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第四話 再会

 生ぬるい暗闇から一転、雨星(うせい)は冷たい夜気の中へと放り出された。

 背中から地面に落下して、再び「痛い!」と声を上げる。

 手をつくと、固く、冷ややかな感触。石畳だ。どうりで痛いわけである。乱れた長い髪が顔に覆いかぶさり、うまく前が見えなかったが、今が夜で、ここが祥月殿(しょうげつでん)だということだけはわかった。なぜなら、睡蓮の浮かぶ大きな池が、赤い欄干(らんかん)と緑の柱の向こうに、ぼんやりと浮かび上がって見えたからだった。

 つまりここは、庭と殿舎(でんしゃ)をつなぐ、渡殿(わたどの)の上というわけだ。

「───雨星?」

 すぐ近くから、声がした。

 髪をかき上げながら、そちらを見る。

「雨星、なの?」

 一人の女と、目が合った。

 結い上げた黒髪と、その髪よりも薄い色の瞳。ぱちぱちと瞬く、丸いどんぐりのような両の目。桃色の衣を身にまとう、記憶にある姿よりも年かさのその女は───なぜかその喉元に、銀色のかんざしの、鋭い先端が突きつけられていた。

香蓮(かれん)さまを離しなさい!さもないと……!」

 背後から怒声が響く。雨星は振り返った。

 叫んだのは、恵麻(えま)だった。

 今にも卒倒しそうに青ざめているが、ぶるぶる震える手で、金属製の灯台を振り上げていた。

「落ち着いて、恵麻」

「なぜ姫さまのほうが落ち着いてらっしゃるのです!もっと慌ててくださいませ!」

「そんな無茶な……」

 香蓮の喉元にかんざしを突きつけているのは、一人の男だった。

 黒髪に、黒衣。温度のないまなざし。黒い獣のような男。背中の傷から足元に血が滴り、小さな血溜まりができている。

「やめて」

 雨星はふらりと立ち上がった。

 言葉が口をついて出る。

「やめて。何をしているの。香蓮を、離して」

 しかし男は、香蓮を解放しないまま、雨星に向かって片手を差し出した。

 そして言うのだった。

「来い」

(来い?)

 意味をわかりかねて、雨星は顔をしかめた。言葉の意味ではない。こんな真似をしておきながら、そのような物言いをして、雨星が従うだろうと思っている、彼の考えがわからなかったのだ。

「嫌だ」

 雨星にしては珍しく、強い語調で言い放つ。

「香蓮を、離せ」

「……」

 男はゆっくりと、差し伸べていた手を下ろした。そして、意外にもあっさりと香蓮を解放したのだった。持っていた銀のかんざしを地面に放り投げ、彼女の背中を、雨星のほうへと軽く押しやる。

「香蓮!」

「雨星!やっぱり、あなたなのね。あのときの姿のままだわ」

 二人は互いに駆け寄り、抱きしめあった。

 年齢以外、香蓮にさほど大きな変化は見られなかった。嘉月(かげつ)と出会った時は五、六歳、父と二人で話をしていた時は、十六、七の年頃に見えたが、現在は二十代後半といった姿だ。

()に戻ってきたということか)

「よかったわ、無事で」

 香蓮は、ふところから布包みを取り出し、開いてみせた。

 そこにあったのは、粉々に割れた、翡翠の欠片だった。

「わたくしの預かっていたかんざしが壊れたのに、あなたの姿がどこにも見えないから、とても心配したのよ。恵麻と一緒に、祥月殿の中を探していたら、あなたの代わりにあの男があらわれて……」

 ───雨星はどこだ。

 そう言いながら、香蓮のかんざしを抜き取り、喉元に突きつけたのだという。

「だから、あなたを狙う山箭(さんや)なのではないかと思ったのだけれど……」

 雨星は男を振り返った。

 武器を捨てた彼は、抵抗することなく、大柄な女───茉莉(まり)に取り押さえられていた。恵麻はまだ灯台を構えたままだ。だが、先ほどまでの様子が嘘だったかのように、男はひどくおとなしかった。

(あなたは、何者?)

 雨星に斬りかかってきた、あの赤毛の男の仲間なのではないのか?

