第十一話 遡行
6
ガクリと膝の力が抜けて、雨星は思わず地面に手をついた。
(ここは?)
「大丈夫?」
後ろから紅雪の声がした。
雨星が突然うずくまったので、心配になったのだろう。雨星が振り返ると、その隣にいた老女もまた、「どうかなさいましたか」と、案ずるように声をかけてきた。
雨星は目をすがめ、老女を見つめた。
髪は白く変わり、痩せ細ってはいたが、その面差しには見覚えがある。
「あなたは、もしかして、夕顔?」
雨星がそう尋ねると、老女は一瞬目を丸くし、すぐに嬉しそうに、どこか懐かしげに微笑んだ。
「はい。お久しゅうございます」
生きていてくれたのだ、と思った。彼女は危険を顧みず、父と自分を逃がしてくれ、幸せを願ってくれた、命の恩人だった。
「よかった。生きていてくれて」
「もったいなきお言葉」
夕顔は涙ぐみ、それを隠すように顔を伏せた。
その時だった。
「ははっ!」
響いたのは、激しい笑い声。
綾の声だ。雨星ははっとして、そちらを見た。
彼女の姿は揺らぎ、一時消失したかと思うと、二人の山箭と挟み撃ちにする形で、冬来の背後にあらわれる。
(───戻った)
雨星は息を呑んだ。
(戻れたんだ。望んでいた今に)
無意識に耳に触れる。そこにはもう、耳飾りの感触はなかった。
もう後戻りはできない。やり直しはきかない。それでも。
(未来を、変えてみせる)
雨星は膝に力を込めて、立ち上がった。
前回と同じく、挟撃された冬来は一瞬迷い、右手にいる山箭に向かって大きく刀を振り抜きながら、そこを脱した。斬られた山箭は大きくのけぞり、持っていた刀を取り落とす。それは回転しながら地面を転がり、雨星のすぐそばへと。
雨星は、それを見つめた。
前回の自分も、気づいていたのだ。
だが、それを取らなかった。怖かったからだ。この手で誰かを守れるとは、とても思えなかった。
(でも、今度はもう、迷わない)
「許さない。おまえだけは、この手でずたずたにしてやるわ」
綾が再び、髪に挿している翡翠のかんざしを抜く。
それと同時に、雨星は地を蹴った。
なりふり構わず走り、落ちていた刀を拾い上げる。重い───細く見えて、こんなにも重いものだったのか、と思った。よろめきながら両手で持ち上げ、前に構える。今まさに割符を噛み割ろうとしていた綾は、ぽかんと口を開けて雨星のその行動を見やったが、すぐに鼻で笑い飛ばした。
どうせ大したことはできまい、と思われているのだ。
彼女は雨星を嘲笑したのち、気にすることなく、割符を噛み砕いた。
陽炎のように揺らぐ、その立ち姿に向かって振り下ろされた冬来の刃が、空を切った。
「よせ!」
走ってくる雨星に気づいて、冬来が叫んだ。やめろ、と。
だが雨星はやめなかった。足を止めなかった。
言葉にならない叫び声を上げながら、まっすぐに走る。
迷うことなく。
なぜなら。
(わたしは、おまえが次にどこにあらわれるかを、知ってるんだ!)
「わああ!」
雨星はでたらめな動作で、宙に向かって刀を突き出した。
まっすぐに伸ばされた腕の先───刃が、綾の体に届く。
冬来の頭上から一撃を繰り出そうとしていた彼女は、ふいに脇腹を刺突され、ぎゃあ、という品のない悲鳴を上げた。身をよじり、そのまま落下する。あまりに想定外な攻撃に、受け身も取れず地面に転がり、獣じみたうなり声を上げた。
しかしながら、雨星の一突きは致命傷とはならなかったようだった。
彼女はすぐさま身を起こすと、血走った目で雨星をにらみつけた。
そして、
「このッ……!」
持っていた刀を、振りかぶった。投げつけるつもりなのだ。
「あ……」
避けなければ。わかっているのに、あるだけの勇気を出し切ったせいで、足が震えて、力が入らなかった。雨星は呆然と、その綾の動きを眺めることしかできなかった。だめだ。動けない。避けられない。死ぬ。
「……っ」
やがて雨星が感じたもの───それは痛みではなく、刃風だった。
「あああ───!」
絶叫したのは、綾のほうだった。
刀を振りかぶっていた腕をすっぱりと斬り落とされ、血が噴き出るそれを押さえながら、痛い痛いと喚き立てる。
