第十話 冬来
5
雨星は資朗の手を見つめたのち、冬来へと目線をやった。
そして、あることに気がついた。
「……?」
胸元の、切り裂かれた黒装束の間から、ぽろりと何かが転がり落ちたのだ。
雨星はその、小さなものを拾い上げた。
それは、翡翠の飾り玉だった。
冬来がずっと首から下げていたものだ、と思い至る。紐がちぎれてしまったのだ。装飾品の類を身につけるような人物には見えなかったため、記憶に残っていた。その、ほの青く輝く小さな石をまじまじと見つめ、雨星はつと、眉をひそめた。
(これって……)
「どうした……?」
資朗が差し出した手をやや下げて、怪訝そうに問いかけてくる。
雨星はその問いに、答えることができなかった。
(この形、この色)
どこかで。
小さな翡翠は指先ほどの大きさで、きれいなしずく型をしている。とろりと白みがかった、青緑色。どこにでもあるような、翡翠の飾り玉だと言ってしまえば、そうだった。だが、これは。
『割符だ』
光が差し込むように、鮮やかに、記憶がよみがえる。
軽やかな少女の声。伸ばされた手。耳に当たる、柔らかくあたたかな指の感触。ちり、と耳元で鳴る、耳飾りの音。
『よいのだ。そなたに、片方を持っていて欲しい』
「───」
雨星ははっとして、おのれの耳に手をやり、耳飾りを外した。
手のひらの上で、二つの翡翠を並べる。そして、思わず息を呑んだ。まったく同じ形。まったく同じ大きさ。まったく同じ色合い───……。
(これは、一対の割符だ)
間違いない。麗の耳飾りだった。だが、なぜこれを冬来が?
「雨星、大丈夫……?」
紅雪が心配そうに声をかけてくるが、それにすら答えられなかった。
興奮のあまり、呼吸が乱れ、指先がしびれた。
(過去につながることには、意味があると母は言っていた)
ならば、雨星が過去のあの時に、麗から耳飾りをもらったことにも───今この瞬間に、その片割れを見つけて、一対の割符だと気づいたことにも、何か意味があるのでは?
(───やり直せるかもしれない)
天啓のように思った。
これを割れば、もしかしたら、雨星が戻りたいと思う時まで戻れるかも。冬来のところまで、つないでくれるかもしれない。
(でも、もし)
雨星は顔を上げて、心配そうにこちらを見つめる紅雪を見返した。
大切な親友を。
(もしこれを割って、過去に戻り、未来を変えられたなら───紅雪にはもう、二度と会えないかもしれない。父さんにも、香蓮にも)
それでも、と思う。
雨星は、小さな割符を握りしめた。
大切なものを、すべて抱えていられればいいのに、と、かつて自分は言った。現実にはうまくいかない。一つを選べと迫られ、選ぶ勇気がなくて、雨星は流されてしまった。そう───勇気がなかったのだ。今までの自分には。
「紅雪、ごめん」
雨星は微笑んだ。
そして告げた。
「さようなら」
紅雪が目を丸くする。
「待っ───」
雨星は、すぐそばにいた資朗の体を思いっきり突き飛ばすと、小さな翡翠の耳飾りを歯と歯の間に挟んだ。軽く力を込めただけで、その小さな割符は砕け散った。
ふっと体が浮き上がり、闇の中へと落ちていく。
天地が逆転し、昼夜が混ざり合い、季節が幾度も巡っていった。さまざまな景色が、多くの人々が、目の前を通り過ぎていく。雨星はその闇の中で揺らいだ。
(導いて)
闇を手でかき、ゆっくりと進む。
(冬来のところへ)
光を頼りに、闇を抜ける。
その光は、篝火だった。煌々と焚かれるそれが、薄闇を照らしていた。気がつくと雨星は板張りの上に立っており、眼下には、庭のような場所が見渡せた。あたりは、靄がかかったように、わずかに白くけぶっている。どうやら、早朝のようだ。
(ここは……)
「───なにごとだ」
雨星は、ヒエッと声を上げそうになった。
