第四話 再会
4
生ぬるい暗闇から一転、雨星は冷たい夜気の中へと放り出された。
背中から地面に落下して、再び「痛い!」と声を上げる。
手をつくと、固く、冷ややかな感触。石畳だ。どうりで痛いわけである。乱れた長い髪が顔に覆いかぶさり、うまく前が見えなかったが、今が夜で、ここが祥月殿だということだけはわかった。なぜなら、睡蓮の浮かぶ大きな池が、赤い欄干と緑の柱の向こうに、ぼんやりと浮かび上がって見えたからだった。
つまりここは、庭と殿舎をつなぐ、渡殿の上というわけだ。
「───雨星?」
すぐ近くから、声がした。
髪をかき上げながら、そちらを見る。
「雨星、なの?」
一人の女と、目が合った。
結い上げた黒髪と、その髪よりも薄い色の瞳。ぱちぱちと瞬く、丸いどんぐりのような両の目。桃色の衣を身にまとう、記憶にある姿よりも年かさのその女は───なぜかその喉元に、銀色のかんざしの、鋭い先端が突きつけられていた。
「香蓮さまを離しなさい!さもないと……!」
背後から怒声が響く。雨星は振り返った。
叫んだのは、恵麻だった。
今にも卒倒しそうに青ざめているが、ぶるぶる震える手で、金属製の灯台を振り上げていた。
「落ち着いて、恵麻」
「なぜ姫さまのほうが落ち着いてらっしゃるのです!もっと慌ててくださいませ!」
「そんな無茶な……」
香蓮の喉元にかんざしを突きつけているのは、一人の男だった。
黒髪に、黒衣。温度のないまなざし。黒い獣のような男。背中の傷から足元に血が滴り、小さな血溜まりができている。
「やめて」
雨星はふらりと立ち上がった。
言葉が口をついて出る。
「やめて。何をしているの。香蓮を、離して」
しかし男は、香蓮を解放しないまま、雨星に向かって片手を差し出した。
そして言うのだった。
「来い」
(来い?)
意味をわかりかねて、雨星は顔をしかめた。言葉の意味ではない。こんな真似をしておきながら、そのような物言いをして、雨星が従うだろうと思っている、彼の考えがわからなかったのだ。
「嫌だ」
雨星にしては珍しく、強い語調で言い放つ。
「香蓮を、離せ」
「……」
男はゆっくりと、差し伸べていた手を下ろした。そして、意外にもあっさりと香蓮を解放したのだった。持っていた銀のかんざしを地面に放り投げ、彼女の背中を、雨星のほうへと軽く押しやる。
「香蓮!」
「雨星!やっぱり、あなたなのね。あのときの姿のままだわ」
二人は互いに駆け寄り、抱きしめあった。
年齢以外、香蓮にさほど大きな変化は見られなかった。嘉月と出会った時は五、六歳、父と二人で話をしていた時は、十六、七の年頃に見えたが、現在は二十代後半といった姿だ。
(今に戻ってきたということか)
「よかったわ、無事で」
香蓮は、ふところから布包みを取り出し、開いてみせた。
そこにあったのは、粉々に割れた、翡翠の欠片だった。
「わたくしの預かっていたかんざしが壊れたのに、あなたの姿がどこにも見えないから、とても心配したのよ。恵麻と一緒に、祥月殿の中を探していたら、あなたの代わりにあの男があらわれて……」
───雨星はどこだ。
そう言いながら、香蓮のかんざしを抜き取り、喉元に突きつけたのだという。
「だから、あなたを狙う山箭なのではないかと思ったのだけれど……」
雨星は男を振り返った。
武器を捨てた彼は、抵抗することなく、大柄な女───茉莉に取り押さえられていた。恵麻はまだ灯台を構えたままだ。だが、先ほどまでの様子が嘘だったかのように、男はひどくおとなしかった。
(あなたは、何者?)
雨星に斬りかかってきた、あの赤毛の男の仲間なのではないのか?
