〜冷雨(11)〜一つの終わりと一つの始まり
これは一体何だ。
視線を一身に集めるこれは。
何だ?
「驚くほど似ているでしょう?性格は真逆なのですが、顔立ちは見分けれないほどそっくりです。──さすがは双子神ですね」
「……え」
手が脚が目が心が震えた。その場に崩れ落ちてしまいそうだった。──だが、見開かれたその目は上方に広がる光景に捕らわれたままだ。
そんな美耶の横に立つ樹峯は腕を組み、視線を美耶が見つめる先に向け、微かに口角を上げた。
浮かぶ微笑は──嘲笑。
「かつて、美耶様を陥し入れた女神が美耶様の双子神とは、悍ましいことこの上ありませんね。出来ることなら、この愚神をあなたの視界に入れさせたくなかったのですが……忌々しいことに、この女神が持つ力を得なければ私の目的の一つが叶いません。だから──」
──樹峯の声が掻き消された。
代わりに響き渡ったのは、大きな衝撃音。そして、音に続くように屋敷が激しく揺れた。
「──うわっ!!」
「美耶!!」
あまりの揺れの酷さに、床に倒れそうになった美耶を樹峯が支え、守るかの様に抱き締める。そして、美耶を横抱きにするとその場に浮遊した。
屋敷は振動していたが、それは一瞬に近い出来事で、すぐに落ち着いた。
「……何、今の」
震えが止まらない手で樹峯の首元に抱きついていたが、その顔は青ざめている。
「おそらく、【神の間】で争っている炎神達が原因ですね。【神の間】に結界を張っていて良かった。結界がなかったら、全員ただでは済まなかったでしょう」
安心させる様に美耶の背を摩る大きな手はとても優しい。そのおかげか、次第に震えは止まっていき、思考が戻って来た。
「類斗たち、大丈夫かな」
「大丈夫ですよ。あそこに集っているのはみな、高位の神達ですから。──美耶様」
名を呼ばれ、美耶は何?と振り返る。
目を、見開いてしまった。
彼女の視線を怪訝そうに辿った樹峯も、視界を覆うモノに息を呑んだ。
「──あれは……」
美耶を抱き抱える樹峯の背後に巨大な黒い渦が現れていた。とても禍々しい。果てしない闇をも思わせる。まるで、全てを吸い込むブラックホールのような。
知らず、樹峯に抱きつく力が強くなっていた。
突如、緊張を張り巡らせていた樹峯の目が鋭い刀身のように細められた。
「……来たか」
滲み出る殺気を間近で感じた美耶だったが、意識は完全に目の前で渦巻いている闇に持って行かれていた。
刹那。
「──どこまでも小賢しい神だな、森神」
それは、よく知っている声。だが、いつもより低い。含まれているのは黒い感情。素人でも分かるほど強烈で身が竦む。これは──殺気。
「闇神……」
漆黒の渦の中から現れたのは、真紅色。首根までの長さの燃えるように鮮やかな髪に目を奪われてしまう。だが、曇天の瞳は鋭く、隠し切れない激情を孕んでいた。
漆黒の衣が翻る。
「美耶、お前を奪われ奪い返すのはもう飽きた。だから、今度こそ森神──お前を消してやる」
すべての感覚を麻痺させるような声だった。震えることさえ、恐怖を覚えることさえ許してくれない、全てのものを圧する声音。
身動きが出来ない。息さえまともに出来ない。視線を逸らすことさえ叶わない。だが、樹峯は違った。
「──闇神、お前はこの瞬間まで俺を殺すと何度も言ったな。だが、事実今俺はここに立っている」
【最高神】が笑えるな、そう嗤う樹峯の目にも憎悪の光が過っていた。闇神に負けないほど溢れ出す殺気はどす黒い。
すると、闇神の全身から漆黒の瘴気が放たれ、闇神を包み込み始めた。
「……今までは美耶の手前だったからな、過剰に力を出さなかったまでだ。だが、今は違う。美耶が目の前にいても、俺は」
抑えきれない。
暴風が、闇神を中心に巻き起こった。その色は、やはり黒。理性という器に収めきれず溢れ出した闇。それは激しく歪んだ感情。
美耶を抱き抱える腕の力が強くなる。その感触に樹峯を見ると、美耶を抱える腕ではない方を闇神へと鋭い動きで伸ばした。
「──あいつを食い止めます。あれは忌々しいですが今の私では叶わない邪神です。だから、速やかに計画を続行します。その為にも美耶、あなたは私から離れようとしないで下さいね」