背後から歩いてきた人物が、雨星の体をすり抜けていったからであった。奇妙な感覚に背筋が粟立ち、しかしながら、幽霊になるというのはこういう気分なのか、などと妙に感心したりもした。
「夜も明けきれぬ時分から、何やら騒々しいな」
寝間着であろう白の上下を身につけた少女───麗が、そこに立っていた。
あくびを噛み殺す彼女の肩に、慌てて衣を着せかけているのは、侍女の夕顔だ。
「は。申し訳もござりませぬ」
「その声は、東雲か。何があった?」
それに答えたのは、白髪交じりの長髪を束ねた山箭だった。
「なに、子猿が奥ノ院に迷い込んだようでしてな。陛下のお手をわずらわすようなことは、何もございませぬゆえ、ご安心召されま……」
「ふざけんな!」
ふいに、キャンキャン吠える声が響く。
「おれは子猿じゃねえし、迷い込んだわけじゃねえ!」
「黙らんか!」
陛下の御前であるぞ、と、東雲は子猿を地面に押さえつけた。
だが、子猿───冬来は、ぎろりと女王をにらみつけ、なおも甲高く騒ぎ立てた。
「おい!あんたが女王か!」
麗は目を丸くし、東雲はさっと青ざめる。
「貴様、何という口を」
「雨星が消えた!」
冬来は叫んだ。
「おれの目の前で!あんたが、何かしたんじゃないのか!あんたに会ってから、あいつは様子がおかしかった。王族は不思議な力を持ってるって聞いたことがあるぞ。その力で、あんたが雨星に何かしたんだろう!」
「黙れ、馬鹿者。いい加減にせんと……」
問答無用で黙らせようとした東雲の動きを、「待て」と麗が止めた。
しんと静まり返った場で、ふむ、と腕を組み、何かを考え込む。しばし冬来のことをじっと見下ろしたのち、ぽつりと言った。
「雨星は、消えたのか」
「そうだ。煙みたいに……あんたのせいだ!」
「そうか」
つと、さみしげに目を伏せ、小さく息をつく。
「無事、あやつの今に戻ったのだな」
「何を言って……」
「離してやれ」
麗は東雲に命じた。
「ですが」
「よい。離してやれ」
東雲はしぶしぶといった様子で冬来を解放し、しかしながら、その冬来のほうがこの状況に一番戸惑っているようだった。彼は、先ほどまでの勢いはどこへやら、すっかり静かになって麗をにらんでいる。
「おまえが、冬来だな」
なぜ名前を知っている、という顔をする冬来。
警戒し、答えない彼の代わりに、「そうです」と答えたのは東雲だった。老いてはいるが、見るからに屈強そうなその男は、たくましい肩を小さくすぼめ、深いため息をついた。
「こやつは、その、少々問題を抱えておりまして……」
「ほう?」
麗はからかうように笑んだ。
「随分とそやつを気にかけてやっておるのだな。そなたほどの者が、そう言いつつも、世話を焼いておるということは」
「仕方なく、でございますよ。今はもうおりませぬが、こやつの母親は、かつてのわたしの部下でございましたゆえ」
「そうであったか」
「一体誰に似たのやら、こやつはきかん気が強く、まわりの者たちとなかなかうまくいきませんでな……」
「うるせえ、じじい。余計なお世話だ」
そう吐き捨てる冬来を、東雲はじろりとにらみつけた。女王の御前でなかったら、ぶん殴りでもしていたところだろう。
「おい、おまえ。冬来」
ぞんざいに呼ばれた冬来は、ぎっと麗をにらみつけた。
およそ山箭の卵とは思えぬ、忠誠心のかけらもないまなざしである。
そんな彼に、麗は静かに問うた。
「雨星に、また会いたいか?」
彼は一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐに気を取り直し、はっきりと言い放った。
「会いたいに決まってる!」
「そうか。わたしもだ」
「───」
麗のその言葉が、意外だったのだろう。
冬来は拍子抜けしたように眉をひそめ、一転して、弱々しく問いかけた。
「どうしたら、彼女にもう一度会える?おれは、何をすればいい?あんたは何か、知っているのか……?」
