第五話 憑依
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中王国の都───游都は、城郭都市である。
内宮と外宮を囲むもの、さらに市街を囲むものの、二つの城壁があり、その守りは堅い。
銀江や陶江などの大河にほど近く、気候も穏やかで、土地は豊かである。
まもなく日が沈むという頃合いの游都は、美しかった。冬至祭りの真っ只中ということもあり、大通りの脇に並ぶ建物には、数え切れないほどの赤い提灯が飾られている。街なかを縦横無尽に走る水路に、その光が反射して、足元までも赤く輝いていた。
(きれいだわ)
雨星と一緒にこの光景を見たかった、と、紅雪は思った。
すれ違う人々の多くは、面布をつけている。軽やかな絹の面布だ。冬至祭りで着飾るのは、扇市も都も変わらないように思われたが、時折、見たこともないほどきらびやかな装いの人々を見かけ、紅雪は、普段着のままの自分を少し恥ずかしく思った。どうせなら着飾って、雨星と二人でこの中を歩きたかった。
(雨星……)
元気でいるだろうか。ちゃんと食べているだろうか。刺繍をする余裕もなくて、落ち込んではいないだろうか。季潤の言うように、雨星が───王族であるというのなら、きちんと守られているはずだから、その点は心配いらないだろう。
「おじさん」
紅雪は足を早め、季潤の隣に並んだ。
「話の続きなんですけど」
「うん」
「しつこいようですが、本当なんですか?にわかには信じがたくて……」
「何が」
「おじさんが、この国の王子っていうことがです」
季潤は弱々しく笑った。
「別に信じなくてもいいよ。わたしの身上は、さほど重要なことじゃない」
紅雪は慌てて手を振った。
「あ、いえ、おじさんが王子さまに見えない、とかそういうことじゃなくて……見えないっていうのはまあ、本当なんですけど……その、つまり、王子さまなのに、どうして王位を継ぐんじゃなく、新賜に婿入りしたかなと思って」
ああそのこと、と、季潤は何でもないことのようにつぶやいた。
「わたしには、王位を継げない理由があったんだ。父はわたしを疎ましく思って、新賜にやった。決して友好な関係を築いているとは言えない国にね。そこで死んでも構わない、くらいに思われていただろう。わたしも、それでよかったんだ」
「それは……」
紅雪は口を開きかけ、そっと閉じた。
季潤の口調は軽かったが、そこには、これ以上のことは聞いてくれるな、というような響きもあった。それを感じた紅雪は、結局のところ何も言わずに、再び季潤と並び歩き出した。
そのまま大通りをまっすぐに進み、やがて、彼は立ち止まった。
「あの壁の向こうが、外宮だ」
紅雪は、城壁を仰ぎ見た。
壁の上にはいくつものやぐらが据えられ、見張りが立っている。
「こんなところ、どうやって入り込むつもりなんですか?」
「内宮はともかく、外宮に入り込むのは、意外と簡単なんだよ」
季潤はにこりと笑んだ。
「あそこは、多くの官人たちが政治を行う場だ。外交の場でもある。さまざまな人間が行き交うからね。うまくやれば、門番もいちいち細かいことは確認しないはずだ」
「何だか妙に詳しいですね」
つぶやいてから、それも当然のことか、と思った。
(あの向こうに……)
雨星がいる。
そして、おそらくは。
(理生も)
その名を思うたびに、なぜか胸が苦しくなる。彼は山箭。新賜の女王の兵。雨星を殺すためにこの国に来た。今もなお、雨星を追っている。そんな気がする。
(気のせいかしら。あなたは、苦しそうだった。悲しそうだった)
彼に人を殺して欲しくない。雨星を、殺して欲しくない。
何としてでも、理生を止めなければ。
(待ってて。雨星)
**
冬来と話した日から数日、何事もなく時は過ぎた。
今夜は、冬至祭りの最後の夜であった。
「とてもきれいだ」
雨星が言うと、香蓮は、おしろいを塗った頬をわずかに緩めた。
まとうのは、淡い桃色の衣である。その上に純白の薄衣を重ね、ふんわりと色や刺繍が透けて見えるようになっていた。よくよく見れば、その薄衣のほうにも、極細の糸で北斗七星の文様を入れてある。すばらしい技術だった。