「ひとまず中へ」

 香蓮が雨星の背中に手を添えて、促した。

 ほっと肩の力が抜ける。自分で思うよりもずっと気を張っていたようで、一気に疲れが押し寄せてきた雨星は、ふらついた。香蓮に支えられながら、彼は、祥月殿の中へと歩き出したのだった。




(あたたかい……)

 氷のように冷たかった手足がぬくまり、血が巡っていくのがわかる。

 雨星が通された一室は、かつて嘉月に招かれたその部屋だった。

 とてつもなく広い私室である。その景色は、記憶の中にあるそれとさほど変わらない。革張りの長椅子に座らされ、雨星は、柚子の茶を供された。あたたまりますよ、と笑ってくれた恵麻は、皺が増え、白髪も見られるようになっていたが、そこにはたしかに、かつての面影があった。

 雨星の向かいに腰掛け、香蓮は、改めて、と口を開いた。

「わたくしの名は、香蓮。あなたの叔母よ」

 ───はじめましてではないわね。

 彼女はそう言って微笑んだ。

 雨星は、おずおずと口を開く。

「あなたは、わたしが、()()()()()()だと……」

「ええ、そうよ。信じているわ。あなたが今着ているその衣は、母のものだもの」

 雨星は思わず、自身の姿を見下ろした。

 池から助け出され、着替えとして渡された、青磁(せいじ)の衣のままだった。つまり雨星は、幼い頃の香蓮と対面した()()の、そのものの姿だったのだ。

「教えて、雨星」

 香蓮がつと笑みを消し、真剣な表情で言った。

「一体、何があったの?兄さまはどこへ?」

 雨星は膝の上で、ぎゅっと拳を握りしめた。

 わからない、とつぶやく。

 最後に見た父の姿は、床に倒れ、こちらに向かって「割れ」と叫ぶ必死の形相だ。その後、霜飛(そうひ)が家の中に飛び込んできた混乱で、父がどうなったかはわからないまま、雨星は翡翠のかんざしを割った。

「わからない。父さんは……どうなったのか。わたしは、逃げろと言われて、あのかんざしを……」

「いいのよ、雨星。ゆっくりでいいの。順を追って話して」

 雨星は、時折つっかえながらも、何が起こったのかを香蓮に語った。

 もしかしたら、あの赤毛の男が父を───と、雨星が声を震わせると、香蓮は大丈夫だと言って、雨星の手をぎゅっと握った。

「兄さまは昔から、変装や、抜け道を見つけるのが得意だったの。よく、隠れてここを抜け出して街まで行って、母さまに怒られていたわ。だから、大丈夫。きっと無事よ。自力で何とかしていると思うわ」

 雨星の目から、こらえていた涙がぽろりとこぼれ落ちた。

 ずっと張り詰めていた心が、緩んでいくのを感じた。

(父さん。どうか、無事でいて)

 いつもの優しい笑顔で、「おかえり」と言って欲しい。あの町に、あの家に帰りたい。

「どうして……」

 雨星は涙を拭いながら、顔を上げた。

「あの男たちは、どうしてわたしを殺そうとしたの。あの男たちは、一体何?それに、あの翡翠のかんざしは……」

「兄さまは、あなたに何も話していなかったのね。まったく……あのひとらしいこと」

 香蓮は、同情と呆れを器用に織り交ぜた目で、雨星を見つめた。

 とはいえ、と続ける。

「わたくしも、兄から多くを聞いたわけではないの。こっそりと手紙でやり取りはしていたけれど、それも頻繁にはできなくて。知っているのは、あなたが誰に命を狙われているか、ということくらい」

「それは誰なの?」

 香蓮は答えた。

「───新賜(あらたま)の女王よ」

 いっそ、あっさりとした物言いであった。

 おそらく、雨星を混乱させないための、そのような振る舞いであったと思われたが、無駄だとしか言いようがなかった。その一言だけで、雨星は十分に困惑した。

(新賜……新賜って、北の、隣国の?)

 名前は知っているが、その国についてさほどの知識はない。

 中王国の北方、険しい山脈を超えた先、半島の先端に位置する国。中王国とはあまり友好的な関係ではなく、陸路での行き来が難しいため、交易も盛んではない。代々、女王が統治している。その程度だ。もちろん、雨星は新賜へ行ったことなどない。

(その女王が、なぜわたしを?)

「あなたが先代の女王の子だからよ」

 雨星の心中を見抜いたかのように、香蓮が言った。

「あなたは、新賜の先代女王、(うらら)と───わたくしの兄、中王国の青晨(せいしん)王子との間に生まれた子なのよ」

 兄は女王の王配(おうはい)だったの、と。

 王配───つまり夫だ。

(父さんが?)