「───かのじょ?」
麗はぱちぱちと目をしばたたかせた。
かと思うと、次の瞬間、弾けるように笑い出した。
「彼女とな!これは、ははは、難儀なことよ。のう、夕顔?」
「陛下」
そのくらいに、と夕顔はたしなめるが、麗の笑い声はやまない。
一方で、冬来も東雲も、他の山箭や侍女たちも、なぜ麗が笑っているのか、さっぱりわからないのであった。
ああおかしい、と涙を拭いながら、ようやく笑いやんだ麗は、何の前触れもなく、冬来に向かって言い放った。
「おまえ、わたしの山箭になれ」
「絶対に嫌だ!」
即答した彼に、麗は、「あはは!」と、また声を立てて笑ったのだった。
(ここじゃない)
雨星は再び、闇の中を進む。
やがてまた、白い光を見つけた。
その光は、まばゆいばかりの陽光だった。
布の帳をさっとたくし上げ、躊躇なく歩みを進めるのは、冬来だった。
いつもどおりの黒装束に思えたが、よく見れば少し違う。衣には、銀糸で矢羽根の刺繍が施され、手甲や、刀にも、控えめな装飾がなされている。伸びた黒髪は、頭の高いところで結い上げられ、そこにも矢を模した銀飾りが挿されていた。
「終わったか?」
彼は、部屋の奥に向かって声をかけた。
背も、手足も、すらりと伸びていたが、まだまだ少年の面影を残している。
「冬来か」
奥からいらえがあった。姿は見えないが、それはたしかに、麗の声だった。
底抜けに明るく、軽やかであった少女のものから、涼しげで落ち着いたそれへと変わっていた。
「陛下!」
まだ終わっておりませぬ、と悲鳴を上げるのは、おそらく夕顔だろう。
「ここは暑苦しくてかなわぬ。少し外の風に当たらせておくれ」
「そのようなわけには」
「あとはもう、冠をつけるだけだろう。なに、少しばかり涼むだけだ。何を慌てることがある」
「陛下!」
白い布の囲いを跳ね上げ、「暑い、暑い」と言いながらあらわれたのは、一人の若い女だった。
「その格好でうろつかれては困りまする!」
婚礼衣装にございますぞ、と、夕顔が叫ぶ。
彼女を含め、囲いの中には多くの侍女たちがいたが、皆汗だくだった。
空は晴れており、風は湿っている。
その暑さの中、女のたたずまいは涼しげだった。
白色生絹の総身である。肩のあたりに、獅子文様の刺繍が入っているのみで、ほぼ無紋であった。
複雑に結い上げられた髪には、いくつもの翡翠のかんざしが挿されている。
いつもは紅一つ引くことのない素顔でいる彼女が、さすがにこの日ばかりは念入りに化粧を施されたと見え、目は一回り大きく、顔色は白く明るく、唇も艶めいていた。
その変わりように、冬来は驚いていた。
そしてまた、麗も彼の上から下までをじろじろと眺めている。
やがて出た、二人の声は重なった。
「馬子にも衣装」
一瞬の沈黙ののち、麗はケタケタと笑い、冬来は呆れたように笑った。
「なかなかさまになっておるではないか」
「あんたこそ。まるで別人だぞ」
「わたしは、化粧など嫌だと言ったんだが」
夕顔に怒られた、と、子供のように口をすぼめる麗。
「当然でございましょう!」
囲いから声が上がる。
「婚礼の日に着飾らず、いつ着飾るというのですか!女王たるもの、本来であれば、普段の装いから威厳というものを……」
「わかったわかった」
ひらひらと手を振って夕顔をいなし、麗は冬来を伴って部屋を出た。
庭先には、紫陽花が今を盛りと咲き誇っている。
「なぜ、おれを護衛に指名した?」
冬来が尋ねる。
「ん?」
「どう考えても、婚礼儀式の護衛役なんて、東雲が適任だったろう。なぜ、山箭になりたてのおれなんかを、わざわざ」
「その東雲に断られたのだ」
やんわりとな、と麗。
「もう引退してもおかしくない老兵ゆえ、若い者に役目を譲ると。それで、おまえを指名した。───晴れて正式な山箭となった祝いに、名誉な役目を与えてやろうと思うてな」