色香さえ纏ったどこか不敵な笑みを美耶に向けると、彼は伸ばしていた腕を勢いよく払った。途端、あらゆる方向から木々が壁を貫いて現れ、吹き荒れる黒の暴風を抑えるように風の中心である闇神を包み込んだ。だが、闇神の暴風の威力は半端ではなく、一瞬にして木々を粉々に切り裂いた。
樹峯と美耶の前に再び現れた、黒に染まりつつある曇天の瞳。それが、唯一彼女の姿だけを捉えた。
「………こい、美耶」
「──っ」
いつもより低い声に体が跳ねる。漆黒の目が震え、無意識に樹峯の首に回す腕に力が込もった。
それが、癪に触ったのか。
暴風が爆風のように荒々しさを増し、さらに黒く染まった。否、これはもう黒ではない。
闇神の激情を体現したような暴風に震え続ける美耶の手首に刻まれた闇神の契印から、漆黒の鎖が現れ、抵抗をする暇もなく体を拘束された。
「きゃあ!」
「──っ、美耶!!」
目を見開いた樹峯が彼女の体に巻き付く鎖を外そうとそれを握るが──ビクともしない。
苦渋を浮かべた樹峯が断ち切ろうと、鎖に魔力のような力を注ぎ込もうとしたが、突如、鎖が美耶に絡みついたまま宙に浮かび、彼女を勢いよく闇神の方へと引っ張った。
彼女が闇神の腕の中へと取り込まれようとした時。
キィィンッ、と金属音を立ててそれは斬られ、床に叩き落とされた。
それと同時に美耶は宙に放り出され、暴風に巻き込まれそうになった──
だが。
「……ったく、だるいな。俺は面倒事は嫌いなはずなんだが。今回は仕方ない……妥協しておいてやる」
聞き覚えのある声。
この声は間違いない。
この屋敷に連れてこられた時に、ある一室に閉じ込められていた美耶を連れ出してくれ、炎神という追っ手から身を呈して美耶を逃がしてくれた、ぶっきらぼうだけれども本当は優しい、少年神。
「……剣神」
少年神の細くも筋肉質な腕に美耶は横抱きにされていた。
首根で一つに結った腰上まであるアッシュグレイの髪が翻り、呟いた美耶を彼──剣神が見た。
その表情はどこか億劫そうだ。
「あんたはほんと、面倒事に愛されてるな。お疲れさん。……で?こっちは今どんな状況なの?」
剣神の介入のせいか、いつの間にか暴風は吹き止んでおり、この空間内には静寂が広がっていた。
瞠目していた樹峯が床に降ろされた美耶と彼女の横に佇む剣神に歩み寄る。
「それは俺が聞きたい……剣神、お前がこの屋敷にいることは知っていたが、お前の性質からしてお前はこの戦いに下手に割って入らないはずだ。かつての主である美耶への嫌悪を捨てきれていないはずだからな」
「え……」
美耶への嫌悪。
それを聞き逃すことはできなかった。
目を見張った美耶はぎこちない動きで剣神の見上げるが、彼は無表情だった。手にも目にも感情を表す様子はなく、ただ沈黙を貫いていた。
「──今回は命神の記憶を取り戻させる為に介入して来たに違いありませんよ」
そうでしょう?剣神。
突如、淡々とした声が空間に響き渡った。
闇神、剣神の目が細められ、樹峯が微かに口角を上げるのが見えた。だが、美耶の視線は彼女の上方に現れた空間の捻じれに引き寄せられた。
そこから現れたのは──
「幻影……どうやら、任務を遂行できたようだな」
「ふ、当たり前です。あなたの命令は全て果たさなくてはあなたの忠実なる僕ではありませんからね」
漆黒の衣を翻し、音もなく美耶たちの前に着地したのは目元を仮面の下に隠した男、幻影だった。
剣神に続いて現れた介入者にまた動揺する美耶だったが、その視線は彼が肩に担いでいるものに吸い寄せられた。
揺れる、銀と朱金。
「──時神、類斗!!」
【神の間】に現れ、幻影や樹峯の従神である盾神と雷神と争っていた二人がなぜ、幻影に。
そう焦った美耶だったが、即座に悟ってしまった。
二人は幻影に負けたのか。
体のいたるところから血が流れ、二人は意識を失ってしまっていた。
これは、負けたとそう理解してしまう。
「これで、美耶の記憶の扉を開ける鍵は揃ったという訳か。よくやった、幻影」
「ありがとうございます」
そう返した幻影が美耶に近づいて来た。
時神と類斗から慌てて意識を離し、向かいくる幻影に警戒を露わにした美耶だったが、隣に立つ剣神に腕を取られた。