黒髪は、横をすくい上げてかんざしを挿し、後ろを流している。
中王国では一般的な、未婚の者がする髪型であった。
「香蓮は、結婚してないんだね」
それを見て雨星がぽつりと言うと、極端な反応を示したのは、恵麻だった。
かんざしを追加で挿し込む手が止まり、ぴくりと片眉が跳ね上がる。
それ以上を口にすればどうなるか、とでも言うような恵麻の眼力に、思わず雨星が怯むと、その横で香蓮が苦笑した。
「恵麻」
いいのよ、と。
身支度を終えた香蓮は、ふわりと裾をさばきながら椅子に座った。そして、卓に並べられている点心を雨星にすすめた。まだ何か言いたげな恵麻に茶の支度を命じ、下がらせると、口を開く。少し、困ったような顔で。
「しようと思えば、いつでもできるのよ」
強がりじゃなくね、と、香蓮は力なく微笑む。
「夫の候補はたくさんいるの」
「……よりどりみどり?」
「ええ、本当にそう。でも、わたくしは……」
香蓮はふと目を伏せて、とても大事なことを口にする時のように、言葉を口の中で転がしてから、ゆっくりと雨星に話した。
「……父さまは───国王陛下は、何年か前からお体の調子を崩されていてね。わたくしは、儀式や政務をお手伝いしていたの。最初は勝手がわからなくて、ひどく戸惑ったわ。けれど、そうこうしているうちに、もっと政に深く関わりたいと思うようになってしまったのよ」
「それは」
雨星は思わず言葉に詰まった。特に政治に関心のない彼でさえ、この国の王は男しかなれないということくらいは知っている。
香蓮は、わかっているとばかりに諦念を込めて首を振った。
「王になりたいなんて、大それたことは思ってないわ。ただ、一人の官人として、臣として、父さまを支えていければいい。それくらいに思っていたの。けれど、父さまのお具合が芳しくないとなって……いよいよ、わたくしの役目を望まれる段になってしまった。夫を───新たな王を迎えるという役目よ」
「香蓮……」
「それはいいの。王女として生まれたからには、仕方のないことだと思ってる。でもせめて、父さまと母さまのような、愛のある結婚がしたい。母が亡くなった後も、父は側妃を迎えなかった。それはきっと、母のことを、本当に愛していたからだと思うの。わたくしも、どうせ結婚するなら、心から慕わしいと思える相手としたい。そう思うのは、おかしなことなのかしら?」
「おかしくない」
雨星は断言した。
香蓮の足元にひざまずき、その手をそっと取る。
「何も、おかしいことなんてないよ。絶対に」
目をぱちぱちとさせたのち、香蓮は微笑んだ。
「ありがとう、雨星」
すると、いつの間にか退室していた恵麻が戻ってきて、香蓮に「姫さま、そろそろ」と声をかけた。それを受け、彼女は雨星の手を握ったまま、ともに立ち上がる。
「ごめんなさいね。もう、行かなくては」
今夜はもっとも大事な儀式なの、と香蓮は言う。
冬至祭りとは、帰ってきた祖霊たちに感謝を捧げる祭りであり、最後の日には、彼らをまたあちらの世界へと送り返してやらねばならず、その儀式なのだという。
「茉莉を置いていくから、何か不便があったら、彼女に」
香蓮は、雨星の少しばかり痩せた頬を撫でた。軽く息をつくと、並べられていた点心の中から、胡麻団子をいくつか取って懐紙に包む。そしてそれを、雨星の手の上にそっと乗せた。
「逃げてもいいのよ」
雨星ははっと顔を上げた。
「たとえ遠く離れて、二度と会えなくても───大事な人には、生きていて欲しい。それだけでいいの。ただ、生きていてくれるだけで、きっと幸せでいると、信じることができるから」
嘉月の死は、幼かった香蓮の心に、深い傷を残したのだろう。今もまだ生々しく、癒えない傷が、彼女にそう言わせたのだと、雨星は思った。
「これからどうするか、代わりに決めてあげることはできないけれど、一緒に兄を待つことくらいはしてあげられるわ。あなたを守るために、助けるために、できることなら何でもしてあげる。だから生きて、雨星。わたくしはいつだって、あなたの味方よ」
「香蓮」