 何も言えない雨星を香蓮はしばし見つめ、やがて続けた。

「現在の女王である(あや)は、実の姉である麗を殺し、王位を簒奪(さんだつ)したそうよ。その時に、まだ幼子だったあなたと、兄さまをも一緒に殺そうとした。だから兄は、あなたを連れて中王国へ逃げてきたの。その時に会ったのが、直接話をした最後」

 ───あれは、その時の光景だったのだ。

 雨星は思った。

 冬枯れの庭で、幼い雨星を抱えた父と、香蓮が話をしていたあの光景。思い返してみれば、父は非常に切羽詰まった様子だった。あれは、命からがら逃げてきたからだったのだ。父はただひたすら、静かに、平和に生きていくことを願っていた。

(父さん……)

「少ししか話はできなかったけれど、その時にわたくしは、翡翠のかんざしの片割れを託されたの。あの、割符(わりふ)をね」

「わりふ……?」

 ええ、と香蓮はうなずく。

「女王は、山箭と呼ばれる私兵を有しているの。おそらく、あなたたちを襲った男たちというのは、山箭だと思うわ。割符は、主にその山箭が扱いを許される道具で、二つの場所を()()()()力があると───兄は言っていたわ。二つ一組になっていて、片方を壊すと、もう片方のあるところまで、一瞬にして移動できると」

(場所と場所を、()()()()……)

 うつむくと、ほどけた髪が垂れ下がった。

 当然だ。挿していたかんざしを、割符を、割ってしまったのだから。

 割符が、二つの場所をつなぐための道具であるとするならば、なぜ雨星は、この場所の過去につながってしまったのだろう?

「わけがわからない……」

 額を押さえ、雨星がうめくと、そうよね、と香蓮はうなずいた。

「こんなこと、突然話されても、混乱するわよね」

 淹れ直させるわ、と彼女は言った。

 何のことかと思うと、茶のことだった。すっかり冷めてしまった柚子茶を、恵麻があたたかいものにかえてくれた。その香りを嗅ぎながら、雨星は、立ち上る白い湯気をじっと見つめた。

『おまえは、誰だ?』

 嘉月の問いが思い出された。

(そんなの、わたしのほうが聞きたい)

 むしろ教えて欲しいくらいだ。扇市(せんし)に暮らすただの針子(はりこ)なのか。それとも、新賜の女王と中王国の王子との間に生まれた、子供なのか。そのことに、一体何の意味があるのか。いや、あるのだろう。雨星が無意味だと思おうとどうだろうと、少なくとも、現在の女王、綾にとっては、大きな意味を持つのだ。

(そういえば……)

 ふとあることに気づき、雨星は顔を上げた。

 白い湯気の向こうに香蓮を見て、何気なく尋ねる。

「嘉月さまは?」

 姿が見えないがどこかにいるのか、と。

「───」

 香蓮は答えに(きゅう)した。雨星には、そのように見えた。

 背後に控えていた恵麻もまた、やはり息を呑んだようにそっと唇を開き、香蓮さま、と主に声をかける。その労るような声音に、香蓮は、いいのよ、大丈夫、と応じた。自身を落ち着かせるかのように、ゆっくりと茶をすすり、ややあって口を開く。

「母は亡くなったわ」

 え、と雨星が声を漏らす。

「本当に……?」

「ええ。あなたと出会った、あの春の日の、すぐ後に。───溺れ死んだの。あなたが溺れていたのと同じ、あの池で」

 雨星は愕然(がくぜん)とし、眉根を寄せた。

 どうして、とうめく。

(溺れ死んだって、そんな……)

「なぜ池で」

「わからない」

 抑えていたが、忸怩(じくじ)たる思いを(にじ)ませる声音で、香蓮は言う。

「わからないの、何も。多くの人が自害だろうと言ったわ。岸に、(くつ)が並べて置かれていたから。父さまも、母さまには心の病があったと、そう仰って。でも、わたくしも兄さまも、そんなはずはないって思ってる。あの母が、自害だなんて、そんなこと。足を滑らせただけなのかもしれないし、あるいは……」

 ───誰かに殺されたか。

 言葉にこそしなかったものの、彼女がそう言おうとしたことは、明らかだった。

 雨星は、あの時、母親の膝の上で、キャッキャッと笑っていた幼い少女のことを思った。彼女はあのように幼い身で、母親を突然に失ってしまったのだ。そして、よりどころであったろう兄でさえも、のちに、新賜に婿入りしてしまった。そばに仕える人々がいるにしても、どんなにかさみしかったことだろう。

「香蓮……」

「ごめんなさい。暗い話で。そうだわ、軽く食べるものを……」

 パッと顔を明るくしてみせた香蓮だったが、部屋に入ってきた茉莉から何らかの耳打ちを受けると、再びその顔を曇らせた。どこか葛藤(かっとう)するようなまなざしで、雨星のほうを見つめる。

「どうかしたの?」

「雨星」

 落ち着いて聞いてね、と言う。

「あなたと一緒にここにあらわれた、あの山箭の男なのだけれど───あなたにならすべてを話してもいい、と言っているそうなの」

(あの男と、話す?)

