影は隙間に消える
ずっと、気になっていたのだ。
初めて見かけた時から。気が付いたら、目が離せなくなっていた。
大学に入学後、一人の同級生がちょっとした噂になった。
『黒服に灰色の髪に眼帯の美人が居るらしい』
人間というものはミステリアスなものに惹かれたり興味を持ったりするらしい。彼女のその雰囲気は、そういう興味を引くには充分過ぎる要素だった。
樹が彼女を始めて見たのは、寝過ごして抗議に遅れて飛び込んだ時の事。
教授達に見つからないよう後ろの方からひっそりと抗議に紛れ込んだ樹は、代返を頼んだ友人を探すために回りに視線を巡らせていると、いつもは気にかける事の無い最後尾の一番端の席が目に入った。
そこに座っていたのが、噂通り黒服に眼帯をした美人、依月怜奈だった。
彼女は人の中を避けるようにして、最後尾の一番奥に座っていた。
樹は周りの言う美人だからとかいう理由での興味は無かったが、その時何となく、片目で遠くから抗議を受けていてちゃんと文字が見えているんだろうかと気になった。
その後も彼女は、いつ見かけても眼帯をしていた。
怪我にしては長いなと、少し不思議には思っていた。
彼女はいつも一人だった。綺麗だからという理由もあるだろうが、何より、近寄りがたい雰囲気を持っていたからだろう。そして彼女も、誰も寄せ付けようとしていなかった。
それを勿体無いなと思った事もある。
それがいつの間にか、彼女を見かけたら目で追うようになっていた。
恋愛感情の自覚は無い。けれど周りから見ればそう見えたらしく、友人に真相を問いただされた事もあった。
そして何故か、今自分はその依月怜奈の部屋に居る。
「……あの、ごめん。」
「…何?」
突然の謝罪に、怜奈は訝しげに眉を顰めた。
「いや、何か、迷惑かけて…。」
数十分前。
ずぶ濡れになった怜奈を見つけて傘を差し出した樹は、同じくずぶ濡れになったあげくバスに乗り過ごし、無言の怜奈に引きずられるようにしてここまで来た。
彼女の住むアパートは、大学からそう離れていない、徒歩5分程度の場所にあった。
玄関を入ると怜奈はずぶ濡れのまま部屋に上がり込み、バスタオルとバスローブといくつかのハンガーを樹に手渡すと、服は浴室内に吊るしておけと言い残して、そのまま樹を浴室へ押し込んでしまった。
呆然とする樹は有無を言わさぬ怜奈の目に気圧されて、成すすべも無くシャワーを浴びるハメになってしまったのだ。
これでは立場が逆だった。
手を差し伸べたつもりが、差し伸べられて迷惑をかけてしまっている。男である樹が、怜奈の男気に完全に負けてしまっていた。
樹が出てきた後、彼女は入れ代わりにシャワーを浴びに行った。
見ず知らずの男を部屋に上げておいてこの無防備さは何だろうとも思ったが、最初からそんな気の無い樹は怜奈の思惑通りにリビングで一人、テレビも付けずに座っていた。
これでは本当にどちらが男か解ったものではない。
そしてシャワーから上がってきて、またもや黒い部屋着に身を包んでいる怜奈を見て最初に出た言葉が、こうなってしまった事に対する謝罪の言葉だった。
「別に。あんたが濡れたのもバスに乗り遅れたのも、私のせいだから」
そんな事大した事ではない様子で、怜奈はそっけなく答えた。
「それより、悪いね。バスの便もう無いんじゃない?」
「ん?ああ、いいよ。タクシーでも使うから。それに、家にはちょっと帰りたくなくてね。今日もその辺のネカフェにでも泊まろうか迷ってたんだ」
「そう」
実際、そうなのだ。着替えを取りに帰ろうかとも思っていたのだが、帰らなくていいのならむしろそれでもよかった。
「…この近所に彼女や友達は?」
「彼女居ないから。友達は近所に居るけど、実家通いの奴だからこんな時間に迷惑かける訳にもいかないしさ。…そっちこそ、俺みたいな奴家に上げて彼氏に怒られるんじゃない?」
「そういうの居ないから」
「ああ、そうなんだ…」
無表情に答える怜奈に、樹はそう曖昧に濁した。
こんな美人に彼氏が居ないのは意外だが、この怜奈の雰囲気を考えると何となく納得も出来た。
何処か浮世離れしている印象のせいもあるが、何より他人を心から受け入れないだろうという雰囲気がひしひしと伝わってくるのだ。
俗に言う、一匹狼というやつだ。
「――それより依月さんはさ、」
言いかけたところで、突然名前を呼ばれて怜奈は少し不可思議そうな顔をした。
「…名前、知ってんだ?」
「え?ああ、同じだったから覚えたっていうか―――」
「同じ?」
「俺、樹って言うんだよ、篠田樹」
