第十二話 王道
終章
「ここはこうするんだよ」
一室で、まだ年若い針子を熱心に指導する人物がある。
手を重ねてともに針を持ち、こうやって縫うのだと体に覚えさせるよう、教えている。
しかしながら、指導されている針子の少女は、間近にある横顔を熱のこもった目線で見上げるばかりで、上の空といった様子である。二人を取り囲むまわりの針子たちの目線もまた、同じようなものばかりだった。
「───という感じで」
指導を終え、顔を上げた雨星は、たくさんの針子たちに見つめられていたことにようやく気づき、やや怯んだようだった。
「ど、どうしたの。みんな」
戸惑いつつ問うが、彼女たちはくすくすと笑うばかりで、誰も答えようとはしない。女中頭が不在なのをいいことに、自分の仕事を放り出し、雨星を取り囲むようにして見物しているのだった。
「あの、殿下……」
お手を、と、雨星に指導されていた針子が、消え入りそうな声で言う。
「あ、ごめん」
「い、いえ、とんでもないことにございます!」
つかんでいた手を離した雨星は、少女に向かって、「顔が赤いけど、大丈夫?」などと言っている。少女はもはや、顔のみならず、耳まで真っ赤であった。暑いのかな、と雨星は思った。
(もう、春だからな)
外を見やる。
ぽつりぽつりと、桜が咲いていた。
もうすぐ見頃を迎えるであろう、薄紅色の花が、穏やかな風に揺れている。針子部屋の、内と外を隔てる帳も開け放たれて、柔らかな陽光が差し込み、冬の名残を拭い去ろうとしてくれていた。
(あっという間だったな)
この数ヶ月───。
今となってはもう、身軽な衣で出歩くことすら許されなくなってしまった。
赤みがかった長い髪だけが変わらず、だが装いばかり整えてみると、これまで若い娘のようだった雨星は様変わりし、すっかり見目麗しい若者となったのだから、不思議なものだった。
(すべてが変わってしまった。まわりの人の見る目も、やらなきゃいけないことも、立場も。変わらなかったものと言えば……)
「殿下」
ヒャッと、雨星は悲鳴を上げそうになった。
いつの間にか背後に立っていたその男は、やはり低い声で、「ここにおられましたか」と言った。すると、それまで目を輝かせて雨星を見つめていた針子たちが、さあっと散っていく。それもそのはずで、黒装束に帯刀した男が、顔をしかめて立っているのだから、仕方のないことなのだった。
雨星は、恐る恐る振り返った。
「冬来……」
「戻りますよ」
「あ、でも、まだ」
問答無用で雨星の襟首をつかむと、冬来は、そのまま廊下を歩き出した。
え、と声を上げる雨星に構わず、ずるずると引きずるようにして、針子部屋を後にしたのだった。
「殿下!」
そう声を上げて、奥ノ院の廊下を走ってきたのは、夕顔だった。
白髪はいまだ多いが、顔色はすっかりと明るくなり、青緑と黄を重ねた衣がよく似合っている。
「どこへ行かれていたのです!探したのですよ!」
「また針子部屋に行っていた」
適当にごまかそうとした雨星よりも先に、答えたのは冬来だった。
あっと思う間もなく、夕顔の眉が吊り上がる。
「雨星さま……?」
「ごめん。でも、どうしても針が持ちたくなってしまって……」
雨星はうなだれた。
そんな彼に、夕顔は滔々と言って聞かせる。
「いい加減、ご自覚なされませ。来年には成人あそばし、新王として即位されるご身分なのですよ。政務がどうこうとか、そういうことではござりませぬ。こうもほいほいと出歩かれては、御身の安全が……」
「ちゃんと山箭は連れていた」
雨星が口答えすると、夕顔はぴくりと目尻を引き攣らせた。
「あなたさまに言いくるめられる程度の、新入りの山箭でございますでしょう」
まったく、と、額に手を当てる。
「御身におかれては、すっかり安全であるとは申し上げられないのですよ。いまだに───いえ、これからも、殿下のお命を狙う輩はあらわれるでしょう。特に、今はまだ、盤石の布陣とはとても言えぬような状況にございます。奥ノ院の外……いえ、中においても、常に冬来を手元に置かれませ」
もしくは二人以上の山箭を、と、夕顔に懇願するように言われては、雨星にはもう、言えることは何もなかった。軽くため息をつき、わかった、と首肯するより他にない。
すると途端に、夕顔はにっこりと、奇妙なほどに整った笑みを浮かべたのだった。
「では、お仕事の続きを」
「え」
「まだ山のようにございますゆえ」
「いや、でも、わたしは」
「さあさあ!」
夕顔は、ぐいぐいと雨星の背中を押していく。
助けを求めるように、思わず冬来に目配せするが、彼は冷ややかな目でこちらを見つめるばかりであった。
