思考は時に消える
「……お礼?」
「そう。お礼と言うかお詫びというか」
「ふぅん…。…なら、行きたい所があるんだけど」
そう言って怜奈に連れて来られたのは、大学の近くにありながら、裏道になっているのであまり皆知らないであろう煉瓦造りのレトロな雰囲気のある喫茶店だった。
一日の講義が終わった後、大学内で怜奈を見かけた樹は、慌てて怜奈を呼び止めた。
その際、『依月さん』と、呼ぶと何故か思いっきり呆れた顔をして睨まれてしまったのだが。
どうやら彼女は、『さん』付けで呼ばれるのがあまり好きではないらしい。
喫茶店に入ると、彼女は慣れた様子で一番奥の窓際の席へと座ると、アイスコーヒーとサンドイッチを注文した。どうやらこの喫茶店は、彼女の行き着けらしかった。樹の方も、とりあえず同じものを頼む。
「―――それで、今日も家には帰らないの?」
テーブルに頬杖を付いて、彼女は目の前のアイスコーヒーをカラカラと音を立ててストローでかき混ぜていた。相変わらずのぼんやりとした無表情で、その氷の回るグラスを眺めている。
「あー、今日は帰ろうかなと思ってるよ。家でも外でも関係無いって分かったしさ」
「…どういう意味?」
怜奈は少しだけ、視線を樹の方に上げる。
「…家にさ、自分そっくりな奴が出るんだよ。俺かどうかは判らないけど、見た感じが自分と同じ気がしてさ。髪型とか、服装とか。毎日ではないんだけど、段々頻度が多くなって。今日朝早くに大学行ったら、教室に居たんだよ。だから、もう場所とか関係無いなら帰ろうかと思ってさ」
「…それ、見かけたらどうしてるの?そのまま?」
「まさか。とりあえず自分かどうか確かめないとと思って近寄るんだけど、いつも逃げられるというか、今日も扉から出て行ったらもう居なくなっててさ」
「へぇ…」
怜奈は少しだけ樹の顔を観察するように見ると、抑揚に乏しい声で言った。
「ドッペルゲンガーってやつ?」
「やっぱそうなるよなぁ、」
「本当に影の病なら、近い内に病死だな」
そんな事を、彼女はまるで興味無さそうにさらっと言ってのけた。
折角の美人なのに、たまに男の子が混ざったような口調で喋る。
「あっさり言うなよ、で、影の病って?」
「…知らないの?」
怜奈は小さくため息を付くと、話を促すような樹の視線を受けて、仕方無さそうに顔を上げると説明を始めた。
「北勇治という人が、外から帰って自分の部屋の戸を開いたら、机に向かっている人の後姿があった。『誰だろう、私の留守に部屋で我が物顔にふるまっているのは』と、しばらく見ているうちに、髪の結い方も着ている着物も帯も、普段の自分そのままだと気が付いた。顔を見てやろうと近付くと、その者は向こうを向いたまま障子の細く開けたところを抜けて縁先に走り出た。追いかけて障子を開いて見た時には、どこへ行ったのか、もう姿は無かった。
家族にこのことを話すと、母親は何か隠している様子で、それから間もなく勇治は病気になり、その年のうちに死んだ。これで北家では三代続けて当主が同じ死に方をしている。
…とまぁ、そういう奇談だよ。今ではドッペルゲンガーなんて呼ばれてるけどね」
「へぇ……」
そういう話が昔から奇談として存在する事にも驚いたが、怜奈の博識にも正直驚いた。こんな内容の事を掘り込んで知っている人など、現代社会においてそうそう居るものではない。
「それってさ、一般的には自分の魂の抜け出した姿だとかって言うのかな」
「さあね。霊的な生き写しというくらいだから、そんなとこじゃない?それから特徴としては、会話をしないとか、本人に縁のある場所に現れるとか」
全くその通りだった。
樹の見たものは、喋ることもしないし、樹に縁のある場所に現れる。
「死期が近い人が見るとも言うけど、魂が抜け出しているから、肉体が耐えられなくて間もなく死ぬという話もあるらしいね。それから、脳腫瘍だって説もあるらしい」
「脳腫瘍?」
「側頭葉と頭頂葉の境界領域。ここは、体のイメージを司る領域だと考えられてるらしくてね。そこに腫瘍が出来て機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあると言われているらしい。実験済みのものらしいよ。それから、偏頭痛の原因でもある、脳の血流変動による機能低下によってって話もあるね。もう一人の自分を見たとされるリンカーンや芥川龍之介は偏頭痛持ちだったとか」
「へぇ…」