「そう。――――で、何?」
「あー、いや、答えたくなかったら別にいいんだけどさ、何で普段眼帯なんかしてんだ?怪我でもしてるのかなと思ってたから…」
怜奈がシャワーから上がってきた時からずっと思っていたのだ。
家ではいつもそうなのか髪が濡れているから遠慮したのかは解らないが、怜奈は眼帯を外していた。
そして樹の想像とは裏腹に、いつも隠されている右目には傷一つ無かったのだ。焦点が合ってない、ということも無さそうで、どう見ても普通にしか見えなかった。
そしてしばしの沈黙の後、やはり聞いてはいけなかったのかと樹が後悔していると、怜奈は無表情のままその質問に答えた。
「―――――右目は、見え過ぎるから」
「…え?」
怜奈はそれだけ答えると、PCの置いてあるデスクの椅子に腰掛けた。
そして、首にかけていたタオルで濡れたままになっていた髪を拭う。
「……………」
「……………」
微妙な間が流れた。
その『見え過ぎる』という言葉に、どうしても引っかかったのだ。
普通、眼帯は目が見えないから、不自由だから、怪我をしているからするものだ。
今の彼女の答えは、どう考えても矛盾しているものがある。
だから、樹は確かめたかった。
あの時思った疑問を。
「………………何が、見え過ぎるんだ?」
どうしても、気になって仕方がなかった。
あの土砂降りの雨の中、怜奈は確かに樹と同じものを見ていた気がしたのだ。
あの、白い手のぶらさがった木を。
少し緊張したような面持ちで返事を待つ樹を、怜奈は無表情のまま見返している。
数瞬の間樹の表情を観察しているように見えたが、訝しげに目を細めて答えた。
「……さあね」
さらりとした返事だったが、それが見えているという返事だと言う事は解った。
「…そっか。」
見える相手に逢うのは始めてだった。けれどそれゆえに、樹はどう話せばいいのか解らずに言葉に詰まってしまう。
この彼女も、自分と同じようにいつも沢山の見えないはずのものを見ているんだろうか。誰にも打ち明けられずに。けれどきっと彼女の事だから、誰にも打ち明けようとすら最初から思ってなどいないかもしれないが。
「…ところで」
「え?」
下を向いたまま考えを巡らせていた樹に、無感動な声が投げかけられた。
「泊まってって構わないよ。帰りたくないんでしょ?」
さすがに動揺した。初対面の女の子にこれ以上面倒をかける訳にはいかない。
「いや、大丈夫だよ。どっか適当に探すからさ」
「服、乾いてないよ」
「う…、でも、これ以上迷惑かける訳には――――」
言いかけた時、窓の外が青白い光が広がったかと思うと、ドーンという大きな音が一帯に響いた。
雷が近いらしい。
窓に打ち付ける雨音も、ここに来た時より一層激しさを増しているようだった。
怜奈は横目で窓を一瞥すると、小さく溜息をつく。
「――――外に出たいなら、出ても構わないけど」
「…………すいません。」
こうして、完全に怜奈のペースで話が進み、今日の宿が確定した。
*
翌日の朝、怜奈の家のソファーで眠っていた樹は、着替えをすっかり終わらせた怜奈によって起こされた。浴室の乾燥機にかけられた服はすっかり乾いていて、着替えを済ませて出てきた樹を待っていたのは、朝食だと言って用意されたトーストとコーヒーだった。
最早謝罪の言葉しか浮かばない。
冷たそうに見えるが、怜奈はそれなりに人の面倒は見るタイプの人間らしかった。きっとそんな事を本人に言ったら黙って睨まれるのだろうけど。けど、面倒見が良くなければ、帰りたくない理由も知らない初対面の人間を泊めてくれたりはしないだろうと樹は思う。
謝罪とお礼をひとしきり言い終えると、樹は怜奈より先に大学へ向かった。
時間はまだかなり早いが、何せこのアパートは場所が大学に近いため、通学途中の同級生や友人に見つかれば何を言われるか解らないと思ったのだ。彼女など居ないと公言している樹にとって、噂の美女・依月怜奈の部屋から、しかも朝に出てくる、というのはなかなか大変な自体になりかねなかった。何しろ、彼女とは昨日が初対面だったのだから。
そんな事を考えながら、樹はまだ肌寒い朝のキャンパスへと向かっていた。
雷を連れた昨夜の雨はすっかり止んでいる。
雨上がりの冷たい空気を、樹はすぅっと吸い込んだ。こういう朝の空気は好きだ。まだ何にも汚れていないような、新鮮な空気。昼間の熱を逃がすような夜の空気より、こういう朝の冷えた空気の方が気持ちにもリセットがかかるような気がするのだ。