「名誉なもんか……」
額を押さえ、苦々しげに冬来はつぶやいた。
「何を言う。皆が妬ましげにおまえを見ておるぞ」
「だから嫌なんだよ。色々面倒だから」
「人と交わることを厭うな、若き山箭よ。面倒なことも多いだろうが、そのつながりが、いつかおまえを助けるやもしれぬ」
冬来はじとりと麗を見た。
「それは、あんたの先見か?」
「いいや、ただの私見だ。願いでもある。───一人になるなよ、冬来。そしてまた、わたしを一人にするな。わたしがいつか、悪いものとなってしまった時、おまえがわたしを討て」
冬来は目を見張った。
麗は、いつもどおりの明るい笑みで、告げる。
「おまえが悪いものになってしまった、その時に、おまえが孤独でなければ───誰かがおまえを救うだろう」
よくわからない、と冬来はつぶやく。
「よい。いつかわかる」
麗はバシンと、冬来の背中を叩いた。
「いっ……!」
「ゆえにそのように、冴えない顔をするな!」
今日のよき日に、と。
「胸を張れ、冬来。わたしの命、おまえに預ける。よくよく励むがいいぞ!」
白い光だと思ったものは、桜だった。
満開に花が咲いた桜の木が、いくつも立ち並んでいる。
そのうちの一本の木の下に、麗が立っていた。
彼女は薄紅色の花を指差し、「あれは桜だ。さくら」と、腕に抱いた赤子に教えている。しかし赤子は、誘うように舞い落ちる花びらに夢中で、何も聞いてはいない。その様子が微笑ましく、麗はくすりと笑った。
「抱いてみるか」
そして、背後に立つ護衛に声をかけた。
十六、七の若い山箭───冬来である。
彼はたじろぎ、「いや、いい」と首を振った。
「娘でなく、息子だったことが不満か?」
「それはもういいだろ。いつまで言うんだよ」
もはや勘違いを恥ずかしがることもなく、迷惑そうに言う冬来に、麗は笑った。
おおよそ、仕えている主に対しての物言いではなかったが、彼女は気にしていないようだった。笑う母親につられ、赤子も笑う。
「なんと、まあ、可愛らしいのう」
麗は眉尻を下げた。
「よもや、おのれの子というだけで、こんなにも可愛く見えるものだとは思わなかったぞ」
「そういうものなのか?」
うむ、と神妙にうなずく麗。
「そういうもののようだ。今までの世界とは、何もかもが違って見える」
「ふうん……」
「この子はすでに、わたしのかけらだ。そしてすべて」
麗は、驚くほど優しい笑みを浮かべる。
あたたかな風が吹き、桜の花を散らすとともに、赤子の赤みがかった髪を揺らした。まばらなその髪を、愛おしげに撫でながら、麗はささやく。
「愛しているよ。花鶏」
再び光を得たと思うと、それはまた篝火だった。
目前でごうと燃え上がり、怯んだ雨星があたりを見回すと、見覚えのある回廊の上だった。あの夜明けの時とは違い、空には灰色の雲がどんよりとかかり、今にも雪が降り出しそうである。
「殿下!」
バタバタと足音が聞こえてくる。
女が回廊をこちらに向かって走ってくるのが見えた。後ろには、山箭がついていた。長髪をすっかり白くした、東雲である。
「王配殿下。花鶏さま!」
「夕顔!」
女の名を呼び、反対側から駆け寄るのは、幼子を抱いた男だった。
麗の王配───青晨である。背後には幾人かの山箭がつき、周囲を警戒していた。
「麗は。彼女はどこに。無事なのか?」
「陛下はご無事でいらっしゃいます。冬来がそばについておりますゆえ」
夕顔は息を切らしながら、何度もうなずいた。
「陛下が、殿下と花鶏さまにおかれましては、先にお逃げするようにと」
「わたしたちだけ?なぜだ。まだ間に合うだろう。彼女はどこにいる?すぐに……」
「お待ちを!」
夕顔が泣きそうな声で叫ぶ。
「それが、陛下の望みなのです。どうかお聞き入れください。陛下は、花鶏さまを守るためだと。それが最善なのだと、そう言っておられました」
「そんな」