怪奇現象だと思っていたものの見方に、そんな科学的見解も存在するんだというのが、なんだか新鮮に感じられた。
「まぁこの話は、第三者にも見えるというなら除外すべきだけど」
「どうだろう、人が居ない場所でしかまだ見た事がなくて」
いつも、樹がそれと遭遇するのは自分の部屋ばかりだった。外で見たのは今日が始めてだ。それも誰も居ない場所、人の少ない時間帯だったから、誰かが見ているという可能性はあまり高くない。樹の知らないところで樹を見たという話も、今のところまだ誰からも聞いていない。
「逃れる方法って無いのか?」
「どんな意味合いでもいいから罵声を浴びせる ってのは聞いた事あるけど?根拠は知らないし本当かどうかも知らないよ」
なるほど、それは実践するにはちょっと根性と冷静さが必要だ。
「まぁ、見ても助かったなんて話もあるし、今のところ何とも言えないね」
「…そっか」
自分が体験しておいて何も調べていない、というのも珍しいのかもしれないが、体験していない人がよくそこまでの知識を覚えているもんだと感心する。
つまり怜奈は、そういう人だった。
何故か、そういう類の話に妙に詳しかった。
「――――それで、何でその話を私にしようと思ったの?」
「…ああ、それは、」
多かれ少なかれ、最初からその話をするつもりがあった事はとうに見抜かれていたらしかった。
「…視えるんだろ?そういうの、相談する相手居なくてさ。俺は視えるけど、何も出来ないんだよ。今までは自分に害のあるような事は無かったし。まぁ、昨日依月に逢うまでは誰にも話す気なんか無かったけど。話しても誰も信じないだろうしさ」
「そう」
それだけ答えると、怜奈は運ばれてきたサンドイッチを食べ始めた。さっきまでの話の影など感じないような、他人事のような反応。けど、これが怜奈という人柄だという事は後々になって痛感する。
彼女は、いつも何処か焦点の合っていないようなぼんやりとした雰囲気を持っているのだ。それゆえに、心の内が人には解らない。鋭いまでに凛とした目が、さらにそれを強調させてしまっている。けど実際のところは、見ず知らずの樹の面倒を見て話まで聞いてくれる普通の人だという事を、樹はなんとなく感じていた。
彼女は、きっと本当は優しいのだと。
「今日は帰ると言ってたっけ」
「ああ、一応な。着替え何枚かは持ってるけど、それだけって訳にもいかないし。家で見る頻度が一番多いから安心しては眠れないけど、仕方ないよ」
「泊まっても構わないよ?」
「けど、そこに出ないとも限らないだろ?」
「―――昨日私の部屋で、何か視えた?」
「いや、視えてないけど……って、そういえばそうだな」
もう一人の自分が見えなくても、大概別の何かは視えたりする事が多かった。もちろん視えない日もあるが、こういう視えやすい体質の人間には、総じて寄ってきやすいものだ。怜奈の部屋で全く何も視えないし気配すら感じないというのは、少し不思議だった。
「だから、泊まっても構わないよ。余程の事がない限り、あの部屋では視えないから」
「…それって、何か張ってるのか?結界的なもの」
「まぁ、そんなとこ」
「けど、これ以上迷惑かけるのは、」
「私、別に人が居ても居なくても気にしないから」
「ああ、そう、」
相変わらず、男の樹から見ても怜奈か格好よかった。
「…悪い、じゃあ、荷物取りに行って終わったら連絡するよ。番号教えてくれる?」
「お好きに」
そう言うと、怜奈はポケットから携帯を取り出した。そのまま携帯をテーブルの上を滑らせると、調度樹の前辺りで止まる。
個人情報にも興味無し。といった感じだ。
それがまた、樹にとっては怜奈らしいと感じてしまった。
受け取った携帯と自分の携帯を開いて、樹はアドレスと番号の登録を進める。
男の子というのは、大体が女の子よりは機械系の扱いには詳しい。樹もまたその一人で、携帯やPCの扱いには人並みだが慣れていた。
そして、自分の携帯に登録する怜奈の名前で、動きを止める。
「…それにしてもさ、」
「…?」
「『依月』って呼ぶの、違和感あるよな。自分の名前呼んでるみたいで」
「…別に苗字で呼ばなくていいけど」
「じゃあ、『怜奈さん』?」
「…『さん』付けは好きじゃないって言わなかった?」
「じゃあ、『怜奈ちゃん』」
そう言われて、怜奈はあからさまに眉を寄せた。
「……気持ち悪い」
「う…、じゃあ、何て呼べば?」
「呼び捨てで構わないけど」
「『怜奈』かぁ。何か親しそうだな」
そう言って、樹は少し笑った。
「それじゃあ、私は親しみを込めて『篠田くん』って呼ぶわ」