雨星は目の奥が熱くなるのを感じた。渡された胡麻団子をそっと両手で包み込み、言葉なくうなずく。
「あまり、思い悩みすぎないようにね」
そんな雨星に、香蓮は優しく言うのだった。
(このままずっと、ここにいられたら)
雨星は、渡殿の欄干に手をかけた。
あてがわれた部屋へと戻る中途であった。
ぼうっと目を向ける先は、夜の庭である。日はすっかり沈み、山茶花の咲く庭は、ぽつぽつと灯る火に照らされ、美しく浮かび上がって見えた。雲間から覗く月が、波のない池の水面に映り、白々と輝いている。
(父さん……)
ここへ来てからすでに数日。
生きているはずと信じて待っているけれども、時折、こんなふうに一人でいると、心が折れそうになる。父と家に帰ることがかなわないのならば、ここで、香蓮と静かに暮らしたい。それこそかなうはずがないとわかってはいたが、思わずにはいられなかった。
(いっそのこと、あの池に身を投げたら、楽になれるのかな……)
気疲れのためか、そんなことを考えてしまう。
あの睡蓮の池。あの池で、嘉月は溺れ死んだ。雨星にとっては、祖母にあたる人物だ。彼女もまた、今の雨星のように何かに疲れ、ふと魔が差してしまったのだろうか。いや、と雨星は思う。ほんのわずか言葉をかわしただけだが、そんな雨星にも、彼女がいかに気高く、心優しいかがすぐにわかった。あのようなひとが、幼い娘を残して自死するとはとても思えない。
(殺された……?)
だが、誰に?
軽く息をつき、雨星が歩き出そうとした、その時だった。
「……?」
誰か───いる?
池の浅瀬に、人影のようなものが見える。
雨星はぞくりとした。その黒い影は、じっとこちらを見つめていた。その姿が一瞬、血まみれの霜飛のように見えて、思わず悲鳴を上げそうになる。だが実際のところ、恐怖のあまり声は出なかった。逃げ出そうにも体が動かず、目もそらせない。
(誰か)
がくりと膝の力が抜けて、転倒しそうになった雨星を、力強い腕が支えた。
茉莉が来てくれたのだ、と雨星は思った。
ほっとして、その顔を見上げた雨星は、驚愕した。
「冬来……!?」
なぜここに、と思わず問う。
縄で縛られ、扉には閂がかけられていたはず。
(どうやって、あの部屋から)
「侵入者だ」
彼は短く言った。
「え?」
「二人か、三人。この殿舎の中に入ってきた」
「それって……」
あそこの、と、雨星は指差そうとして、愕然とした。
(いない?どうして)
池のほとりには、誰もいなくなっていた。
しばし周囲を警戒していた冬来が唐突に、
「つかまれ」
と言った。
そして、雨星を小脇に抱えたまま、渡殿の欄干に足をかける。
「え?」
何をするつもり、と、雨星が問いかける間もなく、冬来はその欄干を足がかりに、跳躍した。緑に塗られた柱を蹴り、屋根に手をかけ、軽やかにその上へと駆け上がる。雨星を抱えたまま、である。
(嘘でしょう)
信じられない身軽さだった。いくら細身とは言え、人間一人を片腕に抱えて、渡殿の屋根に登るなど───尋常ではない。山箭は皆、このように身軽なのだろうか。それとも、冬来が特別なのだろうか。
突然のことに腰が抜け、雨星は、屋根の上でへたり込んでしまった。
かすかに震える彼を見て、冬来は、追手が来たことに怯えているのだ、と思ったのだろう。音もなく、静かに、雨星のそばにかがみ込んだ。
「雨星」
その名前を呼ぶ声の、意外なほど優しい声音に思わず、雨星は顔を上げた。
「大丈夫だ。おまえのことは、おれが守る」
「───」
目を大きく見開いて、雨星は、彼の顔をまじまじと見つめた。
冬来は、父のように優しく微笑んでもくれず、紅雪のように抱きしめてくれることもなく、香蓮のように手を握ってくれることもなかった。けれどたしかに、そこには───同じような優しさがあった。雨星は、触れられるよりも間近に、彼のあたたかさを感じたように思った。
(わからない。このひとのことが)
雨星が混乱しているうちに、冬来は何事もなかったかのように立ち上がり、屋根の縁へと移動してしまった。身を低くして、上から下の様子を伺い始める。
(あなたは、わたしの、何?)
