな馬鹿なと思いながらも、つぶやかずにはいられなかった。

 だがそう思ってしまえば、もう、嘉月にしか見えない。美しい赤い髪。青磁の衣。今目の前にいるこのひとは、かつての王妃であり、もっとも寵愛された、美貌の女そのものだった。

『会いたかった。冰玄』

 帳の向こうに声をかけ、そこへとつながる階段に、一歩、足をかけた。

「か」

 王は、喉に物が詰まったような声を立てた。

「嘉月」

 ざわり、と殿舎の中を、驚愕と困惑が満たした。

『またこうして話ができる日を、心待ちにしていた。冬至のたびに帰ってきては、あの池のほとりで一人、あなたのことをずっとずっと待っていたのに。あなたは、一度も会いに来てくれなかった。だから───』

 殿舎の中でただ一人、嘉月は、にんまりと満面の笑みを浮かべたのだった。

『こうして、会いに来てあげたの』

「その、その女を捕らえよ!」

 殺せ、と王は叫んだ。

 突然の怒号(どごう)に、居並ぶ官たちはもちろん、兵たちも戸惑い、すぐには動けなかった。むしろ嘉月の迫力に気圧され、本当にそうしてよいものかどうか、迷うような雰囲気さえあった。

「何をしておる!早く殺せ!曲者から余を守らぬか!」

「───お待ちください!」

 よく通る声が、殿舎の中に響き渡った。

 一瞬、あたりはしんと静まり返る。だが、それで十分だった。

 青晨は続けた。

「これは降霊(こうれい)()にございます。この者を()(しろ)に、祖霊が我らの前に姿を見せてくださったのです。この者の───祖霊の声を聞くことこそ、冬至祭りとしてふさわしき儀式にはございませんか。そしてまた、しかるべき場所に送り返してやることで、儀式の完遂(かんすい)と呼べるのではないでしょうか!」

 青晨、貴様、と王は憎々しげにうめいた。

 だが殿舎の中にいる者たちの反応は、「そのとおりだ」、「たしかに」といったような、青晨に同意するものがほとんどだった。

「父上」

 青晨は一歩前に出て、玉座の下に立った。

 そして、ふところから何かを取り出した。それは、古びた懐中時計だった。ふたをぱちりと開くと、しっかりと針が動いているのが見える。

「覚えていらっしゃいますか。この懐中時計は、わたしの十歳の誕生日に、わざわざブリシェから取り寄せ、父上がくださったものです。王族の証たる宝剣は、とうに売り払ってしまいましたが、これだけは売ることができずに、ずっと持ち続けていました」

「それが何だ。くだらぬ!」

「これをわたしにくださった時───それが、わたしがあなたに優しくしてもらえた、愛してもらえた、最後の思い出になりました」

「……」

 帳の向こうで、黙り込む気配があった。

「その後、すぐに母が亡くなり、わたしたち兄妹は、祥月殿で二人きりに。あなたは母が死んで以降、わたしたちの殿舎にはほとんどおいでになりませんでしたね。ああでも、妹だけはたびたび呼びつけて、可愛がっていたと聞きました。ですがわたしは、声をかけてもらった記憶もない」