ざあっ、と音を立てて、風が周りにある木々の葉を揺らした。まだ乾ききらない木々から、昨夜の大雨の名残でもあるたくさんの水滴が落ちる。
そして、昨日のあの場所で立ち止まった。
白い手のぶら下がっていた木の近く。
もうその手は見えず、妙な気配も無くなっている。そんなものだ。今日見えたから、そこに居たからと言っても、次の日もそこに居る訳ではない。移ろい行くもの。
そして、昨日ここで怜奈に逢った時の事を思い出して、樹は深くため息を付いた。
話せた事は、正直に嬉しいと思う。樹は他人と関わるのが嫌いな訳ではないので、話した事のない人と話せたのは嬉しかった。ましてや、それが気にかけていた人物となれば尚更。
だが出逢い方はともかく、その後の事が樹の気を少し重くしたのだ。初対面の人に迷惑をかけてしまったという罪悪感がどうしても拭い去れない。
「…何か礼しないとな」
このままでは自分が納得出来ない。とりあえず相手の受け入れる範囲内でのお礼をしなければと思った。
校舎内に入った樹は、特に行く当ても無く1時限目の抗議のため、教室に向かっていた。廊下を歩くまばらな人の姿はあるが、恐らく樹同様に教室を目指しているものはまだ少ないだろう。
こつこつと、靴の音がやけに大きく響く廊下。
まだ抗議が始まるまで時間があるので、音楽でも聴きながら寝ようと思っていた。
そして教室の前までたどり着いた樹は、まだ電気も付いていない薄暗い教室の扉を開けた。
するとそこには、もう既に一人の青年が座っていた。
少なからず驚いた樹は、とりあえず挨拶をする。
「おはよー」
返事は返ってこない。
その青年は、樹がいつも座っている辺りに一人で座り、何も書かれていない、誰も居ない教台の方をじっと見つめていた。
電気も付けずに。
荷物も持たずに。
「………」
何だか妙な感じがして、樹はその青年を横目で見ながら奥の方へと歩く。
物音がしても、振り返る事すらしない。真っ直ぐに前を見ている。
ゆっくりと目に入っていくその青年を見て、段々自分の頭から血の気が引いていくのを感じた。
その人物は、樹とよく似た風貌をしていた。
その人物は、樹と同じ格好をしていた。
その人物は、樹と同じ髪型をしていた。
そして樹は、それに見覚えがあったのだ。
「…………!」
完全に足が止まった。
喉が妙に渇いている。息を呑むと、ごろりとした感触が喉の奥へと押し込まれた。
青年は動かない。まるで人形でも座っているかのようだった。
だがその人形のようなものから感じる、冷たい気配。温度の無い気配。
大概のものには慣れていて、気付いても見て見ぬふりの出来る樹だが、これは、これだけは絶対に確かめなくてはいけなかった。
確認する必要があった。
樹が家に帰りたくない理由が、目の前にあるこれだったのだ。
自分を模したような、自分そっくりの何か。
経験から言って、樹はこれを生きた人間だとは思っていなかった。
「………」
自分の息遣いが、やけに大きく聞こえる。
樹はゆっくりと、それに向かって歩き出した。
こつっ、という靴音が、教室に響いて消える。
確かめなくてはいけない。確かめなければ、安心して家に帰る事すら出来ない。
こつっ――――、こつっ―――――――――、
たった数メートルの距離が、やけに長く感じる。
だが、樹の中にある恐怖と焦りが、確実に一歩ずつ距離を縮めていた。
こつっ、
樹は、相手の1メートル程後ろで立ち止まった。
相手まで聞こえてしまうのではないだろうかと思う程、心臓の音が自分の中で響いている。
青年は、やはり動かない。
そして樹は、その青年の肩へと手を伸ばした。
「………おい、」
肩に手が届くか届かないかのところで、青年が、突然すぅっと立ち上がった。
「――――――!」
樹は驚いて、伸ばしていた手を止める。
すると青年は、出入り口の方に向かって突然走り出した。
「ちょっ…!」
青年はあっという間に出入り口まで走ると、半分くらいだけ扉を開けてその隙間から滑るように外へ出てしまった。
樹は慌てて追いかけると、扉を思い切り開け放つ。
「おいっ、待てっ!」
しかし、そこにはもう青年の姿は無かった。
がらんとした廊下に、樹の声だけが響く。
「………はぁ」
「……樹。何してんだ?」
「…え?」
違う扉から、2人の知った顔がこちらを見ていた。
昨日喧嘩話をして、仲直りして帰っていった友人、西野直人と、その彼女。
「…いや、何でもない。おはよー」
扉を閉めて曖昧に笑ってみせる樹に、2人は不思議そうに顔を見合わせた。