「あれは……」
何かに気づいたのか、冬来がつぶやいた。
どこか困惑したような声音だ。
雨星は、這いずるようにして冬来のそばへと近づき、同じく下を見下ろした。そして、あっと声を上げたのだった。
**
「本当に大丈夫なんですか?こっちで合ってます?」
「大丈夫。間違いないよ。祥月殿の抜け道は熟知してるんだ」
ほら、と季潤は言う。
ずぼ、と生い茂った灌木───庭木だろうか、その茂みを抜けて、紅雪は立ち上がった。
所々に配されている灯火のおかげで、目の前に大きな池と、奥に殿舎らしき建物があるのが、何となく見て取れた。あれよあれよという間に、本当にたどり着いてしまったのだ。内宮の、祥月殿と呼ばれる場所に。
(入ったはいいけど、見つかったら殺されるのでは)
紅雪は不安に思いながらも、汚れてしまった衣の裾を払った。
すると、
「紅雪!」
どこかから、声が聞こえた。
雨星の声だ。紅雪ははっとして、周囲を見回すが、人の姿は見えない。彼女が戸惑っていると、紅雪、ともう一度声が聞こえ、渡殿の屋根の上から、人影が飛び降りてくるのが見えた。
「紅雪!父さん!」
足をもつれさせながらも、こちらに向かって全力で駆けてくるのは、雨星だった。
紅雪もまた駆け寄り、二人はぶつかり合うようにして抱きしめあった。
「雨星。よかった」
「どうして?どうして、紅雪が、なんで」
「いつもぼうっとしてるあなたが心配だったから!」
絶対に泣くまい、と決めていたが、無理だった。
雨星の無事な姿を見たら、涙が溢れ出た。離れていたのはほんの数日なのに、少し痩せたように感じる。紅雪は雨星の顔を手挟んで、じろじろと見つめた。やつれてはいたが、変わらない。たしかに雨星だった。
「よかった。あなたが無事で、本当によかった」
おじさん、と紅雪は顔を上げ、季潤に声をかけた。
「雨星が───」
そうして、彼の様子が少しおかしいことに気づく。
「おじさん……?」
「父さん?」
親子の再会を喜ぶ場面であるはずなのに、季潤は、違うことに気を取られていた。
寄り添う紅雪と雨星を、守るように背後にして、一人の男と対峙していた。
(あのひとって……)
どこか見覚えがある。そう思ってから、理生とともに宿に泊まっていた一人だ、と思い出した。つまりは───彼の仲間。山箭なのだ。紅雪は息を呑み、雨星の手をぎゅっと握りしめた。
「冬来。なぜ、おまえがここに?」
季潤は、険しい表情で男に問う。
「どういうことだ?なぜ生きている?麗に仕えていた山箭は、皆殺されたはずだ。麗の側近だったおまえが、なぜ殺されることなく生きていて───ここにいるんだ」
(麗の側近?)
麗はつまり、先代の女王、雨星の母親だ。
彼女に仕える山箭であったのならば……その側近であったのならば、たしかに、真っ先に殺される人物であったはずだろう。それがどうして、雨星を狙う理生たちとともにいて───今は逆に、雨星のそばにいるのだろうか。
「答えろ」
季潤は命じた。
彼が麗に仕えていたというのなら、その夫であった季潤の命令も、やはり聞くべきだろうと紅雪は思った。だが、冬来と呼ばれた男は答えなかった。
「……言えない理由があるということか。言うと都合が悪い。そうなんだな」
それでも冬来は答えなかった。
季潤は、怒りと悲しみがない混ぜになった顔で、うめいた。
「まさか───まさか、おまえが、麗を……」
「伏せろ」
唐突な一言だった。発したのは冬来だ。
紅雪たちは、ぽかんとした。
それに構わず、冬来は慣れた動作で刀を抜くと、一足飛びに紅雪たちの頭上を飛び越えた。え、と思わず声が漏れる。背後から、金属同士がぶつかる苛烈な音が聞こえ、思わず身をすくめた。
「殿舎の中へ入れ!早く!」
冬来が叫ぶ。
その声に咄嗟に動いたのは、季潤だった。紅雪と雨星両方の手をつかみ、殿舎の中へと向かって走る。手を引かれながら紅雪は、何が起こっているのかと、背後を振り返った。はっきりとは見えないが、冬来が何者かと戦っているような様子だ。
(まさか、山箭?)
