第九話「線が、見えた」
【一】
その日の稽古は、いつも通り始まった。
廃屋の裏の空き地。朝の光が木立の間から差し込んでいた。クロウドは剣を構えた。クレインが向かい合った。
「来い」
クロウドが踏み込んだ。
剣が交わった。弾かれた。また踏み込んだ。また弾かれた。
数ヶ月前とは違った。体が動きを知っていた。足の踏み込み、腰の回転、剣を振る時の重心の移動——クレインに叩き込まれた動きが、考える前に出てくるようになっていた。
クレインは淡々と受けていた。攻撃を捌きながら、時々カウンターを入れた。クロウドはそれを避けた。全部は避けられなかったが、以前より確実に減っていた。
「……動きが変わってきたな」
クレインが言った。
「そうですか」
「以前は体で覚えた動きを使っていた。今は状況に合わせて動いている」
クロウドは剣を構え直した。
「まだまだですよ」
「そうだな」クレインは言った。「だが、確実に変わっている」
【二】
しばらく打ち合いが続いた。
クレインの攻撃のパターンが、クロウドの頭の中に積み上がっていた。右からの横薙ぎ、上からの振り下ろし、フェイントを交えた突き——全部、見てきた動きだった。
(次は左からくる)
そう思った瞬間、クレインが動いた。
左からだった。
避けた。カウンターを入れた。クレインが一歩下がった。
(……また当たった)
不思議だった。考えてから動いているわけではなかった。見えた、と思ったら体が動いていた。
クレインが構え直した。
今度は違う動きだった。踏み込みが深い。本気に近い速さだった。
クロウドは集中した。
その瞬間——
何かが変わった。
世界が、少しだけ、ゆっくりになった。
クレインの剣が動いていた。でも、いつもより遅く見えた。剣の軌道が——線として、見えた。
刃がどこを通るか。次にどこへ向かうか。弧を描く軌跡が、空中に引かれているように見えた。
クロウドはその線の外に体を動かした。
剣が空を切った。
クレインの次の動きが、また線として見えた。踏み込む足の向き。腰の回転の方向。剣がどこへ来るか——全部、線として見えた。
避けた。また避けた。また避けた。
(……なんだ、これは)
頭の中が、静かだった。焦りがなかった。線を見て、体を動かす。それだけだった。次の手を考える余裕があった。どこへカウンターを入れるか。どこへ崩せるか——
クレインの剣が止まった。
【三】
クレインは構えを解いた。
荒い息をついていた。クロウドは気づいていた。クレインが本気に近い速さで打ち込んでいたことを。それでも当たらなかった。
「……何が見えていた」
クレインが聞いた。
クロウドは少し考えた。
「線、です」
「線?」
「剣の軌道が、線として見えました。どこを通るか、次にどこへ向かうか——引かれているみたいに見えて」
クレインは黙っていた。
「それと、少しだけ時間がゆっくりになった気がしました。その間に、次の手を考えられた」
長い沈黙があった。
クレインはクロウドを見た。真剣な目だった。
「それはいつから」
「さっきが初めてです。集中したら、急に」
「……今まで感じたことはなかったのか」
「勘がいいだけだと思ってました。なんとなく次が見える感じはずっとありましたけど、今日みたいに鮮明じゃなかった」
クレインは腕を組んだ。
「……聞いたことがない」
クレインは低く言った。
「近衛にいた頃、何百人もの剣士を見てきた。達人と呼ばれる者も、化け物と呼ばれる者も。だが——相手の軌道が線として見える、時が緩む——そんな話は、一度も聞いたことがない」
「だが、お前はまだ十四だ」クレインは続けた。「近衛の精鋭たちでさえ、その境地に至ることはないだろう」
言葉が止まった。
「……普通じゃないのかもしれないですね、俺」
クロウドは少し笑いながら言った。
「今まで、勘がいいだけだと思ってました。こんな力があるなんて、自分でも気づいてなかった」
クレインは何も言わなかった。
でも、その目が——驚きと、何か別のものを混ぜた目になっていた。
【四】
「お前の言ってることは大体わかった。それも踏まえてちょっと確認させてもらう。もう一度、やれ」
クレインが構えを取った。
今度は完全な本気だった。クロウドにはわかった。今まで見せたことのない構えだった。足の幅。重心の位置。剣を持つ手の角度——全部が、少し違った。
近衛兵団の構えだ、とクロウドは思った。
「来い」
クロウドは踏み込んだ。
剣が来た。速かった。今まで見せた攻撃とは別物だった。
でも——線は、見えた。
軌道が見えた。体が動いた。避けた。
クレインの目が、変わった。
また来た。フェイントが入った。一瞬、線が二本に見えた。どちらが本物か——一瞬の間に判断して、動いた。
かすった。
完全には避けられなかった。でも、致命的な一撃ではなかった。
また来た。今度は避けた。
クレインが踏み込みを止めた。
二人とも、息が上がっていた。
クレインはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと構えを解いた。
ニヤけながら——
「……今日はここまでだ」
「もう少し——」
「今日はここまでだ」
二度言われた。クロウドは黙った。
クレインは剣を鞘に納めながら、空を見上げた。
「お前のその力は、才能じゃない」
クロウドは聞いた。
「才能ってもんを超えている。普通の人間が持てる感覚じゃない」
「じゃあ、なんですか」
クレインはしばらく答えなかった。
「……知らん」クレインは言った。「だが、大切にしろ。そして、悟られるな」
「誰にですか」
「誰にでも」
クロウドは頷いた。
なぜそう言うのかは、まだわからなかった。でも、クレインが真剣に言っている時は、理由がある。それはもう知っていた。
夕暮れが、空き地を橙色に染めていた。
クロウドは剣を鞘に納めながら、今日感じたものを頭の中で思い返していた。
線が見えた。時間がゆっくりになった。次の手を考える余裕があった——
(今まで、気づいていなかっただけなのか)
ずっと、そこにあった?
ただ、今日初めて、はっきりと見えた。
(……これは、なんなんだろう)
答えはまだ、なかった。でも、何かが始まった気がした。
クレインは一人、空き地に残っていた。
今日のことが、頭から離れなかった。
あの動き。あの目。線が見える、時が緩む——近衛で何百人もの剣士を見てきた自分が、一度も聞いたことのない感覚。それが、まだ十四の少年に宿っている。
これからこの少年が何をするのか。何を起こすのか。
確信があった。
何かが起きる。必ず。
クレインは気づいたら、一人でニヤけていた。