「ひとまず中へ」
香蓮が雨星の背中に手を添えて、促した。
ほっと肩の力が抜ける。自分で思うよりもずっと気を張っていたようで、一気に疲れが押し寄せてきた雨星は、ふらついた。香蓮に支えられながら、彼は、祥月殿の中へと歩き出したのだった。
(あたたかい……)
氷のように冷たかった手足がぬくまり、血が巡っていくのがわかる。
雨星が通された一室は、かつて嘉月に招かれたその部屋だった。
とてつもなく広い私室である。その景色は、記憶の中にあるそれとさほど変わらない。革張りの長椅子に座らされ、雨星は、柚子の茶を供された。あたたまりますよ、と笑ってくれた恵麻は、皺が増え、白髪も見られるようになっていたが、そこにはたしかに、かつての面影があった。
雨星の向かいに腰掛け、香蓮は、改めて、と口を開いた。
「わたくしの名は、香蓮。あなたの叔母よ」
───はじめましてではないわね。
彼女はそう言って微笑んだ。
雨星は、おずおずと口を開く。
「あなたは、わたしが、あの時の雨星だと……」
「ええ、そうよ。信じているわ。あなたが今着ているその衣は、母のものだもの」
雨星は思わず、自身の姿を見下ろした。
池から助け出され、着替えとして渡された、青磁の衣のままだった。つまり雨星は、幼い頃の香蓮と対面した雨星の、そのものの姿だったのだ。
「教えて、雨星」
香蓮がつと笑みを消し、真剣な表情で言った。
「一体、何があったの?兄さまはどこへ?」
雨星は膝の上で、ぎゅっと拳を握りしめた。
わからない、とつぶやく。
最後に見た父の姿は、床に倒れ、こちらに向かって「割れ」と叫ぶ必死の形相だ。その後、霜飛が家の中に飛び込んできた混乱で、父がどうなったかはわからないまま、雨星は翡翠のかんざしを割った。
「わからない。父さんは……どうなったのか。わたしは、逃げろと言われて、あのかんざしを……」
「いいのよ、雨星。ゆっくりでいいの。順を追って話して」
雨星は、時折つっかえながらも、何が起こったのかを香蓮に語った。
もしかしたら、あの赤毛の男が父を───と、雨星が声を震わせると、香蓮は大丈夫だと言って、雨星の手をぎゅっと握った。
「兄さまは昔から、変装や、抜け道を見つけるのが得意だったの。よく、隠れてここを抜け出して街まで行って、母さまに怒られていたわ。だから、大丈夫。きっと無事よ。自力で何とかしていると思うわ」
雨星の目から、こらえていた涙がぽろりとこぼれ落ちた。
ずっと張り詰めていた心が、緩んでいくのを感じた。
(父さん。どうか、無事でいて)
いつもの優しい笑顔で、「おかえり」と言って欲しい。あの町に、あの家に帰りたい。
「どうして……」
雨星は涙を拭いながら、顔を上げた。
「あの男たちは、どうしてわたしを殺そうとしたの。あの男たちは、一体何?それに、あの翡翠のかんざしは……」
「兄さまは、あなたに何も話していなかったのね。まったく……あのひとらしいこと」
香蓮は、同情と呆れを器用に織り交ぜた目で、雨星を見つめた。
とはいえ、と続ける。
「わたくしも、兄から多くを聞いたわけではないの。こっそりと手紙でやり取りはしていたけれど、それも頻繁にはできなくて。知っているのは、あなたが誰に命を狙われているか、ということくらい」
「それは誰なの?」
香蓮は答えた。
「───新賜の女王よ」
いっそ、あっさりとした物言いであった。
おそらく、雨星を混乱させないための、そのような振る舞いであったと思われたが、無駄だとしか言いようがなかった。その一言だけで、雨星は十分に困惑した。
(新賜……新賜って、北の、隣国の?)
名前は知っているが、その国についてさほどの知識はない。
中王国の北方、険しい山脈を超えた先、半島の先端に位置する国。中王国とはあまり友好的な関係ではなく、陸路での行き来が難しいため、交易も盛んではない。代々、女王が統治している。その程度だ。もちろん、雨星は新賜へ行ったことなどない。
(その女王が、なぜわたしを?)
「あなたが先代の女王の子だからよ」
雨星の心中を見抜いたかのように、香蓮が言った。
「あなたは、新賜の先代女王、麗と───わたくしの兄、中王国の青晨王子との間に生まれた子なのよ」
兄は女王の王配だったの、と。
王配───つまり夫だ。
(父さんが?)