明るい殿舎の中へと逃げ込み、三人は、息を整えるために立ち止まった。
花窓の美しい、廊下の中ほどである。
「な、何が起こっているんですか?まさかもう、ここまで追手が?」
切れ切れに問う紅雪に、季潤は顔をしかめ、「とにかく逃げよう」とだけ言う。
紅雪は、そんな、とつぶやき、
「雨星、大丈夫?」
親友に声をかけた。彼が、妙に静かだったからだ。
ここまで同じように走ってきたはずなのに、息一つ乱していない。ややうつむいた顔に、赤みがかった髪が垂れかかっている。肩に触れると、ふらりと揺れた。紅雪は眉をひそめた。そこでようやく、季潤も雨星の様子がおかしいことに気づいたようだった。
「雨星?どうした?」
雨星は、ゆっくりと顔を上げた。
「───」
その顔を間近で見て、紅雪は息を呑んだ。そこにいたのが───まったくの別人だったからだ。造作はたしかに雨星のものなのだが、別人としか言いようがなかったのである。
(このひとは、誰?)
血の気を失った唇に、薄く浮かぶ笑み。
吐息は氷のように冷たい。
炯々と輝く瞳。
紅雪はぞっとした。
これは女だ、と彼女は思った。目の前にいるのは、雨星ではなく、雨星によく似た、恐ろしいほどに美しい女だった。
『青晨』
彼女は、季潤のほうを見て、彼をそう呼んだ。
歌うような声音で。
「は……───」
季潤は今にも卒倒しそうな顔で、雨星の体を借りた女を見た。
「母上……?」
『冰玄はどこ』
女は問いかけた。
ほうと、白く、冷たい息を吐く。それは紅雪の目の間で、音を立てて凍りつき、ぱらぱらと床に落ちた。
『わたくしを、冰玄のところまで連れておゆき』
「そ、れは……」
季潤はうめいた。
そのとき、薄暗い廊下の奥から足音がした。それとともに、耳障りな音が。鞘から刀身を抜き放つ、あの音だ。紅雪は猛烈に嫌な予感がして、逃げ道を探した。右にまっすぐ走るか。いや、左に曲がる?
(あたしじゃ道がわからない)
「おじさん!」
紅雪は、凍りついている季潤の腕をつかみ、揺さぶった。
廊下の向こうから、足音がゆっくりと近づいてくる。薄闇を拭うように、灯火の下へとあらわれた人物が、紅雪の目に映った。片手に抜き身の細い刀をぶら下げ、灯火に、鮮やかな赤毛を照らし出されたその人物は……。
「理生」
紅雪はささやいた。
理生もまた、紅雪を見て、目を見開いていた。
「どうして」
「───おじさん!」
紅雪が再び叫ぶと、季潤ははっとして、ようやく我に返った。
そして、雨星の体を借りた女の手を引くと、走り出したのだった。
**
轟音が鳴り響き、香蓮を含め、そこにいる者たちは全員が後ろを振り返った。
祭祀の場であるこの神聖な殿舎の扉は、大の男が数人がかりでようやく開くことのできる、観音開きの巨大なものだ。それがまさか、見張りの兵を吹き飛ばしながら、凄まじい勢いで開いたのである。
冷たい風が中へと吹き込み、「何が起こったのだ」、「風の仕業か?」などと、居並ぶ官たちは首を伸ばした。
その開かれた扉をくぐり、あらわれたのは、三人の人物だった。
(あれは)
香蓮は壇上で、思わず息を呑んだ。顔にかかる面布をはねあげる。
兄さま。そう口にしながら、香蓮は一歩を踏み出した。
少し老けたが、懐かしい顔だ。かつてのやんちゃな少年だった頃の面影が、今もなお残っている。青晨だ。やはり生きていたのだ。
「兄さま!」
裾をからげ、香蓮は壇上から駆け下りた。
そんな彼女に対して、壇の奥、薄絹の帳の向こうに腰掛ける男は、身じろぎ一つしない。闖入者たちの姿が見えているのだろうが、それに声を上げることもなかった。だが、香蓮と同じく、ひどく驚いているような様子はあった。
「まさか」
彼は───中王国の王は、つぶやく。
青晨か、と、死んだはずの息子の名を呼んだ。
「兄さま、無事だったのね!」
