第七話「痣如きで、悲しいですね」
【一】
その日の朝、見慣れない人物が廃屋を訪ねてきた。
四十がらみの女だった。身なりが整っていた。安物ではないが派手でもない服。髪がきちんとまとめられていた。屋敷に仕える者の、清潔感だった。
クロウドが扉を開けると、女は一礼した。
「あの……こちらに、クロウドという方がお住まいと聞いて参りました」
「俺ですが」
女は顔を上げた。少年を見た。布で顔を隠している。小柄で、まだ子供だった。
「お噂は伺っておりました。街でいくつも仕事をこなされていると……」
「はい」
「実は折り入ってお願いが——」
その時だった。
風が吹いた。顔に巻いていた布が、少しずれた。
左頬から顎にかけての、暗い痣。
女の目が、止まった。
一瞬だった。でも、その一瞬で全てが変わった。女の顔から、藁にもすがる必死さが消えた。代わりに、古い本能が出てきた。関わってはいけない。近づいてはいけない——
「……申し訳ありません。人違いだったようです」
女は一歩、後退した。
クロウドは引き止めなかった。
布を直した。女が踵を返した。
別れ際に、クロウドは静かに言った。
「人の命が掛かっているのに」
女の足が止まった。
「痣如きで——悲しいですね」
振り返らなかった。でも、止まっていた。
路地に、静寂が戻った。
しばらく間があった。
女がゆっくりと振り返った。目が、赤くなっていた。
「……無礼を、お許しください」
【二】
話を聞いた。
依頼人の名はセルマといった。城下町の外れにある屋敷に仕える女中頭だった。
屋敷のお嬢様——名をエリナという、十四歳——が五日前から行方不明になっていた。最初は街の衛兵隊に届けた。衛兵隊は一通り調べたが、手がかりなしと言った。次に冒険者ギルドに頼んだ。数人が動いたが、五日経っても何も出てこなかった。
「街の方々から、あなたのお噂を伺いました。仕事をきっちりこなす少年がいると。誰も受けない依頼でも、なんとかすると……」
セルマは深く頭を下げた。
「先ほどは本当に申し訳ありませんでした。お嬢様のことが心配で頭が一杯で……それでも、あのような態度をとってしまい」
「いいです」
クロウドは言った。慣れていた。怒っていなかった。
「五日前、エリナさんがいなくなる直前に何かありましたか」
セルマは少し考えた。
「……いなくなる前日に、お屋敷の旦那様が貴族の集まりに出席されました。エリナお嬢様もご一緒でした。その翌日から姿が見えなくなって——もう五日になります」
「その集まりで、何かありましたか」
「詳しくは……ただ、帰り道にエリナお嬢様が一人になる時間があったと、後から聞きました。どこかで誰かに声をかけられたのかもしれませんが、それ以上はわからなくて」
クロウドは頷いた。
「わかりました。誘拐かもしれませんね。引き受けます」
セルマの目に、光が戻った。
「報酬は——」
「依頼が解決してから決めましょう」クロウドはにこりとした。「ただし、今日から動きます。街の中で聞き込みをするので、俺が何を聞いて回っているか、外には言わないでください」
「わかりました」
「あと一つ。俺が何者かは関係ない。結果だけ見てください」
セルマはもう一度、深く頭を下げた。
クレインに話した。
「城下町の屋敷のお嬢様の誘拐です」
クレインは腕を組んだ。
「……正直、俺は城に近しい依頼には関わりたくない」
「わかってます」
「わかってるのか」
「だから一人でやります。ただ、知ってる人が増えた方が安全かと思って話しました」
クレインはしばらく黙っていた。
「……無理はするなよ」
「しませんよ」
「戦闘になりそうなら引け」
「引きます。俺の武器は口ですから」
クロウドはにこりとした。クレインは眉間に皺を寄せた。
「笑える状況じゃないだろう」
「笑える時に笑っておかないと」
クレインは深く息を吐いた。
【三】
クロウドは街を歩いた。
いつも通りの顔で。いつも通りの路地を。仕事の合間に、いつも通り人と話した。
違うのは、聞く内容だった。
最近、変わったことはなかったか。普段と違う動きをしている店はないか。見慣れない荷物や人の動きはなかったか——世間話の流れで、さりげなく聞いた。
二日目の夕方だった。
市場の南端にある商業倉庫の前を通った時、足が止まった。
(……おかしい)
この倉庫は知っていた。ここを使っている商社は、月に一度、決まった時期に搬入をする。その時期はまだ先のはずだった。なのに、数日後に搬入の予定があると、近くの荷運び人夫が話していた。
クロウドは荷運び人夫のところへ行った。
「最近どうですか」と話しかけた。仕事の話をした。市場の景気の話をした。それから、何気なく聞いた。
「そういえば、南の倉庫、珍しい時期に搬入があるんですね」