何も言えない雨星を香蓮はしばし見つめ、やがて続けた。
「現在の女王である綾は、実の姉である麗を殺し、王位を簒奪したそうよ。その時に、まだ幼子だったあなたと、兄さまをも一緒に殺そうとした。だから兄は、あなたを連れて中王国へ逃げてきたの。その時に会ったのが、直接話をした最後」
───あれは、その時の光景だったのだ。
雨星は思った。
冬枯れの庭で、幼い雨星を抱えた父と、香蓮が話をしていたあの光景。思い返してみれば、父は非常に切羽詰まった様子だった。あれは、命からがら逃げてきたからだったのだ。父はただひたすら、静かに、平和に生きていくことを願っていた。
(父さん……)
「少ししか話はできなかったけれど、その時にわたくしは、翡翠のかんざしの片割れを託されたの。あの、割符をね」
「わりふ……?」
ええ、と香蓮はうなずく。
「女王は、山箭と呼ばれる私兵を有しているの。おそらく、あなたたちを襲った男たちというのは、山箭だと思うわ。割符は、主にその山箭が扱いを許される道具で、二つの場所をつなげる力があると───兄は言っていたわ。二つ一組になっていて、片方を壊すと、もう片方のあるところまで、一瞬にして移動できると」
(場所と場所を、つなげる……)
うつむくと、ほどけた髪が垂れ下がった。
当然だ。挿していたかんざしを、割符を、割ってしまったのだから。
割符が、二つの場所をつなぐための道具であるとするならば、なぜ雨星は、この場所の過去につながってしまったのだろう?
「わけがわからない……」
額を押さえ、雨星がうめくと、そうよね、と香蓮はうなずいた。
「こんなこと、突然話されても、混乱するわよね」
淹れ直させるわ、と彼女は言った。
何のことかと思うと、茶のことだった。すっかり冷めてしまった柚子茶を、恵麻があたたかいものにかえてくれた。その香りを嗅ぎながら、雨星は、立ち上る白い湯気をじっと見つめた。
『おまえは、誰だ?』
嘉月の問いが思い出された。
(そんなの、わたしのほうが聞きたい)
むしろ教えて欲しいくらいだ。扇市に暮らすただの針子なのか。それとも、新賜の女王と中王国の王子との間に生まれた、子供なのか。そのことに、一体何の意味があるのか。いや、あるのだろう。雨星が無意味だと思おうとどうだろうと、少なくとも、現在の女王、綾にとっては、大きな意味を持つのだ。
(そういえば……)
ふとあることに気づき、雨星は顔を上げた。
白い湯気の向こうに香蓮を見て、何気なく尋ねる。
「嘉月さまは?」
姿が見えないがどこかにいるのか、と。
「───」
香蓮は答えに窮した。雨星には、そのように見えた。
背後に控えていた恵麻もまた、やはり息を呑んだようにそっと唇を開き、香蓮さま、と主に声をかける。その労るような声音に、香蓮は、いいのよ、大丈夫、と応じた。自身を落ち着かせるかのように、ゆっくりと茶をすすり、ややあって口を開く。
「母は亡くなったわ」
え、と雨星が声を漏らす。
「本当に……?」
「ええ。あなたと出会った、あの春の日の、すぐ後に。───溺れ死んだの。あなたが溺れていたのと同じ、あの池で」
雨星は愕然とし、眉根を寄せた。
どうして、とうめく。
(溺れ死んだって、そんな……)
「なぜ池で」
「わからない」
抑えていたが、忸怩たる思いを滲ませる声音で、香蓮は言う。
「わからないの、何も。多くの人が自害だろうと言ったわ。岸に、沓が並べて置かれていたから。父さまも、母さまには心の病があったと、そう仰って。でも、わたくしも兄さまも、そんなはずはないって思ってる。あの母が、自害だなんて、そんなこと。足を滑らせただけなのかもしれないし、あるいは……」
───誰かに殺されたか。
言葉にこそしなかったものの、彼女がそう言おうとしたことは、明らかだった。
雨星は、あの時、母親の膝の上で、キャッキャッと笑っていた幼い少女のことを思った。彼女はあのように幼い身で、母親を突然に失ってしまったのだ。そして、よりどころであったろう兄でさえも、のちに、新賜に婿入りしてしまった。そばに仕える人々がいるにしても、どんなにかさみしかったことだろう。
「香蓮……」
「ごめんなさい。暗い話で。そうだわ、軽く食べるものを……」
パッと顔を明るくしてみせた香蓮だったが、部屋に入ってきた茉莉から何らかの耳打ちを受けると、再びその顔を曇らせた。どこか葛藤するようなまなざしで、雨星のほうを見つめる。
「どうかしたの?」
「雨星」
落ち着いて聞いてね、と言う。
「あなたと一緒にここにあらわれた、あの山箭の男なのだけれど───あなたにならすべてを話してもいい、と言っているそうなの」
(あの男と、話す?)