香蓮は駆け寄り、こらえきれず、力強く抱きしめた。
彼女が闖入者の一人を『兄さま』と呼んだことで、周囲のざわめきはいっそうのこと増した。驚きの声が、あちらこちらから響き始める。
「あなたのことだから、きっと大丈夫だろうとは思っていたけれど、よかったわ」
でも、と続ける。
彼の背後にいる、二人の人物を見つめて。
「───どうしてここへ?」
「ちょっと、問題が起きてしまってね」
青晨はどこか青ざめた顔で言った。
その目線が示すのは、雨星だ。彼は背筋を伸ばして歩み出て、青晨と香蓮を追い越し、玉座の帳の前に立った。
(何だか……)
様子が変だ。
香蓮が知るかぎりでは、雨星は、このような場で堂々とできるような少年ではない。だが、今はどうだろう。ずらりと居並ぶ官と、この国の王を前にして、物怖じせずに立っている。その口元に、うっすらと笑みさえ浮かべて。
『冰玄』
雨星は、王の名を呼んだ。
歌うような声音で。
「───」
香蓮は息を止めた。
そうだ、あのまなざし。あの笑み。この歌うような声音。
「かあさま……?」
そんな馬鹿なと思いながらも、つぶやかずにはいられなかった。
だがそう思ってしまえば、もう、嘉月にしか見えない。美しい赤い髪。青磁の衣。今目の前にいるこのひとは、かつての王妃であり、もっとも寵愛された、美貌の女そのものだった。
『会いたかった。冰玄』
帳の向こうに声をかけ、そこへとつながる階段に、一歩、足をかけた。
「か」
王は、喉に物が詰まったような声を立てた。
「嘉月」
ざわり、と殿舎の中を、驚愕と困惑が満たした。
『またこうして話ができる日を、心待ちにしていた。冬至のたびに帰ってきては、あの池のほとりで一人、あなたのことをずっとずっと待っていたのに。あなたは、一度も会いに来てくれなかった。だから───』
殿舎の中でただ一人、嘉月は、にんまりと満面の笑みを浮かべたのだった。
『こうして、会いに来てあげたの』
「その、その女を捕らえよ!」
殺せ、と王は叫んだ。
突然の怒号に、居並ぶ官たちはもちろん、兵たちも戸惑い、すぐには動けなかった。むしろ嘉月の迫力に気圧され、本当にそうしてよいものかどうか、迷うような雰囲気さえあった。
「何をしておる!早く殺せ!曲者から余を守らぬか!」
「───お待ちください!」
よく通る声が、殿舎の中に響き渡った。
一瞬、あたりはしんと静まり返る。だが、それで十分だった。
青晨は続けた。
「これは降霊の儀にございます。この者を依り代に、祖霊が我らの前に姿を見せてくださったのです。この者の───祖霊の声を聞くことこそ、冬至祭りとしてふさわしき儀式にはございませんか。そしてまた、しかるべき場所に送り返してやることで、儀式の完遂と呼べるのではないでしょうか!」
青晨、貴様、と王は憎々しげにうめいた。
だが殿舎の中にいる者たちの反応は、「そのとおりだ」、「たしかに」といったような、青晨に同意するものがほとんどだった。
「父上」
青晨は一歩前に出て、玉座の下に立った。
そして、ふところから何かを取り出した。それは、古びた懐中時計だった。ふたをぱちりと開くと、しっかりと針が動いているのが見える。
「覚えていらっしゃいますか。この懐中時計は、わたしの十歳の誕生日に、わざわざブリシェから取り寄せ、父上がくださったものです。王族の証たる宝剣は、とうに売り払ってしまいましたが、これだけは売ることができずに、ずっと持ち続けていました」
「それが何だ。くだらぬ!」
「これをわたしにくださった時───それが、わたしがあなたに優しくしてもらえた、愛してもらえた、最後の思い出になりました」
「……」
帳の向こうで、黙り込む気配があった。
「その後、すぐに母が亡くなり、わたしたち兄妹は、祥月殿で二人きりに。あなたは母が死んで以降、わたしたちの殿舎にはほとんどおいでになりませんでしたね。ああでも、妹だけはたびたび呼びつけて、可愛がっていたと聞きました。ですがわたしは、声をかけてもらった記憶もない」