『冰玄』

 また一歩、嘉月が階段を上る。

「ひっ」

 帳の向こうで、王は身をのけぞらせた。

 そしてまた一歩、嘉月が階段を上る。そのたびに、濡れた衣を引きずるような、重い音がした。

『どうしてなの』

「来るな!」

 帳をはねのけて、王は歯をむき出し、恫喝(どうかつ)した。

 薄絹が破れ、はらりと床に落ちる。

『あなたの望むとおり、わたくしは、あなたを愛してあげたのに。あなたの妃になり、あなたの子を生んであげたのに、どうして』

「やめろ。黙れ、黙れ。誰ぞ、余を助けよ!」

 椅子にすがりつく王に、いよいよ嘉月は近づいた。

 ぶるぶると震える彼の顔に、そっと口を寄せて、ほうと息を吹きかける。

 王の皺だらけの顔には霜がつき、ひげは凍りついた。

『どうして、わたくしを殺したの』

「違う!」

 王は、嘉月から逃れようとして立ち上がり、つまずいて足をもつれさせ、壇上からみっともなく転げ落ちた。

「違う!余は、殺してなどおらぬ!」

『いいえ。あなたは、わたくしのことを、背後から池に突き飛ばした。そして、髪をつかんで、何度も何度も、水の中へと顔を沈めた』

「違う!違う!やめろ!」

『わたくしが動かなくなるまで、そうしていた。そして、岸辺に(くつ)を置くと、死体を池の中に沈めた。入水したように、見せかけるために』

「それはおまえが!おまえがア───余を、裏切ったからではないか!」

 冷たい床の上に腰を抜かし、震えながら、王が嘉月を指差した。

 髪は崩れ、衣も乱れ、ひどいありさまであったが、側近の官ですらも、誰一人として、彼を助け起こそうとはしなかった。香蓮は愕然とし、青晨は痛みをこらえるかのような顔で、目を閉じた。

 王は、つばを飛ばしながら叫び続けた。

「おまえは、ブリシェに好いた男がいたのだろう!余のところへ来る前に、その男と(とこ)をともにした!薄々、ずっと、おかしいとは思っていたのだ!懐妊(かいにん)が早すぎはしなかったかと───もしかしたら、青晨が、余の子ではないのではないか、と!」

 香蓮の頬に、つうと涙が伝った。

 すべてが()に落ちた。母の死も、兄の婿入りも。なぜ父が、香蓮だけを呼びつけ、甘やかしたのかも。

(わたくしだけが、父の子だったから……)

『力で人を従わせることはできても、心を動かすことはできないの』

 嘉月はゆっくりと階段を下りながら、冷ややかに告げた。

『あの時も、そう、あなたに言ったはず。わたくしは、ブリシェのためにあなたの妃となった。あなたに見初められた時、すでに、わたくしには愛する人がいたの。でも、一夜の思い出をよすがに、あなたのもとへ嫁いだ』

 冰玄、と、嘉月は、ひどく悲しげに夫に呼びかけた。

 一転してそれは、胸が締め付けられるほどに優しい声音だった。

『愛の形は、一つではないの。わたくしはたしかに、ブリシェに愛する人がいた。けれどそれが、あなたを愛していなかったことにはならないの。わたくしは、あなたを、子供たちを、全身全霊で愛していたのに───あなたは、最後まで、わたくしを信じようとはしなかった』

 ぐうう、と王はうめいた。

 嘉月と青晨が並び立ち、彼を見下ろす。粛然(しゅくぜん)と言い放ったのは、青晨だった。

「父上、あなたは、処断されるべきだ。たとえ王であれ、いや王だからこそ、一人の人間として、同じ一人の人間を、私怨で殺すことなど絶対に許されない。……どうか、しかるべき罰を受けてください」

 その言葉を聞いた瞬間、王がまとっていた恐慌(きょうこう)の空気が、ふっと消え失せるのを感じた。立ち上がることもできず、がくりとうなだれる王の姿は、見知った姿よりも一回りも二回りも小さく見え、ひどく憐れなものに感じられたのだった。

 すると次の瞬間、嘉月───いや、雨星が、目をしばたたかせた。

「?ここはどこだ……?」

 今の今まで眠っていたかのような顔で、周囲を見回している。

 そこにはもう、美しく、気高い女の気配はどこにもなかった。

(母さま……)

 香蓮は涙を拭った。母は、これでようやく、あたたかく、穏やかな場所に行けるのだろう。寒々しい池のほとりで、一人きり、誰かを待ち続けることもなく。嘉月は、全身全霊で、家族を愛してくれていた。みずから死を選んでなどいなかった。それがすべてであり、覚えておくべきは、それだけだった。