「それ、全然親しそうじゃないんだけど」
意外と面白い人だなと、樹は心の中で笑った。
そして、結局当たり障り無く”依月怜奈”とフルネームで登録を済ませた。
*
その日、怜奈と喫茶店で別れた後、樹はバスに乗り、自分のアパートへと帰ってきた。
女の子の家にお世話になるというのは正直気が引けるし緊張もしない訳ではないが、夜な夜な自分とそっくりな何かが、眠っている自分を覗き込んでいるかもしれないと想像すると、一番頻度の高い自宅で眠るのは避けたいところだった。考えるだけでも、落ち着いて眠れる気がしない。大学でも見かけた以上、宿代わりに利用していたその辺のネットカフェも想定範囲内に入ってしまう。それに、正直一人暮らしに毎日外で寝るというのはお金のかかる問題で、事情を知って安全に匿ってくれる場所があるのならこれ以上無い程有り難い事だった。
友人の家に泊めてもらうにしても、何かしら理由を作らなくてはならない。嘘の苦手な樹にとって、それは悩みの種を増やす以外の何ものでもなかった。
数日振りにアパートに戻った樹は、部屋に入ってまず、カバンに詰め込んでいた数日分の洗濯物を洗濯機に放り込んだ。2~3日とはいえ、同じ服ばかり着て大学に行く訳にもいかず、肌寒いこの時期のせいもあって着替えはかさばっていた。もちろん、いつも大学まで持ち歩いていた訳ではない。近くの駅にあるコインロッカーに着替えを詰め込んだカバンを押し込み、宿を探す頃になると取りに行っていたのだ。
洗濯機を回している間に、シャワーと軽い夕食を済ませる。喫茶店でサンドイッチを食べたのはつい1時間程前だが、やはり夕飯には物足りなかったらしい。きっと怜奈の方は、あれを夕飯にしてしまったのだろうけど。
30分程で洗濯も終わり、室内に洗濯物を干して、新たに数日分の着替えをカバンに詰め直す。
そして、何となく、部屋を見回した。
男の一人暮らしにしては物が少なく、綺麗に片付けられた部屋。
玄関を入るとすぐ右にキッチンがあり、左手に浴室などがある。その3メートル前後の廊下を過ぎた奥にある、一間の部屋。7~8畳くらいはあるやや広めの部屋は、男の一人暮らしには充分な広さだ。
そしてその部屋に置かれたテーブルのところに、よく樹は座っている。
それと同じように、あの樹そっくりな何かもそこ座っている事が多い。
怜奈にあまり迷惑をかけないためにも、早く何とかしなくてはいけない。
けど、何をどうすればいいんだろうか。
視えるだけで何も出来ない自分に、何か出来る事があるんだろうか。
それ以前に、もし死んでしまうとしたら、残された時間はどのくらいなのだろう。
今のところ、身体に妙な症状は無い。頭痛も無い。
けど、自分が死んだところで、何が変わるというのだろうか。
それはそれで楽かもしれないけど、まだ死にたいとは思わない。
樹は、自分の存在を希薄に感じているところがあった。
幼い頃に自分と他人は見えているものが違う、解ってもらえない、自分と他人は違う、そして何より、異常なのは自分の方なんだと知ってしまった時から、自分というものの価値観を希薄に感じ始めたのだ。
視える事に対して、特別性なんて感じなかった。樹にとって視えるという事は、他人への隔たりになってしまった。
けれど、視えなくなればいいとも思わなかった。視えているそれらは、確かにそこに存在するから視えているだけに過ぎないのだから。
死にたいとは思わない。自分は何も悪い事はしていないから。
他人を拒絶しようとも思わない。関わってくれるのは、有り難い事だと思うから。
けど、誰かと深く関わり合おうとも思わない。それは自分を知られるという事だから。知られてしまった時に、相手を傷付けてしまうと思ったから。
では、怜奈に知って欲しいと思ったのは何故だろう。
彼女が傷付かない人だと思っている訳ではない。
自分と同じで視えるからだろうか。
それとも――――――――――
「……また忘れてた、」
樹が部屋に戻ってきてから、既に1時間以上経っていた。
お世話になる立場上買い物をしてから行こうと思っていたので、もう出かけなくてはいけない時間になっていた。
どうやら自分には、考え事をしていると時間を忘れる癖があるようだと、心の中で自嘲する。
大学に必要なものをまとめたカバンと着替えの詰め込まれたカバンを持ち、戸締りと消灯を確認すると、樹は静かに部屋を出た。
誰も居なくなった部屋に浮かび上がる、樹と同じ人影を残しながら。