『冰玄』
また一歩、嘉月が階段を上る。
「ひっ」
帳の向こうで、王は身をのけぞらせた。
そしてまた一歩、嘉月が階段を上る。そのたびに、濡れた衣を引きずるような、重い音がした。
『どうしてなの』
「来るな!」
帳をはねのけて、王は歯をむき出し、恫喝した。
薄絹が破れ、はらりと床に落ちる。
『あなたの望むとおり、わたくしは、あなたを愛してあげたのに。あなたの妃になり、あなたの子を生んであげたのに、どうして』
「やめろ。黙れ、黙れ。誰ぞ、余を助けよ!」
椅子にすがりつく王に、いよいよ嘉月は近づいた。
ぶるぶると震える彼の顔に、そっと口を寄せて、ほうと息を吹きかける。
王の皺だらけの顔には霜がつき、ひげは凍りついた。
『どうして、わたくしを殺したの』
「違う!」
王は、嘉月から逃れようとして立ち上がり、つまずいて足をもつれさせ、壇上からみっともなく転げ落ちた。
「違う!余は、殺してなどおらぬ!」
『いいえ。あなたは、わたくしのことを、背後から池に突き飛ばした。そして、髪をつかんで、何度も何度も、水の中へと顔を沈めた』
「違う!違う!やめろ!」
『わたくしが動かなくなるまで、そうしていた。そして、岸辺に沓を置くと、死体を池の中に沈めた。入水したように、見せかけるために』
「それはおまえが!おまえがア───余を、裏切ったからではないか!」
冷たい床の上に腰を抜かし、震えながら、王が嘉月を指差した。
髪は崩れ、衣も乱れ、ひどいありさまであったが、側近の官ですらも、誰一人として、彼を助け起こそうとはしなかった。香蓮は愕然とし、青晨は痛みをこらえるかのような顔で、目を閉じた。
王は、つばを飛ばしながら叫び続けた。
「おまえは、ブリシェに好いた男がいたのだろう!余のところへ来る前に、その男と床をともにした!薄々、ずっと、おかしいとは思っていたのだ!懐妊が早すぎはしなかったかと───もしかしたら、青晨が、余の子ではないのではないか、と!」
香蓮の頬に、つうと涙が伝った。
すべてが腑に落ちた。母の死も、兄の婿入りも。なぜ父が、香蓮だけを呼びつけ、甘やかしたのかも。
(わたくしだけが、父の子だったから……)
『力で人を従わせることはできても、心を動かすことはできないの』
嘉月はゆっくりと階段を下りながら、冷ややかに告げた。
『あの時も、そう、あなたに言ったはず。わたくしは、ブリシェのためにあなたの妃となった。あなたに見初められた時、すでに、わたくしには愛する人がいたの。でも、一夜の思い出をよすがに、あなたのもとへ嫁いだ』
冰玄、と、嘉月は、ひどく悲しげに夫に呼びかけた。
一転してそれは、胸が締め付けられるほどに優しい声音だった。
『愛の形は、一つではないの。わたくしはたしかに、ブリシェに愛する人がいた。けれどそれが、あなたを愛していなかったことにはならないの。わたくしは、あなたを、子供たちを、全身全霊で愛していたのに───あなたは、最後まで、わたくしを信じようとはしなかった』
ぐうう、と王はうめいた。
嘉月と青晨が並び立ち、彼を見下ろす。粛然と言い放ったのは、青晨だった。
「父上、あなたは、処断されるべきだ。たとえ王であれ、いや王だからこそ、一人の人間として、同じ一人の人間を、私怨で殺すことなど絶対に許されない。……どうか、しかるべき罰を受けてください」
その言葉を聞いた瞬間、王がまとっていた恐慌の空気が、ふっと消え失せるのを感じた。立ち上がることもできず、がくりとうなだれる王の姿は、見知った姿よりも一回りも二回りも小さく見え、ひどく憐れなものに感じられたのだった。
すると次の瞬間、嘉月───いや、雨星が、目をしばたたかせた。