血塗れの刀を手に、それを見下ろしていたのは、冬来だ。
いっそ静かな表情で、彼は泣き叫ぶ女王を見つめていた。
綾は、どうしてえ、と叫びながら、ぽろぽろと涙をこぼした。
「姉さまも、あなたも、この国も、何もわたしのものになってくれなかった。誰もわたしを愛してくれなかった。わたしは、この国をもっと大きな、豊かな国にしようとしただけなのに。母さまに認めてもらいたかっただけなのに。だから、こんなに、こんなにたくさん、頑張ったのにい!」
どうしてよう、と子供のように言う。
それに答えたのは、冬来だった。深く息を吐き、彼は言った。
「もう終わりにしよう、綾。───誰も、誰かのものにはならない。少なくとも、恐怖のもとでは」
「うるさい、うるさい!」
わあん、と綾は声を上げて泣いた。
美しい長衣は、見るも無残に血と泥で汚れ、かんざしを失った髪はぼさぼさに乱れている。美貌の女王はもう、どこにもいなかった。いるのは、人目をはばかることなく泣き叫ぶ、一人の女だった。
「───動くな」
穏やかな号令とともに、大勢の兵がわらわらとなだれ込んでくる。
翡翠色の衣を着た男───資朗が、「捕らえろ」と彼らに命じる。
兵たちは、生き残った山箭と、泣き叫ぶ綾とをそれぞれすばやく取り押さえた。
腕を止血されながら、綾はぎろりと資朗をにらみつけ、低く罵りの声を上げた。
「この腰抜け野郎!今さらでしゃばるんじゃねえよ!」
資朗はその罵声に、わずかに傷ついたような顔を見せ、だが、憐れみのこもった目で彼女を見下ろした。そんな彼をますますにらみつけ、綾はつばを飛ばしながら叫ぶ。
「てめえ、このクソ親父!無能でも親だからと思って、殺さずにおいてやったのに、このわたしを裏切るのか!」
資朗は小さくため息をついた。
「……真子と、おまえは、この国の荒御魂だったのだな。かつてはきっと、おまえたちのような猛々しい王が必要とされていたのだろう。土地を切り拓き、未来を見て、国を作り上げるためには、おまえたちのような王が必要だった。だが、今この時代となっては、もう───」
「うるさい!うるさいうるさい、くどい!」
綾は髪を振り乱し、喚いた。
「あの時、麗と一緒に、おまえも殺しておけばよかった!」
呪詛のようなその一言に、資朗は押し黙った。
もうこれ以上は何を言っても無駄だと思ったのだろう、つと冷静な口調に改まり、彼は言い放った。
「───綾女王、あなたには、いくつかの割符の用途において、虚偽申立てを行った嫌疑がかけられている。調べを行なったところ、帰着先不明の割符を、あなたの護衛を務めている山箭が所持していることが判明した。それについて、詳しく話を聞かせてもらおう」
そして、連れて行け、と兵に命じる。
「やめろ、離せ!触るな!」
この期に及んでも、まだ暴れる気力のある彼女を、兵たちが必死に抑え込む。
「冬来!助けて!」
「───」
その懇願に、雨星は絶句した。
今の今まで殺そうとしていた相手に、綾は助けを求めたのである。呆れるを通り越してぞっとする。引きずられるようにして連れて行かれながら、彼女は、姿が見えなくなるその瞬間まで、大声で喚き続けたのだった。
(なんてひとだろう)
だがさすがに、すべての権力と、刀を振るう腕さえも失ってしまえば───大それたことはできないだろう、と雨星は思った。いや、させるまい、と。
(終わったんだ)
そう思った瞬間、足の力が抜けた。
倒れ込みそうになった雨星を受け止めたのは、力強い腕だった。冬来だ。彼は、苦々しげにうめいた。
「なんて馬鹿な真似を……」
「でも、何とかなっただろう」
にっと笑ってみせる。
「そういう問題じゃない……」
怒る気力もないといった様子で、冬来はその場にへたり込んでしまった。
そんな彼の頬に、雨星は恐る恐る手を伸ばした。あたたかい。生きている。よかった、とつぶやく声は、震えた。
「あなたが死ななくて、本当によかった」
う、と嗚咽が漏れる。
もう泣くまい、と決めていたのに。ほっとしたあまりに、溢れ出してしまった。ごめん、と雨星は言った。
「すぐに止まるから……」