闇をつんざく霜飛の悲鳴と、ぶち撒けられた血のにおいがよみがえり、雨星は、わずかに肩を震わせた。
「怖いわよね。でももちろん、わたくしたちも同席するわ。どうする……?」
「……」
あの男に聞けば、と雨星は思った。
(何もかも、わかるのだろうか。教えてくれるのだろうか。色々なことの、理由を……)
「わかった」
雨星は顔を上げ、うなずいてみせた。
「話を聞きに行く」
その扉には閂がかけられ、閉ざされていた。
茉莉、と香蓮が声をかける。すると大柄な侍女は、いとも軽々と、その重そうな閂を外し、扉を開いた。
「彼女は力持ちなのよ」
香蓮がいたずらっぽく笑いながら言った。
灯りを手に先導したのは、恵麻だ。どこか強張った面持ちで、異変がないことをたしかめ、どうぞと雨星たちを促す。
一歩前へ進み出ると、冷たい空気が足元から這い上がり、背筋を撫でていった。
部屋の中は真っ暗で、恵麻の持つ灯りだけが光源だ。その心もとなさが、雨星の不安を煽った。室内は狭く、石壁で、窓もない。大きな麻袋がいくつも置かれており、倉庫として使われている部屋だとわかった。
手前には椅子が一脚置かれ、男が一人、そこに縛りつけられていた。
眠っているのか、うなだれていて、顔は見えない。治療を受けたのだろう、わずかにはだけた衣の下に、包帯の色が見える。首には紐が下げられ、その先に、小さなしずく型をした翡翠の飾りが揺れていた。
雨星はほんの少し近づき、男の前に立った。
恵麻が灯りを掲げ、男を照らす。
すると、
「まぶしい」
うなだれたまま、男が言った。
雨星はぎょっとして身を引いた。ぴくりとも動かなかったので、てっきり眠っているものと思っていたのだが、違ったのだ。
男はゆっくりと、顔を上げた。
目も、髪も、衣も、夜の色をしている。瞳は黒曜石にも似ていたが、生き生きとした輝きが微塵もないため、新月の夜のようだと雨星は思った。整った顔立ちをしていたが、その表情の乏しさのあまり、人間らしい美しさではない。この雰囲気には、覚えがある。
(やっぱり、このひとだ)
激昂した霜飛に首を絞められ、殺されかけた時、助けてくれた男と同じだった。
抜き身の刀を手に、こちらを見下ろした目は、やはり月のない夜のようだった。
目をすがめて男を見つめ、雨星は尋ねた。
「あなたは、誰?」
男は雨星を見つめ返し、ややあってから、
「冬来」
と答えた。
「……?」
それが男の名前だとわかるまでに、少々の時間を要した。
あなたは何者で、何が目的なのか───そういった意味で問いかけた『あなたは誰?』だったのだが、まさか、普通に名乗られるとは予想していなかったからだ。思わぬことに雨星がまごついていると、冬来は繰り返した。
「冬来だ」
(それはもう、わかったのだけど……)
そうじゃなくて、と雨星が言おうとすると、冬来は、ここへ来て初めて表情を変えた。眉を寄せ、唇の端をわずかに歪めて、「まさか」とつぶやく。心外だとでも言うように。
「おれのことを、覚えていないのか?」
「え?」
覚えていないのか───ということはつまり、会ったことがあるということだ。
たしかに、会ったことはある。霜飛から助けてもらった時だ。顔をはっきりと見たわけではないし、言葉も交わしていないが、『会った』とは言えるだろう。その時のことを言っているのだろうか。
雨星がそのように尋ねると、「違う」と彼は首を振った。
「でも……それ以外で会ったことはないはずだ」
「そうじゃない……」
冬来はどことなく悲しげに、なぜだ、とつぶやいた。
(それはこっちの台詞だ)
なぜ?どうして?