 闇をつんざく霜飛の悲鳴と、ぶち撒けられた血のにおいがよみがえり、雨星は、わずかに肩を震わせた。

「怖いわよね。でももちろん、わたくしたちも同席するわ。どうする……?」

「……」

 あの男に聞けば、と雨星は思った。

(何もかも、わかるのだろうか。教えてくれるのだろうか。色々なことの、理由を……)

「わかった」

 雨星は顔を上げ、うなずいてみせた。

「話を聞きに行く」




 その扉には(かんぬき)がかけられ、閉ざされていた。

 茉莉、と香蓮が声をかける。すると大柄な侍女は、いとも軽々と、その重そうな閂を外し、扉を開いた。

「彼女は力持ちなのよ」

 香蓮がいたずらっぽく笑いながら言った。

 灯りを手に先導したのは、恵麻だ。どこか強張った面持ちで、異変がないことをたしかめ、どうぞと雨星たちを促す。

 一歩前へ進み出ると、冷たい空気が足元から這い上がり、背筋を撫でていった。

 部屋の中は真っ暗で、恵麻の持つ灯りだけが光源だ。その心もとなさが、雨星の不安を煽った。室内は狭く、石壁で、窓もない。大きな麻袋がいくつも置かれており、倉庫として使われている部屋だとわかった。

 手前には椅子が一脚置かれ、男が一人、そこに縛りつけられていた。

 眠っているのか、うなだれていて、顔は見えない。治療を受けたのだろう、わずかにはだけた衣の下に、包帯の色が見える。首には紐が下げられ、その先に、小さなしずく型をした翡翠の飾りが揺れていた。

 雨星はほんの少し近づき、男の前に立った。

 恵麻が灯りを掲げ、男を照らす。

 すると、

「まぶしい」

 うなだれたまま、男が言った。

 雨星はぎょっとして身を引いた。ぴくりとも動かなかったので、てっきり眠っているものと思っていたのだが、違ったのだ。

 男はゆっくりと、顔を上げた。

 目も、髪も、衣も、夜の色をしている。瞳は黒曜石にも似ていたが、生き生きとした輝きが微塵もないため、新月の夜のようだと雨星は思った。整った顔立ちをしていたが、その表情の乏しさのあまり、人間らしい美しさではない。この雰囲気には、覚えがある。

(やっぱり、このひとだ)

 激昂(げきこう)した霜飛に首を絞められ、殺されかけた時、助けてくれた男と同じだった。

 抜き身の刀を手に、こちらを見下ろした目は、やはり月のない夜のようだった。

 目をすがめて男を見つめ、雨星は尋ねた。

「あなたは、誰?」

 男は雨星を見つめ返し、ややあってから、

冬来(ふゆき)

 と答えた。

「……?」

 それが男の名前だとわかるまでに、少々の時間を要した。

 あなたは何者で、何が目的なのか───そういった意味で問いかけた『あなたは誰?』だったのだが、まさか、普通に名乗られるとは予想していなかったからだ。思わぬことに雨星がまごついていると、冬来は繰り返した。

「冬来だ」

(それはもう、わかったのだけど……)

 そうじゃなくて、と雨星が言おうとすると、冬来は、ここへ来て初めて表情を変えた。眉を寄せ、唇の端をわずかに歪めて、「まさか」とつぶやく。心外だとでも言うように。

「おれのことを、覚えていないのか?」

「え?」

 覚えていないのか───ということはつまり、会ったことがあるということだ。

 たしかに、会ったことはある。霜飛から助けてもらった時だ。顔をはっきりと見たわけではないし、言葉も交わしていないが、『会った』とは言えるだろう。その時のことを言っているのだろうか。

 雨星がそのように尋ねると、「違う」と彼は首を振った。

「でも……それ以外で会ったことはないはずだ」

「そうじゃない……」

 冬来はどことなく悲しげに、なぜだ、とつぶやいた。

(それはこっちの台詞だ)

 なぜ?どうして?