すると、緊迫した空気を感じ取ったのか、青晨に抱かれている幼い花鶏が、大きな声で泣き出してしまった。必死にあやすが、一向に泣き止もうとはしない。
遠くから、慌ただしい足音や怒号が聞こえてくる。
入口を守っていた山箭が、やられたのかもしれない。
「これを」
夕顔が、押し付けるようにして青晨に何かを手渡した。
それは、一対の翡翠のかんざしであった。小鳥の意匠の精巧な、彫りかんざし。
麗が、いつも髪に挿していたものだ。
それともう一つ。
翡翠を短冊形に削ったもの。山箭がよく用いる形の、割符だった。
それを指し、夕顔は早口に言った。
「こちらは、中王国の王宮内につながる割符です」
「何だって?」
青晨は目をむいた。
「陛下が山箭に命じて、秘密裡に用意させていたものです。内宮には、殿下の妹御がいらっしゃる。手助けしてくださるはずだと」
「なぜ、そんな。麗には、先見の力はほとんどないはずだ。まるで」
こんなことが起こると、わかっていたみたいに。
青晨がそう言うと、夕顔は泣きそうな顔をした。
「こんな日が、来なければいいと───ずっと願っておりました。幸せな日々が、平和な日々が、ずっと続けばいいと。どうか、せめて、花鶏さまだけでも、その日々の続きをお送りいただけますよう、我々は心より願っておりますゆえ」
お逃げください、と夕顔は、割符を青晨の手に握らせた。
それでもなおためらう彼に、殿下、と声をかけたのは、夕顔の背後にいた東雲だった。目元に皺を寄せ、彼は微笑んだ。
「どうか、ご安心ください。陛下のことは、我ら山箭が、命に代えてもお守りいたしますゆえ。しかしながら、この場において、花鶏さまをお守りすることができるのは、殿下しかおられませぬ」
山箭たちが、青晨らを守るように散開した。
「さあ!お早く!」
夕顔が叫ぶ。
「花鶏さまを、頼みましたぞ」
東雲が静かに告げる。
青晨は、泣き続ける我が子を見下ろした。
悲しげに、苦しげに、ぐうとうめいたのち───割符を割った。
雨星は回廊を抜け、奥へと進んだ。
割符が導いている。それを感じる。
引き戸が大きく、開け放たれていた。
「何を考えている!」
強張った声が、だだっ広い室内に虚しく響いた。
「籠城でもするつもりか。なぜ、二人と一緒に逃げなかった。こんなところに引きこもって……!」
奥座所中にいるのは、二人だけだった。
一人は、平御座にぽつりと座る女。麗だ。
もう一人は、その彼女に食ってかかる若い山箭───冬来だった。
強く、冷たい風が吹き、壁面を覆う白い帳をばさばさと揺らした。翻ったその先に、白く垣間見えるものがあった。雪だ。とうとう降り出したのだ。
「冬来」
麗は、穏やかな声で護衛の名を呼んだ。
「何だ」
「話をしよう」
そこにお座り、と言い、おのれの正面を指し示す。
頭がおかしくなったのか、と冬来はうめいた。
「今まさに、あんたの妹が、あんたを殺すために、兵を引き連れてここに向かってきてるんだぞ。話をするだと?いい加減にしろ。さっさとそこを立って、割符を持て。どこでもいい。どこかに逃げ───」
「わたしは逃げぬ」
麗はゆっくりと顔を上げ、唖然としている冬来を見る。
白い衣のその上に、山吹色の長衣を羽織っていた。鮮やかに刺繍された獅子の文様───雨星が刺繍したものに、間違いなかった。
「何……」
「わたしはどこへも行かぬ、と言った。女王が国を捨て、他国へ逃げてどうする。すべては、わたしの選択がもたらした結果だ。わたしには、それを受け止める義務がある」
「だからって、死んだらおしまいだろうが!」
冬来は必死に叫んだ。
彼が必死になればなるほど、麗の表情は穏やかに、静かになっていくように思えた。
「死んだら、何もかもが消えてなくなるのか?」
「ああ、そうだ!」
「誰かを愛していたことも、誰かを守ろうとしたことも、すべて消えてなくなると?」