「お疲れさまでございました」
仕事を終えて、寝所に向かう道すがら、冬来が慇懃に言う。
まだ昼間のことを怒っているのか、と雨星は思った。
「その言葉遣いはやめて欲しい。二人だけの時は、これまでどおりでいいと言ったはず……」
「そういうわけにはまいりません。誰がどこで聞き耳を立てているか、わかったものではありませんので」
にべもなく言い放つ冬来。
雨星は立ち止まり、彼を振り返った。
「冬来」
どことなくすねたような、その様子に観念したのか、冬来は深いため息をつき、口調を改めた。
「……急にいなくなるのはやめろ」
「でも、話したらあなたは止めたでしょう?」
「当たり前だ」
だが、と冬来。
「何も言わずにいなくなられるくらいなら、ついていく。だから、どこかへ行きたい時はおれに言え」
「わかった」
ごめんなさい、と雨星は素直に謝った。
そんな彼を、冬来はじっと見つめた。
「……綾自身は遠方で軟禁状態だが、彼女の息のかかった者が、城内にいないともかぎらない。山箭だって、すべてを入れ替えたわけじゃないんだ。手勢も少ない。頼むから、自衛をしてくれ」
「わかってる」
雨星はうなずき、軽く息をついた。
冬来が、大丈夫か、と問う。
「うん……」
雨星は力なく笑んだ。
「少し、疲れただけ」
この数ヶ月あまり、さまざまなことが怒涛のように過ぎていき、ゆっくり休む暇もなかったのだ。自分で選んだ道なのだから、弱音は吐くまいと思っていた。だがこうして、冬来の前に立つと、強がっていられないのが現実だった。
「雨星」
「?」
顔を上げると、冬来が言った。
「なら、逃げるか」
雨星は、ぽかんと口を開けて彼を見つめた。
「え?逃げるって……」
「ここから」
「でも」
戸惑いを隠せなかった。まさか、冬来の口からそのような言葉が出るとは思わなかったのだ。
「別に、立場を投げ出そうとか、国を出ようとか、そういうことじゃない」
少しだけだ、と彼は言う。
「少しだけ」
「そうだ」
冬来はうなずき、小さく笑った。
**
わあ、と雨星は声を上げた。
感嘆の声だった。
空は濃紺。そこに散りばめられた無数の白は、星だ。まだ沈みきらず、山の向こうでぐずっている夕陽が、眼下に広がる町を柔らかく染めていた。ぽつぽつと光り始めた、ともし火。家路を急ぐ人々の姿が見える。
ところどころで上がる炊事の煙が、ゆるやかに夜空へと吸い込まれていった。
穏やかな春の夜だった。
「気をつけろ」
よろめき、石段を踏み外しそうになった雨星を支え、冬来が言う。
「ありがとう」
雨星は笑った。先ほどまでのしおれた様子はどこへやら、あたたかく、甘い風を胸いっぱいに吸い込んで、彼方まで続く谷間に広がる城下町を、見下ろしている。
「本当にここでよかったのか」
冬来が尋ねた。
「望むなら、城下町まで連れて行ってやれるが」
「いいんだ。ここで」
時折、背後から吹き抜けていく強い風に、桜の花びらが混じっている。
「ここがいいんだ」
そうか、と冬来。
「危ないから座れ」
「なら、冬来も」
石段の隣を軽く叩く。
そうはいかないと首を振った冬来だったが、雨星が「今だけ」とごねると、しぶしぶながらも隣に腰掛けた。こうして並んで座ると、不思議と、あの頃に戻ったような心地がした。体の大きさも、立場も、何もかもが違うのに。
ふと、今なら答えてくれるのではないか、と思い、雨星は問いかけた。
「なぜ黙っていたの?」
冬来は怪訝そうに眉をひそめた。
「何のことだ」
「わたしが、割符で過去の新賜へとつながって、あなたや母に出会うということを。知っていたんでしょう?すべて話してくれていれば、もう少しあなたを信用していたかもしれないし、わたしは、もっとうまくやれていたかも」
冬来は一瞬黙り、静かに告げた。
「未来を変えたくなかったからだ」
どういうこと、と雨星が首を傾げると、彼は続ける。
「それを話すことで、おまえが選ぶはずだった何かを変えてしまう可能性があった。その結果として、おれや麗に出会うはずだった未来を変えてしまったら───そう思うと、何も言えなかった」
怖かったんだ、と冬来は言った。
逃げるか、戦うか。
雨星はそのどちらも、選べなかった。だがその結果として、今ここにいる。冬来の言うとおり、何か一つでも違えば、そうはならなかったかもしれないのだ。冬来がしたのは、雨星の足元に薄氷を敷き詰めることだった。雨星は知らずに、その上を歩いていた。
「うん……」
そうだね、と、雨星はうなずいた。
そしてぱっと顔を上げると、手庇をして彼方を見やり、つとめて明るく言う。