そう言いつつも、両手で顔を覆ってしまった雨星の肩を、冬来は、ためらいがちに抱き寄せた。かすかに、心臓の鼓動が聞こえる。
「おれは昔、おまえに救われた。覚えているか?」
雨星ははっとし、冬来の腕の中でうなずいた。
何度も、何度も。
「おれの母親は、もともと山箭だったが、おれを生んで自死した。父親も、きょうだいも、誰もおれを助けてはくれなかった。飯をくれなかったとか、そういうことじゃない。誰も、誰かに愛されることが、生きるために必要だということを、教えてくれなかったんだ。結局、山箭になれとだけ言われて、見放された。おれは、何もわからないまま、ただ生きていた」
冬来が腕を緩める。
雨星は、鼻をすすりながら彼の顔を見上げた。
「ただ一人だけ、おれのことを助けてくれたひとがいた」
彼は、微笑んでいた。
「母親が、おれのことを愛していたはずだと───そのひとは言った。その言葉が、どんなにおれのことを救ったか、おまえにはきっと、想像もつかないだろう。……とてもきれいなひとだと思った。よく笑って、すぐ泣いて。あんなにきれいなひとを、おれは生まれて初めて見たと思った。姿形がじゃない。心がだ」
冬来の雨星を見つめる目は、ひたすらに優しかった。
「おまえが消えた後、おれは女王に会いに行った。きっと、おまえが消えたのは、女王が何かしたからだと───今思えば浅はかでしかないが、そう思ったからだ。なりふり構わないくらい、もう一度会いたかった。会って話がしたかった。笑った顔が見たかった。そんな気持ちも初めてだった。好きだったんだ。生まれて初めて、人を愛した」
涙が止まらなかった。
だがそれは、悲しいからではなかった。
「麗は、あの子は小鳥だったのだと言った。羽ばたいて、飛んでいってしまったんだと。わたしのそばにいれば、仕えていれば、きっとまた会えると言った。だからおれは山箭になった。『針子女中の雨星』はもう、どこにもいないと知っていた。だから代わりに、『友が命がけで守ろうとした息子』を探した。そして───おまえを見つけたんだ、雨星」
雨星は冬来の首に腕を回し、力強く抱きしめた。
そして、声を上げて泣いた。
つながったのだ、と思った。
麗の、母の、小さな割符が、わたしたちをつないでくれた。
わたしたちを、守ってくれたのだ。
**
理生はようやく肩の力を抜き、山箭刀を鞘に収めた。
緊張が解けたことで、疲労がどっと押し寄せてくる。深く息を吐きながら、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。
(……何だかよくわからんが、まあ、よかったよ)
冬来に抱きつき、わんわん泣いている雨星を見つめ、理生は小さく笑った。
かと思うと、しまった忘れていたとばかりに、背後を振り返る。
しかしそこには、懸念した人物の姿はどこにもなかった。失神していたはずの維人は、知らぬ間に姿を消していた。おそらく、足抜けしたのだろう。今なら誰にでも殺せそうな、隙だらけの冬来を残して。
(根っこは図太いやつだからな)
どこかでひっそりと生き延びるだろう。
(おれは……)
突発的に仲間になったものの、本来であれば、綾の側にいた人間だ。それも、帰着先不明の割符の所持者であり、戦を起こすために他国で工作を行なっていた山箭でもある。罰は免れないだろう。
(ま、逃げたほうがいいだろうな)
理生は立ち上がった。軍兵がこちらに気づく前に、姿をくらまして───。
「理生」
早くこの場を去ったほうがいい。
その思いに反して、足は止まった。
振り返りはしない。ほんの少し、悲しげに微笑むだけで。
「……そんな名前、忘れろと言ったのに」
「どこへ行くの」
紅雪は言った。
「行かないで」
「ついてくるな」
理生は、振り返らないまま告げた。
「もう大丈夫だろ。あんたは、扇市に帰るなり、このままここで暮らすなり、好きにしたらいい」
「あなたはどうするの」
「おれは……」
どうしようか、と考える。
新賜にも、ブリシェにも、もう理生の居場所はない。ここから逃げて、民草に紛れ、ひっそりと生きる?