冬来は一瞬、言葉に詰まった。
「それは」
「わたしは、そうは思わぬ。わたしが死んだからとて、愛が失われることはない。わたしが愛した者たちが生きているかぎり、ともに生き続ける。そうやって『過去』は作られ、『今』がそれを『未来』へとつないでいく」
あたりはしんと静まり返っていた。
今もどこかで、戦いが行われているはずなのに、そんな音すらも聞こえてこない。繰り返される冬来の荒い呼吸と、麗の緩やかな呼吸の音だけが、間近に感じられる。凍えるような寒さの中、二人の白い息が穏やかに宙に消えていくのだった。
「冬来」
麗は微笑んでいた。
「わたしの首をはねろ」
冬来が息を呑む。
「……何を言っている?」
そうつぶやく声は、かすれていた。
冬来は、刀を持つ手に力を込めた。まるで、たった今、自分が帯刀していることに気づいたかのように。
麗は静かに続けた。
「わたしの首をはね、綾のところへ持っていけ。あの子が一番欲しがっているものは、この国でも玉座でもない。わたしの首だ。それを手土産に、これから先、おまえは綾に仕えるのだ」
口を開けたまま、何も言えないでいる冬来に、麗は続ける。
「外からだけでは、花鶏を守りきれぬ。誰かがここに残り、内からあの子を守らねば。それができるのは、冬来、おまえだけなのだ」
「ふ……」
ふざけるな、と言う声には、力がなかった。
「そんなことできるか」
「いいや、やらねば」
麗はおもむろに、みずからの耳飾りを外した。
小さな翡翠の耳飾りだ。これを、と冬来に差し出す。
「これからは、おまえが持っていろ」
冬来は、ふらつきながら彼女に歩み寄り、それを受け取った。
「……これは?」
「割符だ。もう片方は、雨星が持っておる」
その言葉に、冬来ははっと麗を見た。
彼女が、花鶏ではなく、雨星と言ったからだった。
「この小さな割符が、おまえたちの絆となるだろう。いつかきっと、二人の場所をつなぐはずだ。どんなに遠く離れていても───必ず」
冬来は顔を歪め、耳飾りを握りしめた。
「無理だ。おれには、できない」
声を振り絞る。
「やるのだ。おまえしかできる者はおらぬ。おまえだから頼むのだ」
「嫌だ」
やりたくない、と冬来は首を振る。
「冬来!」
「嫌だ!」
「雨星を守れるのはおまえしかおらぬ!遠い未来で、山箭からあの子を助けたのはおまえなのだ!おまえが死ねば、あの子も死ぬ!それでよいのか!」
「───」
「頼む、冬来。どうか、あの子を助けてやっておくれ」
麗は悲しげに微笑み、おのれの髪を手でくくった。
うつむき、白い首筋を冬来に差し出す。
「やれ」
冬来は叫びをこらえるかのように───天を仰いだ。
どれほど長い間、そうしていただろう。麗はただ静かにうつむき、刃を待ち続けた。ようやくこの部屋まで、人の声や、足音が聞こえるようになった頃、冬来は、一つ、息を吐いた。それはまるで、嗚咽のようだった。
そして彼は、鯉口を切った。
『民や家臣を見捨て、おのれのみが割符で国外へと逃れようとした、愚かな王をこの手で討った』
冬来はそう告げるとともに、綾に麗の首を差し出した。
そして、新しい女王の足元にひざまずき、忠誠を誓ったのだった。
麗の血にまみれたまま、彼は蹌踉とした足取りで城内をさまよい、ここへ来た。
かつて、雨星と並んで座り、町を見下ろした場所に。
うっすらと雪の積もった地面に突っ伏し、動かなくなった彼の、その背中にも、すでに雪が積もり始めていた。それを見つめる雨星の目から、音もなく流れるのは涙だった。
(母さん……)
これから先、十年以上も、冬来は綾に仕え続けた。
怒りを、悲しみを押し殺し、そうするうちに、すべての感情を殺して。
(どんな思いで)
───もう、時間がない。
溶けていく景色を眺めながら、雨星は思った。
たどり着きたい今に向かって、足を踏み出せと、割符が導く。
早く進め。
さあ!