「南はどっちかな」
「あの、並んでいる二つの山のほうだ」
冬来が一方を指差した。
雨星はそちらを見て、懐かしげに目を細める。
「紅雪は、元気にやっているだろうか」
先日、ついに彼女から手紙が届き、今は中王国の都で暮らしていることを知ったのだ。
針子としての働き口もすでに見つけ、理生と二人、何とか暮らしている、という知らせだった。きっといつか会いに行く、とも書かれていた。嬉しく思うと同時に、しっかり者の紅雪らしいことだな、と雨星は感嘆したのだった。
「おまえは……」
そんな雨星を見て、冬来がぽつりと言う。
「本当に、帰らなくてよかったのか」
「どこに?」
「中王国に」
雨星は、少し笑った。もう、あれから数ヶ月経っているというのに、いまだにそんなことを聞いてくる冬来が、面白かったからだ。
いいんだ、と雨星はうなずく。
「大切なひとたちと、同じ世界で生きていられるのなら、どこで暮らしたって同じだ。それにここは、母が愛した国だ。この国を守り、豊かにすることが、母の願いだった。だから、できるかどうかはわからないけれど、そのために頑張りたいと思ったんだ」
逃げるか、戦うか。
雨星はそのどちらも、選べなかった。でも今は、それでよかったのだと思っている。冬来が敷き詰めてくれた薄氷の上を歩く、雨星の手を、落ちないようにとたくさんのひとが引いてくれた。自分に力がなかったぶんを、選べなかった弱さを、冬来を始め、多くのひとが補ってくれた。
(きっと、みんな、とても大変だったと思う)
そのぶんを、ほんの少しでも恩返ししたい。
だから雨星は、王になることを決めたのだ。
「わたしも───香蓮も、多くのひとにとっては、つなぎの王でしかない」
でも、と雨星は言う。
先日、父、季潤から知らせがあった。
中王国の新たな王が───香蓮に決まった、というものだった。
王は男のみと定められている中王国においては、前代未聞のことなのだと言う。第一王子である季潤───つまり青晨には、その帰還と同時に、継承権はないと判明してしまった。混乱を極めていた王宮内で、誰かがふと、香蓮を王にと言い出したのだ。
突拍子もないと思えたその意見だったが、しかしながら、それを強く後押ししたのは青晨と、王宮で働く多くの官人たちだった。衰えた王をたった一人で支え続けてきた彼女の姿を、そばで見てきた者たちだった。
「でも、それでも───たとえ短い時間しかなくても、王が、男でも女でもどちらでもいいと思ってもらえるようにしたい。そのためには、割符に頼らずとも生きていけるような国にしなきゃならないんだ」
割符はただの便利な道具で、笠や、箸と同じ。
だが人はそれを忘れ、争いを起こす。
「母さんは、争いの種になるくらいなら、割符なんてないほうがいい、と言っていた」
「おまえも、そう思うのか?」
「わたしは……」
そこまで大胆にはなれないけど、と苦笑する。
「道を作れたらいいなって思ってる」
「道?」
「うん」
彼方まで続く、山々を見やる。
「新賜と、中王国とをつなぐ、交易の道だ」
そう告げると、冬来はかすかに目を見張った。
「難しいってわかってるから、今まで誰にも言ったことはなかったけど……それがわたしの願い。国を守り、豊かにするために、割符を使うことをやめたい。時間はかかるかもしれないけど、みんなにもそう思ってもらいたいな」
(きっと大丈夫)
小さな一歩でも、進むことはできるはず。
なぜなら、中王国には、香蓮がいる。
彼女はきっと、中王国をよりよい国にするために尽力するだろう。
嘉月の故郷であるブリシェの解放を願い、そしてまた、新賜との新たな交流を求めるはず。
「ずっと道に迷っていたわたしが、道を作りたいなんて、そんなの、変な話だよね」
雨星が困ったように笑うと、冬来はきっぱり、
「そんなことはない」
と言う。
「おまえの思うとおりにやればいい」
その声音は、こちらを勇気づけてくれるかのように力強かった。
扇市で、平穏に、ただの針子として暮らしていたままだったら、絶対にこんなことは考えなかっただろう。きっと、そんな未来もどこかにあったはずだ。だが、雨星は戻らないことを選んだ。
たとえ今そばにいなくても、雨星の幸せを願い、戦ってくれた人々がいることを知っている。今もそばで、守ろうとしてくれる人々もいる。彼らのおかげで、たとえ夜の中にあっても、一人ではないと思える。
恐れることはない。
恐れ、もがいたところで、未来を都合のいいように変えることなどできない。雨星が冬来を助けられたのは、きっと、そうなるべきことだったからだ。すべては、なるようにしかならないと───教えてくれたのは、母だった。