 浮かぶのはずっと疑問ばかりだ。

 雨星は、一歩前へと踏み出し、冬来の前にかがみ込んだ。

「あなたは、どうしてわたしを助けたの?」

 考え込んでいる様子だった冬来が、顔を上げた。その表情からは、何を考えているかはわからない。だが不思議と、こちらを見つめてくる目は───優しかった。

「おまえが麗の子だからだ」

「先代の女王?」

 ああ、とうなずく。

「おれは、先代の女王、麗に仕える山箭だった。彼女に忠誠を誓っていた。おまえを助けたのは、そう命令されたからだ」

「母さんが……?」

 冬来はうなずき、

「そのあたりの事情は聞いたのか」

 何をどこまで、と問いかける。

「わたしの母親が、麗という名で、新賜の先代女王だったと───だから今の女王が、わたしの命を狙うのだと。それは本当なの」

「大体は」

「あなたは山箭……とかいう、新賜の国の兵士なのでしょう?」

「そうだ」

「あの赤毛の男も?」

 そうだ、と繰り返し、冬来は軽く息をついた。

「正確には、山箭は国の兵士ではない。有事の際に国を守る軍兵(ぐんぺい)は別にいて、山箭は、女王、ひいては王族に仕える私兵だ」

「……あの時一緒にいた男たちが、山箭なら、あなたはじゃあ、仲間を裏切ってまでわたしを助けたということ?」

「そういうことになる」

 雨星は思わず、どうして、とつぶやいていた。

 冬来がかつて母親に仕えていて、彼女に命令されたから雨星を守った。言葉の意味はわかる。だがどうしても、なぜそこまでして、という思いが拭えなかった。その雨星の困惑を汲み取ったのか、冬来は補足した。

「おれはおまえに、救われたことがある」

 ───恩がある。だから助けたのだと。

「救われた?……わたしに?」

 いつ、と雨星。

「おまえは覚えていないようだが、ずっと前に」

 雨星は少し考え、やはり首を振った。

 覚えていない。それしか言えることはなかった。

(こんなひとに会ったら、きっと、覚えているはずだ)

 ましてや、ここまでの恩義を感じさせるほどに、助けたとあれば。

 だけど───と雨星は思う。父の言葉どおり、母が、雨星が幼い頃に死んだとするならば、もう十年以上前の話だ。麗が死んだ後、十年以上もの間、冬来は今の女王に仕えていたということになる。主君を……麗を殺した相手に、だ。

(信用できない)

 そう思ってしまう。

 冬来が、身を挺してまで雨星を助けてくれたことは事実だ。かといって、彼の言葉をすべて信じていいものかとなると、それは無理だと思うのだ。何らかの目的のために、裏切ったふりをしている……そう考えることだってできる。

(なぜ、今の女王は……)

 こんなにも執拗(しつよう)に、雨星を狙うのだろう。

 先代女王の子だから?復讐を恐れて?

 そんなことは、絶対にしない。そう、心から言えるのに。人を殺したりなんかしない。殺したくない。王位なんて望まない。ただ、そっとしておいて欲しい。刺繍をしながら、穏やかに、静かに生きていきたいだけ。父がかつて、そう望んだように。

「わたしは、王位も、何も望んでいない。ただ生きていたいだけなのに……」

「それすらも許せない人間がいる」

 その言葉に絶句し、青ざめた顔で冬来を見る。

 冷たく言い放たれた一言ではあったが、それとは裏腹に、こちらを見つめる冬来の目は、驚くほどに優しかった。

「おまえのことは、おれが守ると約束する。この力の及ぶかぎり、おまえを生かし、おまえの望む場所へともに行こう。このまま逃げ続けるか、それとも戦うか───おまえの心が定める指針に、従うと誓う」

「───」

 雨星の唇が一瞬、痙攣(けいれん)するように震えた。

 唐突に、その言葉にすがりついて、大声で泣きわめきたい衝動に駆られる。

(逃げるか、戦うか)

 道を選ぶ。

 それはとても、怖いことだ。血まみれで床を這いずる霜飛を見た時、雨星は、これまで進んできた道を後悔した。霜飛を傷つけないように気遣っていたことが、結局のところ、彼を傷つけてしまったからだ。もっと強い言葉で、雨星が彼をはねつけられていれば───霜飛は、ああはならずにすんだかもしれないのだから。

 道の先に何が見えたとしても、後戻りはできない。

 やり直しはきかない。

 選んだ道次第で、誰かが傷つく可能性だってある。それは父かもしれないし、香蓮かもしれないし、雨星自身かも。それでも、冬来は決めろと言う。

 厳しい言葉で。冷たい口調で。

(なのに、どうして)

 そんな優しい目で見るの?