浮かぶのはずっと疑問ばかりだ。
雨星は、一歩前へと踏み出し、冬来の前にかがみ込んだ。
「あなたは、どうしてわたしを助けたの?」
考え込んでいる様子だった冬来が、顔を上げた。その表情からは、何を考えているかはわからない。だが不思議と、こちらを見つめてくる目は───優しかった。
「おまえが麗の子だからだ」
「先代の女王?」
ああ、とうなずく。
「おれは、先代の女王、麗に仕える山箭だった。彼女に忠誠を誓っていた。おまえを助けたのは、そう命令されたからだ」
「母さんが……?」
冬来はうなずき、
「そのあたりの事情は聞いたのか」
何をどこまで、と問いかける。
「わたしの母親が、麗という名で、新賜の先代女王だったと───だから今の女王が、わたしの命を狙うのだと。それは本当なの」
「大体は」
「あなたは山箭……とかいう、新賜の国の兵士なのでしょう?」
「そうだ」
「あの赤毛の男も?」
そうだ、と繰り返し、冬来は軽く息をついた。
「正確には、山箭は国の兵士ではない。有事の際に国を守る軍兵は別にいて、山箭は、女王、ひいては王族に仕える私兵だ」
「……あの時一緒にいた男たちが、山箭なら、あなたはじゃあ、仲間を裏切ってまでわたしを助けたということ?」
「そういうことになる」
雨星は思わず、どうして、とつぶやいていた。
冬来がかつて母親に仕えていて、彼女に命令されたから雨星を守った。言葉の意味はわかる。だがどうしても、なぜそこまでして、という思いが拭えなかった。その雨星の困惑を汲み取ったのか、冬来は補足した。
「おれはおまえに、救われたことがある」
───恩がある。だから助けたのだと。
「救われた?……わたしに?」
いつ、と雨星。
「おまえは覚えていないようだが、ずっと前に」
雨星は少し考え、やはり首を振った。
覚えていない。それしか言えることはなかった。
(こんなひとに会ったら、きっと、覚えているはずだ)
ましてや、ここまでの恩義を感じさせるほどに、助けたとあれば。
だけど───と雨星は思う。父の言葉どおり、母が、雨星が幼い頃に死んだとするならば、もう十年以上前の話だ。麗が死んだ後、十年以上もの間、冬来は今の女王に仕えていたということになる。主君を……麗を殺した相手に、だ。
(信用できない)
そう思ってしまう。
冬来が、身を挺してまで雨星を助けてくれたことは事実だ。かといって、彼の言葉をすべて信じていいものかとなると、それは無理だと思うのだ。何らかの目的のために、裏切ったふりをしている……そう考えることだってできる。
(なぜ、今の女王は……)
こんなにも執拗に、雨星を狙うのだろう。
先代女王の子だから?復讐を恐れて?
そんなことは、絶対にしない。そう、心から言えるのに。人を殺したりなんかしない。殺したくない。王位なんて望まない。ただ、そっとしておいて欲しい。刺繍をしながら、穏やかに、静かに生きていきたいだけ。父がかつて、そう望んだように。
「わたしは、王位も、何も望んでいない。ただ生きていたいだけなのに……」
「それすらも許せない人間がいる」
その言葉に絶句し、青ざめた顔で冬来を見る。
冷たく言い放たれた一言ではあったが、それとは裏腹に、こちらを見つめる冬来の目は、驚くほどに優しかった。
「おまえのことは、おれが守ると約束する。この力の及ぶかぎり、おまえを生かし、おまえの望む場所へともに行こう。このまま逃げ続けるか、それとも戦うか───おまえの心が定める指針に、従うと誓う」
「───」
雨星の唇が一瞬、痙攣するように震えた。
唐突に、その言葉にすがりついて、大声で泣きわめきたい衝動に駆られる。
(逃げるか、戦うか)
道を選ぶ。
それはとても、怖いことだ。血まみれで床を這いずる霜飛を見た時、雨星は、これまで進んできた道を後悔した。霜飛を傷つけないように気遣っていたことが、結局のところ、彼を傷つけてしまったからだ。もっと強い言葉で、雨星が彼をはねつけられていれば───霜飛は、ああはならずにすんだかもしれないのだから。
道の先に何が見えたとしても、後戻りはできない。
やり直しはきかない。
選んだ道次第で、誰かが傷つく可能性だってある。それは父かもしれないし、香蓮かもしれないし、雨星自身かも。それでも、冬来は決めろと言う。
厳しい言葉で。冷たい口調で。
(なのに、どうして)
そんな優しい目で見るの?