「青晨。雨星───」

 香蓮が、二人に駆け寄ろうとした、その時だった。

「香蓮さま!」

 珍しく、茉莉の叫ぶ声が聞こえたかと思うと、

「え?」

 目の前を、何かが横切った。

 それは、影のように見えた。赤い影だ。殿舎の天井から、おそらくは(はり)から、その影は飛び降りたようだった。きら、と何かが銀色に光る。刃だ、と思った時には遅かった。

 赤い髪のその男は、人と人との間を、短刀を片手に駆け抜けていく。

 目指す先は、雨星だ。

「雨星!」

 香蓮は悲鳴を上げた。

 その声に気づき、青晨が、雨星を背後に突き飛ばす。男の短刀が、くるりと逆手に持ち替えられ、邪魔者に───青晨に向かって振られる。やめて。香蓮は叫んだ。

 赤い影を追うように、黒い影が飛び降りてきたのは、それと同時だった。

 目にも留まらぬ速さでその黒い影は(はし)り、青晨と赤毛の男との間に割って入る。彼は、手を突き出すようにして短刀を弾いた。鈍い金属音が、殿舎の中に響き渡った。

 その音でようやく、人々は騒ぎに気づいたようだった。

 刃を持った人間がいると見るやいなや、我先にと出口に向かってなだれ込んでいく。

 それに巻き込まれる形になりながらも、流れに逆らい、騒ぎの中心へと近づこうとする人物もいた。雨星と、青晨とともにここへ来た、少女だった。彼女は必死に人の波を押しのけながら、

「理生!」

 と叫んだ。

 赤毛の男の肩が、かすかに揺れた気がした。

「お願い、やめて!」

 彼女は必死に、今にも泣き出しそうな顔で、必死に叫んでいた。

「雨星を殺さないで。あなたは優しい人だわ。あなたに人を殺して欲しくないの。戦うのをやめて。あなたに死んで欲しくないのよ!」

 その声を振り払うかのように、赤毛の男は冬来に斬りかかった。

 香蓮には、はっきりとした動きは見えない。二人が速すぎるせいだ。時に跳躍し、独楽(こま)のように回転したかと思うと、打撃や蹴りが繰り出される。その戦いは、純粋な斬り結びではなかった。

(雨星。雨星はどこに)

 香蓮は、甥の姿を探した。

 その姿は、すぐに見つけることができた。戦う二人を挟んで向こうの、殿舎の隅でへたり込んでいる。彼のほうへと、先ほど叫んでいた少女が駆け寄っていくのが見えた。では青晨は、と探すと、冬来に投げ飛ばされた先の壇上で、気を失っている様子が見て取れた。

 赤毛の男と、冬来の戦いは、決着がつきつつあった、

 明らかに、技術も速さも冬来のほうが勝っている。赤毛の男のほうはすでに満身創痍(まんしんそうい)で、息も上がっていた。苦し紛れに刀を大振りし、冬来はそれを避けて、短刀のようなものを投げつけた。赤毛の男は手甲(てっこう)でそれを弾き───そして、ちらり、と雨星を見た。彼は、空いた片手で帯から小さな何かを外した。

「───」

 その仕草に、冬来がはっとする。

(あれは?)

 赤毛の男が、その小さな何かを、雨星に向かって投げつけた。

 冬来は手を伸ばし、中空でそれをつかみ取ろうとする───が、空を切る。その小さな何かは宙で(ひるがえ)り、青緑色に鈍く光った。

「雨星!」

 少女が、雨星へと駆け寄る。

 それに気づいた赤毛の男が、目を見開いた。

「紅雪!よせ!」

 少女の手と、雨星の手が重なり合う。

 パキン!

 その足元で、軽やかな音を立てながら、小さな何かは割れた。

 そしてその瞬間、跡形もなく───雨星と少女の、二人の姿は消え失せたのだった。


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