「わたし、は……」

 雨星は迷い、黙り込んだ。

 そのまましばし無言でいると、冬来が小さく息をつき、言った。

「ゆっくり決めろと言いたいところだが、それは難しいだろう。三人のうち、二人の山箭を逃がした。一人は新賜に戻り、おまえを逃がしたことを女王に報告しているはずだ。もう一人は、直接こちらを追っているはず。青晨の出自が明らかである以上、割符での行き先を推察するのはそう難しくない。───おい」

 冬来は、雨星ではなく、雨星の背後に声をかけた。

「ここは内宮(ないぐう)だな」

 顔をしかめ、「無礼な」と気色(けしき)ばむ恵麻を遮り、香蓮がうなずく。

「……そうよ」

「中王国の王宮内にも、新賜の間者は多い。ここは、外から入ってくる者に関しては守りは堅いが、すでに中にいる者に関しては甘いところがある。本国と連絡を取られていた場合、厄介だ。十分に注意を払え」

「それなら問題ないわ。この祥月殿には、侍女から下女に至るまで、本当に信頼できる者しか置いてないから」

「なら、ある程度の時間は稼げるだろう。だがやはり、ゆっくり決めろとは言い難い。すぐにでも今後を決めてもらえれば、こちらとしては助かる」

「助かるって……」

 まるでもう、雨星と行動をともにすることを前提としたような言葉だ。

(逃げるか、戦うか?)

 そんなにすぐには決められない。

 だが冬来は、こちらを見つめ、答えを待っている。

 もし、と、雨星は口を開いた。

「もし、戦うことを選んだら、わたしは───誰かを殺すことになるの?」

 いや、と冬来は首を振る。

「それはおれの仕事だ」

「でもそうやって、戦って、誰かを殺して道を進んだとして───先には何があるの。終わりはいつ来るの?」

「来ない」

 冬来は言う。

 女王を殺さないかぎりは、と。

「わたしは王になりたいわけじゃない!」

 その声は、悲鳴に近かった。

 静かな夜に大きく響き、香蓮の手が、そっと背中をさするのを雨星は感じた。

 たまらずぽろりと、一粒だけ涙がこぼれ落ちる。

「なら、逃げるか」

 え、と雨星はつぶやいた。

「逃げることに関してだけなら、策がある」

「策……?」

「奥の手だ」

 冬来は再び目線を背後に向けて、「おれの刀は」と問いかけた。

 前へと進み出たのは、茉莉だ。彼女は手に、中王国のものよりも細く、短い、黒塗りの鞘に収まった刀を持っていた。

脚絆(きゃはん)に道具を隠してある。それを使って、柄頭(つかがしら)を外せる」

 茉莉が無言のまま、冬来の脚絆をあらため、細い針のような道具を取り出した。

 それを使い、柄のあたりを軽くつつく。すると、いとも簡単にふたのようなものがぽろりと外れた。   

 そこから、茉莉の手の上にころりと転げ落ちたのは、小さな翡翠の帯飾りだった。

 繊細な短冊形をしていて、帯に下げるための赤い緒がついている。

 これは、と雨星が目で問うと、

「割符だ」

 冬来はこともなげに言い放った。

 茉莉はそっと、雨星の手のひらの上にそれを乗せた。

「それが奥の手だ」

「割符……」

「そうだ。ただの時間稼ぎにしかならないが、数年ほどであれば、安全に暮らせる場所まで移動できる。おまえが争いを好まないと言うのなら、それもまた一つの答えだ。逃げ続けながら生きる覚悟があれば、それを割ればいい」

 雨星はしばし小さな翡翠を見つめたが、ややあって、無言でそれを茉莉へと返した。

「わたし……」

 雨星はずずっと鼻をすすった。

「父さんを待ちたい。生きているならきっと、ここに来てくれるはずだから」

 てっきり、そんな時間はないと一蹴(いっしゅう)されるかと思ったが、冬来は何も言わなかった。

 逃げるか、戦うか。一人では決められない。できることなら、父と話をして、ともに行きたい。その、どちらを選ぶにしても。

 冬来は答えず、ただ静かに目を閉じた。

 雨星たちが部屋を出て、茉莉が再び閂を下ろしても、彼は動くことはなかった。


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