(現実味がないな)
「……どうかな。わからない。それに、あんたには関係ない」
「あたしも、あなたと一緒に行く」
振り返ってはだめだとわかっていたのに、理生は振り返ってしまった。
やっとこっちを見たわね、と言う紅雪の、濃いまつげに縁取られた大きな目が、こちらをにらんでいた。明るくなり始めた空が、その光が、瞳の中で生き生きと輝いていた。
「きみは」
理生はうめいた。
「馬鹿なのか」
「どういう意味よ」
紅雪は、むっとしたように眉を寄せた。
「おれは……山箭以外の生き方を知らない。ここから運良く逃げおおせたとしても、下手したら、普通に暮らすことなんか、一生できないかもしれないんだぞ。人殺し以外に、できることが何もない。でももう、どこにも居場所がない。そんな……」
(そんなやつが)
理生は、紅雪の大切な友人である、雨星を殺そうとした。
結果的にそうはならなかったものの、何か一つでも違えば、この手で、何の罪もない子供である雨星を殺していたかもしれないのだ。命令だった。だから仕方なかった。そんなのは言い訳だ。
(そんなやつが、きみのそばにいちゃいけない)
助けられれば、それでいいと思った。
生きていてくれるだけでいいと。
それなのに。
「理生」
理生は、途方に暮れた顔を上げた。
紅雪はもう、怒っていなかった。
「山箭以外の生き方を、あたしが教えてあげる。だから、お願い。一緒に生きて」
彼女は微笑みながら、泣いていた。
なんて美しい涙なのだろう、と理生は思った。
「紅雪」
おれはきみのことが、と、理生は声を振り絞った。
続きを聞く前に、彼女は笑うのだった。
「もう知ってる」
理生は、紅雪のことを強く抱きしめた。
まっすぐな黒髪をかき上げ、少し冷たい頬に触れて、口づけをした。もう一度強く抱きしめて、彼は言った。
「大好きだ」
「───理生」
紅雪を抱きしめていた腕を緩め、理生は振り返った。
冬来だった。こちらに近づいてこようとする軍兵に、何言か告げて押し留め、割って入ってきた彼は、理生の前に立った。
「……何だよ」
本当なら、嫌味の一つや二つ言ってやりたいところだったが、気恥ずかしさからか、ぶっきらぼうに応答することしかできなかった。
すると唐突に、冬来は何かを差し出してきた。
「餞別だ」
「は?」
その何かを見下ろし、理生は訝しげに眉を寄せた。
「割符だ」
当然のように、冬来が言う。
彼が差し出しているのは、短冊形に加工された翡翠───山箭がよく用いる形の、割符だった。
「いや、それは見りゃわかる。そうじゃなくて」
「中王国につながる割符だ」
その言葉に、理生は呆気にとられた。
ちらりと紅雪を振り返り、すぐさま冬来に向き直ると、低く尋ねる。
「どういうことだ。そんなもの、一体、いつ用意した?どうやって手に入れたんだ。中王国につながるっつったって、あの国のどこに……」
「扇市からほど近い、山の中につながるはずだ」
「扇市……?」
ますます怪訝そうに眉を寄せた理生だったが、少し考えた後、はっと瞠目した。
軽くうなずくような仕草を見せる冬来を、信じられない思いで見つめる。
「あんた、まさか……そういうことか。あてがわれていた、新賜とつながる割符を───処分しなかったんだな。そうせずに、隠したのか」
「そうだ」
彼が一体、どこからどこまでを想定していたのか、理生にはもはやわからなかった。
あてがわれていた割符。
それは、雨星暗殺のために中王国行きを命じられた際、帰還用として各自に渡されていたものだ。仲間を裏切り、逃亡した冬来は、当然新賜からの追手をかわすために、それを処分するだろうと、理生は思った。いや、誰もがそう思い込んでいた。だからこそ、これまで新賜側にあるもう片方が、割られることがなかったのである。
しかし冬来はそれを処分せず、扇市の近くに隠した。
おそらく、暗殺決行の夜よりも前に。
「扇市で、単独行動をしていたことがあったな。そのためか」
「ああ」
「ブリシェからここへ戻ってきた時もだ。奥ノ院に向かう前に、寄るところがあるとか言っていたあれは、そのもう片方を回収するためだったんだな。騙された。てっきり、撹乱のためかと……」
「いや、その目的もあった」
ついでだ、と。
冬来のすまし顔を、理生は憎々しげににらんだ。
「なんでだよ。なんでそんな、手間のかかることを……しかも、それだけ手間をかけて用意したものを、おれへの餞別だって?何を企んでやがる」
「雨星が、ここに残らず、扇市に帰りたいと言った時には、これを渡すつもりだった」
理生は目を疑った。
冬来がうっすらと微笑んでいたからだ。
「だが、もう必要なくなった。だからだ」
開いた口が塞がらない、とは、このことだろう。
(雨星、雨星って、馬鹿の一つ覚えみたいに)
唐突に笑い出した理生を、冬来は、不気味なものでも見るような目で見た。
「いや、笑える。あんたって、本当は……」
「何だ」
「何でもない」
それより早くよこせ、と理生は手を差し出した。
その横柄な態度に、軽く顔をしかめた冬来だったが、結局のところ何も言わずに、割符を手渡した。そして、ゆっくりと距離を取る。ちょうど、割符の力に巻き込まれない程度の距離を。
「しっかり守れ」
冬来が言う。別れの言葉だった。
紅雪と顔を見合わせ、微笑みあう。その彼女の手を、強く握りしめた。
「言われなくても」
パキン!
そして、割符を割った。