「?ここはどこだ……?」
今の今まで眠っていたかのような顔で、周囲を見回している。
そこにはもう、美しく、気高い女の気配はどこにもなかった。
(母さま……)
香蓮は涙を拭った。母は、これでようやく、あたたかく、穏やかな場所に行けるのだろう。寒々しい池のほとりで、一人きり、誰かを待ち続けることもなく。嘉月は、全身全霊で、家族を愛してくれていた。みずから死を選んでなどいなかった。それがすべてであり、覚えておくべきは、それだけだった。
「青晨。雨星───」
香蓮が、二人に駆け寄ろうとした、その時だった。
「香蓮さま!」
珍しく、茉莉の叫ぶ声が聞こえたかと思うと、
「え?」
目の前を、何かが横切った。
それは、影のように見えた。赤い影だ。殿舎の天井から、おそらくは梁から、その影は飛び降りたようだった。きら、と何かが銀色に光る。刃だ、と思った時には遅かった。
赤い髪のその男は、人と人との間を、短刀を片手に駆け抜けていく。
目指す先は、雨星だ。
「雨星!」
香蓮は悲鳴を上げた。
その声に気づき、青晨が、雨星を背後に突き飛ばす。男の短刀が、くるりと逆手に持ち替えられ、邪魔者に───青晨に向かって振られる。やめて。香蓮は叫んだ。
赤い影を追うように、黒い影が飛び降りてきたのは、それと同時だった。
目にも留まらぬ速さでその黒い影は奔り、青晨と赤毛の男との間に割って入る。彼は、手を突き出すようにして短刀を弾いた。鈍い金属音が、殿舎の中に響き渡った。
その音でようやく、人々は騒ぎに気づいたようだった。
刃を持った人間がいると見るやいなや、我先にと出口に向かってなだれ込んでいく。
それに巻き込まれる形になりながらも、流れに逆らい、騒ぎの中心へと近づこうとする人物もいた。雨星と、青晨とともにここへ来た、少女だった。彼女は必死に人の波を押しのけながら、
「理生!」
と叫んだ。
赤毛の男の肩が、かすかに揺れた気がした。
「お願い、やめて!」
彼女は必死に、今にも泣き出しそうな顔で、必死に叫んでいた。
「雨星を殺さないで。あなたは優しい人だわ。あなたに人を殺して欲しくないの。戦うのをやめて。あなたに死んで欲しくないのよ!」
その声を振り払うかのように、赤毛の男は冬来に斬りかかった。
香蓮には、はっきりとした動きは見えない。二人が速すぎるせいだ。時に跳躍し、独楽のように回転したかと思うと、打撃や蹴りが繰り出される。その戦いは、純粋な斬り結びではなかった。
(雨星。雨星はどこに)
香蓮は、甥の姿を探した。
その姿は、すぐに見つけることができた。戦う二人を挟んで向こうの、殿舎の隅でへたり込んでいる。彼のほうへと、先ほど叫んでいた少女が駆け寄っていくのが見えた。では青晨は、と探すと、冬来に投げ飛ばされた先の壇上で、気を失っている様子が見て取れた。
赤毛の男と、冬来の戦いは、決着がつきつつあった、
明らかに、技術も速さも冬来のほうが勝っている。赤毛の男のほうはすでに満身創痍で、息も上がっていた。苦し紛れに刀を大振りし、冬来はそれを避けて、短刀のようなものを投げつけた。赤毛の男は手甲でそれを弾き───そして、ちらり、と雨星を見た。彼は、空いた片手で帯から小さな何かを外した。
「───」
その仕草に、冬来がはっとする。
(あれは?)
赤毛の男が、その小さな何かを、雨星に向かって投げつけた。
冬来は手を伸ばし、中空でそれをつかみ取ろうとする───が、空を切る。その小さな何かは宙で翻り、青緑色に鈍く光った。
「雨星!」
少女が、雨星へと駆け寄る。
それに気づいた赤毛の男が、目を見開いた。
「紅雪!よせ!」
少女の手と、雨星の手が重なり合う。
パキン!
その足元で、軽やかな音を立てながら、小さな何かは割れた。
そしてその瞬間、跡形もなく───雨星と少女の、二人の姿は消え失せたのだった。