「わたし、は……」
雨星は迷い、黙り込んだ。
そのまましばし無言でいると、冬来が小さく息をつき、言った。
「ゆっくり決めろと言いたいところだが、それは難しいだろう。三人のうち、二人の山箭を逃がした。一人は新賜に戻り、おまえを逃がしたことを女王に報告しているはずだ。もう一人は、直接こちらを追っているはず。青晨の出自が明らかである以上、割符での行き先を推察するのはそう難しくない。───おい」
冬来は、雨星ではなく、雨星の背後に声をかけた。
「ここは内宮だな」
顔をしかめ、「無礼な」と気色ばむ恵麻を遮り、香蓮がうなずく。
「……そうよ」
「中王国の王宮内にも、新賜の間者は多い。ここは、外から入ってくる者に関しては守りは堅いが、すでに中にいる者に関しては甘いところがある。本国と連絡を取られていた場合、厄介だ。十分に注意を払え」
「それなら問題ないわ。この祥月殿には、侍女から下女に至るまで、本当に信頼できる者しか置いてないから」
「なら、ある程度の時間は稼げるだろう。だがやはり、ゆっくり決めろとは言い難い。すぐにでも今後を決めてもらえれば、こちらとしては助かる」
「助かるって……」
まるでもう、雨星と行動をともにすることを前提としたような言葉だ。
(逃げるか、戦うか?)
そんなにすぐには決められない。
だが冬来は、こちらを見つめ、答えを待っている。
もし、と、雨星は口を開いた。
「もし、戦うことを選んだら、わたしは───誰かを殺すことになるの?」
いや、と冬来は首を振る。
「それはおれの仕事だ」
「でもそうやって、戦って、誰かを殺して道を進んだとして───先には何があるの。終わりはいつ来るの?」
「来ない」
冬来は言う。
女王を殺さないかぎりは、と。
「わたしは王になりたいわけじゃない!」
その声は、悲鳴に近かった。
静かな夜に大きく響き、香蓮の手が、そっと背中をさするのを雨星は感じた。
たまらずぽろりと、一粒だけ涙がこぼれ落ちる。
「なら、逃げるか」
え、と雨星はつぶやいた。
「逃げることに関してだけなら、策がある」
「策……?」
「奥の手だ」
冬来は再び目線を背後に向けて、「おれの刀は」と問いかけた。
前へと進み出たのは、茉莉だ。彼女は手に、中王国のものよりも細く、短い、黒塗りの鞘に収まった刀を持っていた。
「脚絆に道具を隠してある。それを使って、柄頭を外せる」
茉莉が無言のまま、冬来の脚絆をあらため、細い針のような道具を取り出した。
それを使い、柄のあたりを軽くつつく。すると、いとも簡単にふたのようなものがぽろりと外れた。
そこから、茉莉の手の上にころりと転げ落ちたのは、小さな翡翠の帯飾りだった。
繊細な短冊形をしていて、帯に下げるための赤い緒がついている。
これは、と雨星が目で問うと、
「割符だ」
冬来はこともなげに言い放った。
茉莉はそっと、雨星の手のひらの上にそれを乗せた。
「それが奥の手だ」
「割符……」
「そうだ。ただの時間稼ぎにしかならないが、数年ほどであれば、安全に暮らせる場所まで移動できる。おまえが争いを好まないと言うのなら、それもまた一つの答えだ。逃げ続けながら生きる覚悟があれば、それを割ればいい」
雨星はしばし小さな翡翠を見つめたが、ややあって、無言でそれを茉莉へと返した。
「わたし……」
雨星はずずっと鼻をすすった。
「父さんを待ちたい。生きているならきっと、ここに来てくれるはずだから」
てっきり、そんな時間はないと一蹴されるかと思ったが、冬来は何も言わなかった。
逃げるか、戦うか。一人では決められない。できることなら、父と話をして、ともに行きたい。その、どちらを選ぶにしても。
冬来は答えず、ただ静かに目を閉じた。
雨星たちが部屋を出て、茉莉が再び閂を下ろしても、彼は動くことはなかった。