「雨星」
ふいに固い声音で、冬来が呼んだ。
「───おまえに、話さなければならないことがある」
ひどく差し迫ったその様子に、雨星は眉をひそめた。
「話?一体、何の……」
冬来は答えず、深く息を吐き、雨星の足元にひざまずいた。
それはまるで、忠誠を誓う姿のようでありながら、罪人が許しを請う姿のようでもあった。
「冬来……?」
雨星は戸惑いを隠せなかった。
ただ事ではない様子に、下手に声をかけることすらためらわれた。
しばらくして冬来は、彼にしては珍しく、ややつっかえながら口を開いた。
「この話を聞いて、許せないと思ったら、おれを罷免してくれて構わない」
雨星はその言葉に、ぎょっとした。
馬鹿なことを、と思う。
「そんなこと……」
言いかける雨星を手で制して、彼は続ける。
「それでは気がすまないと思うなら、おれを殺せ。刀はここにある。いや、手にかけることすら厭わしいと思うなら、死ねと命令してくれるだけでいい。今すぐにだって自刃しよう。見たくないと言うなら、おまえから離れて、見えない場所で腹を切る」
雨星は唖然とした。
言葉が出てこない。
(望むはずがないだろう。そんなこと、絶対に。でも……)
冬来は思っているのだ。きっと、本気で。雨星が、自分に憎しみを向けるかもしれないと。
(このひとは)
自分が、悪いものになってしまったと───そう思っているのだ。
このひとはまだ、あの冬の夜の中にいて、抜け出せないでいる。
春が来る日を切望しながら、同時に、自分のもとへなど来るべきではないと思っている。
「今まで、どうしても話すことができなかった。おまえに知られたくないと思っていたのもあるが、おれ自身が、それを言葉にすること自体、耐えられなかったからだ。今でも、うまく話せるかどうかわからない。だが、話したい。今だから、話したいんだ」
聞いてくれるか、と冬来は言った。
雨星はうなずいた。
「今まで黙っていて、すまなかった」
冬来は、声を振り絞るようにして、その言葉を口にした。
「麗を───おまえの母親を殺したのは、おれだ」
雨星はただ膝の上で、拳を握りしめた。
「おれは、自分だけが生き延びるために麗を殺した。彼女の首をはね、それを綾に差し出したんだ」
弁解の余地もない、と深くこうべを垂れる。
そのまま彼は間髪入れず、それなのに、と続けた。
「主君をこの手で殺しておきながら、おれは、この場に至るまで、自害することすらもできなかった」
「それは、だって」
ようやく出た声は弱々しく、雨星は、うまく言葉にできない自分に歯噛みした。
「だって、冬来は、わたしを守ろうと……」
「そうだ。でも、それだけじゃなかった」
彼は苦しげにあえぐ。
「二度と戻ることはないとわかっていながら、あの幸せな日々が、愛しくてたまらなかったからだ。この場所で、息を潜めながらずっと、その思い出だけがおれを生かしていた。───愚かだ。恥知らずも甚だしい。その日々を終わらせたのは、他でもない、自分自身だというのに」
殿下、と冬来は言った。
「どうかわたしに、罰を。何なりとお命じください」
「───……」
雨星は、ああ、とかすかに声を漏らした。
(あなたは)
目の奥が熱くなる。
心臓が締め付けられるように痛んだ。
冬来は何も言わず、雨星の前から姿を消すことだってできたはず。でも、そうしなかった。雨星に話すほうを、選んでくれた。ぐしゃぐしゃに絡まった糸を、その結び目を、どうか一緒にほどいてほしいと、心を差し出してくれたのだ。
雨星は、背筋を伸ばした。
「あなたは、何も悪くない。母が死んだのは、あなたのせいではありません」
冬来は顔を上げなかった。
だが、かすかに肩を震わせた。
「あなたに下す命令は、ただ一つ。生きろ、という、ただそれだけです。母を殺したことを、あなたがそれでも罪だと思うなら、わたしもともにそれを背負いましょう。ですがあの母ならきっと、あなたに幸せになれと言って、笑うと思います。どうか、生きてください」
冬来は母を一人にしなかった。
だから今度は、わたしが冬来を一人にしない。
「罰などありません。それよりも、わたしを守るため、尽力してくださったことに、心からの感謝を。───ありがとう、冬来。友として、母のそばにいてくれて。母を愛してくれて。そしてわたしを、わたしたちを、助けてくれてありがとう」
「───……」
冬来はうつむいたまま、嗚咽を漏らした。
地面に滴ったのは、血の涙ではなく、美しく、透明な涙だった。
了