「──っ、剣神!?」
何をするのだ、と彼を睨み上げるが、帰って来たのはどこか不敵な笑みだった。
「俺はさっさと面倒事を終わらせたいんだ。だからあんたは大人しくしてろ」
離せと抵抗するが、当然それは叶わない。そして、反抗するたびに美耶の手首を握り締める力は強くなり、美耶はその痛みに顔を顰めた。それでもなお、憎々しげに剣神を睨むことを忘れない彼女に剣神は笑う。それは、これまでの彼への好感を崩れさせる嗜虐的なものだった。
唐突な変化を成した彼の薄い唇が美耶の首元を這う。そして、どこか妖艶にそれでいて冷ややかに囁きを落とした。
「あんたが記憶を取り戻せば、この世界で絡みに絡んだ糸がほどけるのか、それとも、さらに複雑化するのか。俺はそれを見てみたい。あんたがこの世界をどう動かすか──それを俺に見せる事が俺への償いだ。まあ、今は記憶がないから何の償いか分からないだろうが、それも今分かる。──さあ、記憶を取り戻せ」
刹那、艶やかな口付けが美耶の手首に落ちた。
目を見開く美耶を見つめる剣神の目に怪しい光が過った。
「さあ、──美耶」
ドクン、と鼓動が低い音を立てた。全身の力が抜ける。意識が遠のく。
この感覚は、以前にも体験した事がある。
あれは、闇神に名前を初めて呼ばれた時──
「──っ、美耶!!」
そう、闇神。彼が今と同じように自分を呼んだ時だ。
駆け寄ってきた闇神の腕に倒れる体が収まるより先に剣神に抱き留められ、樹峯、そして時神と炎神を担ぐ幻影が近づいた。
薄れ行く意識が必死に彼らの会話の内容を掴もうとする。
「剣神──お前、勝手に美耶の名を呼んだな」
「別にいいだろ。こいつを大人しくさせたんだからな。今は俺たちの利害が一致している。だから、協力した。それだけだ。だから、そんなに殺気を放たれる筋合いはないけどな」
「美耶を苦しめさせるなんて許せるわけがない……だが、忌々しいが殺すのは後だ。今はこちらを優先しなくてはならない。幻影、炎神を」
「承知」
瞼の力が抜ける中、幻影が手を炎神の頭にかざすのが見えた。そして、気を失っていたはずの炎神の体が一度跳ね、彼の金の目が開かれるのを。
「目が覚めましたか、炎神。早速ですが、協力してもらいますよ」
「……は?ああ……そういう事」
目覚めたばかりだからか、気怠げに首元に右手を当て、首を軽く曲げる炎神だったが、一人納得した様子で剣神の腕に抱かれた美耶を見つめた。だが、彼女が苦しみながら意識を離そうとする姿に、彼はひどく顔を青ざめさせ、彼女に駆け寄った。
「お姉ちゃん!どうしたの、しっかりしてっ!!──っ、剣神お前、お姉ちゃんに何を!!」
顔面を蒼白にする炎神は殺意さえ浮かべ、剣神に掴みかかろうとしたが、背後から気配を消して近づいた幻影に襟足首を掴まれ、床に投げ飛ばされた。
「──剣神を殺そうとする暇があれば命神にあなたがもつ命神の記憶を返しなさい。そうしたら、あなたの望みが叶う可能性が生まれると思いますが」
その言葉に、彼を殺気を込めた目で睨んでいた炎神は目を見開き、そして、どこか不敵に笑った。
炎神は前髪を掻き上げながら、苦しむ美耶に近づいた。
そして、彼女の前に片膝をついた彼は美耶を安心させるように彼女が愛してやまない『天使』の笑みを浮かべた。
「ごめんね、お姉ちゃん。すぐに楽にしてあげるから」
優しくそう囁くと、彼は美耶の剣神に口付けられた方とは逆の手首を取り、そこに熱い口付けを落とした。
その、瞬間だった。
「うああ……っ」
両手首から何かが伝わってき、それがやがて脳内に到達した。途端、白、黒、赤、青、緑、と様々な色をした光球が無数に頭の中に浮かび上がり、血液のように彼女の全身を巡った。
すべての感覚が、なくなる。
自分が自分じゃなくなるような気がした。
だがやがて、巡っていた光球がなくなっていたパズルのピースが空いた穴を埋めるかの様な光景が脳裏に映ると、全身の感覚が戻ってきた。
そして、美耶の中の何かがカチリ、と音を立てた。
その場に立ち上がった美耶は自身の両手に視線を落とした。
やがて、ふっと笑った。
そうか。
そうだった。
自分は、美耶と呼ばれる自分は。
始まりの、女神の一人だ。