(でも、わたしはまだ……)
パキン!
容赦なく時は進んでいく。
とうとう、小さな割符は砕け散った。
暗闇の中を漂いながら、雨星はまた光を探した。
『おれだけが、冬の中に取り残されて』
声が反響し、たなびいて消える。
上へ下へと回転しながら落ちていく雨星には、それがどこから聞こえたものなのかはわからなかった。しかし、誰の声なのかはわかった。
闇の中に、粉々になった翡翠の欠片が散っていた。
そのさまはまるで、満天の星。
『みんな、いなくなってしまった。母さんも、麗も、雨星も』
翡翠の欠片の一つが、きらりと光る。
その向こうに見えたのは、夜桜だった。白く浮かび上がって見える桜の下で、若い女が泣いていた。心細げに泣きながら、ゆっくりと体をゆすり、何かを口ずさんでいる。
子守唄だ。
黒曜石に似た黒い瞳が、腕に抱いた赤子を見つめている。
同じ瞳をした赤子は、不思議そうにそれを見上げているのだった。
このひとは、と雨星は思った。
(冬来の、お母さん……)
『そこにいなければ、何もかもないのと同じ。そうじゃないのか?母さんが死んで、何もなくなってしまったと思った。何の意味もなかったと。でも、雨星が、母さんはきっとおれのことを愛していたと言った。麗は、死んでも愛は残ると言った』
別の欠片が、光を放つ。
見えたのは、ちょうど、こちらを振り返る若い娘の姿だった。
整えられた栗色の髪に、小鳥を象った、一対の翡翠のかんざしを挿している。
いたずらっぽく笑う彼女の、唇が動く。
声は聞こえないが、親しげであることはわかる。
女王と山箭という身分違いでありながら、二人は同じ目線でいた。
友のように笑いあっていた。
『そこにいなければ、死んでしまったら、いないんだ。そうだろ?それなのに、母さんも、麗も、雨星も、おれの前から消えてくれなかった』
ああ、と声を漏らし、雨星は唇を震わせた。
『季節が、何度も、何度も、繰り返されていく。冬が去って、春が来る。でも、おれだけがいつも、冬の中に取り残される』
一際まばゆい光を放つ、欠片があった。
その先に、少し困ったように微笑む、誰かがいた。
陽の光に淡く透ける、柔らかな赤みがかった髪。青磁色の衣をまとい、その誰かは、膝を折ってかがみ込んでいた。
手には、小さな胡麻団子。
(これは)
わたし。
(でも……)
そのひとは、鏡で知る自分とは、少し違う。
『忘れたい。忘れたくない。ただ、もう一度会いたい』
光が消えた、その向こうに、男が立っていた。
抜き身の刀を握りしめ、彼は、血の涙を流していた。
(冬来……!)
雨星は、重く冷たい闇をかき分けながら、男のほうへと走った。
その目からこぼれ落ちた涙が、足元の雪を溶かし、花を咲かせていく。
『もし、もう一度会えたら、今度こそ絶対に、命を懸けて守ってみせるのに』
雨星は、冬来を抱きしめようとして───その手は空を切った。
冬来の姿が、雪の地面が、明るくなりつつある空が、滲むように溶けていく。
ほころび、ほどけて、また新たなどこかへとつながっていく。
こっちだ、と誰かが指差していた。
山吹色の衣の裾が、風にふわりと翻る。
(冬来!)
雨星は呼んだ。
たどり着きたい場所へ、時間へ───つながるようにと。