「ああ、そうなんだよ。急に入ってきてさ。いつもと違う積み荷で、行き先も聞いたことない町だったな」
「へえ。どんな積み荷でしたか」
「なんか、大きめの木箱がいくつかと……あとは、まあ、普通の荷物かな。でも木箱だけやたら厳重で」
「そうですか。大変ですね」
クロウドは笑顔で別れた。
路地を曲がったところで、足を止めた。
(繋がった)
【四】
翌朝、クロウドは商業倉庫を訪ねた。
受付に出てきたのは、四十代の男だった。がっしりした体格。日焼けした肌。商人というより、叩き上げの職人のような風貌だった。目が鋭かった。
名をバルドといった。この商社の主だった。
「なんの用だ」
布で顔を隠した少年を見て、露骨に顔をしかめた。
クロウドはにこやかに座った。
「少し確認したいことがありまして」
「子供に確認されることはない。帰れ」
「数日後の搬入の件です」
バルドの目が、一瞬止まった。
ほんの一瞬だった。でもクロウドには見えた。
(動揺している)
クロウドは続けた。急がなかった。声のトーンを変えなかった。
「普段と違う時期の搬入ですよね。積み荷も、いつもと違うと聞きました。大きめの木箱が、厳重に」
「……それがどうした」
「その木箱の中身を教えてもらえますか」
「商売の中身をなぜ教えなきゃならない」
「そうですよね」クロウドは頷いた。「では、一つだけ聞かせてください」
バルドは黙っていた。
「貴族の集まりで、あなたの商品を笑いものにしたのは——エリナお嬢様のお父上でしたか」
バルドの顔が、固まった。
沈黙が続いた。
クロウドは待った。急かさなかった。バルドの肩が、微かに震えていた。怒りではなかった。別のものだった。
セルマから聞いていた。旦那様があの集まりから戻った夜、ひどく落ち込んでいた女中がいたと。その女中が後日こぼした話が、屋敷の中でそっと広まっていたと。旦那様が一番初めに笑い始めた——その話が、セルマの耳にも入っていた。
「……商人魂で集めてきたんでしょう」
クロウドは静かに言った。
「一流品じゃないかもしれない。でも、できる限り良いものをと思って集めた。それを——身分で判断して、笑いものにした」
バルドは何も言わなかった。
「許せなかったんですよね」
バルドの目から、鋭さが消えた。
代わりに出てきたのは——疲れた男の顔だった。
「……お嬢様は、関係ない」
バルドはぼそりと言った。「わかってる。わかってるんだ。でも……あの時の笑い声が、頭から離れなくて」
クロウドは頷いた。
「お嬢様は今、どこにいますか」
「……倉庫の奥の部屋だ。ちゃんと食べさせてる。怖い思いはさせていない」
「わかりました」
クロウドは少し間を置いた。
「一つ、提案があります」
バルドが顔を上げた。
「あなたがこのことを後悔しているなら、力を貸します。突き出しはしない。でも、この街を出ることを勧めます。今なら、まだ間に合う」
「……なぜ、お前が」
「俺も、見た目だけで判断されることが多いので」
クロウドは布に触れた。
「理不尽だと思う気持ちは、わかります。でも、お嬢様には関係ない。それは、あなたもわかってる」
バルドはしばらく黙っていた。
やがて、立ち上がった。
「……奥に案内する」
【五】
エリナは無事だった。
クロウドはバルドに先に言った。「今すぐ出てください。俺はここで少し待ちます」
バルドは一瞬、クロウドを見た。何も言わなかった。ただ、深く頭を下げた。そして荷物をまとめて、裏口から出ていった。
しばらくしてから、クロウドはセルマとエリナのところへ向かった。
エリナは怯えていたが、怪我はなかった。セルマの顔を見た瞬間、声を上げて泣いた。
「犯人は」とセルマが聞いた。
「逃げられました」とクロウドは答えた。「申し訳ないです」
セルマはしばらく黙っていた。それから、静かに頷いた。
後になって、クロウドは路地の端でバルドが去った方向を見た。
(あの人も、戦っていたんだ)
方法は間違えた。でも、怒りは本物だった。商人として、一生懸命集めてきたものを笑われた——その痛みは、本物だった。
前世の記憶がよぎった。
怒鳴られても、馬鹿にされても、それでも次の客のところへ向かった男のことを。どこかで聞いた気がする声が、頭の奥で響いた。
(……お互い、大変だな)
クロウドは踵を返した。
帰り道、セルマが深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。報酬は——」
「屋敷の旦那様に、一つお願いがあります」
セルマが顔を上げた。
「貴族の集まりで、人の商品を笑いものにするのは——やめた方がいいと、伝えてください」
セルマは黙っていた。
「今回のことの原因ですから」
セルマはもう一度、深く頭を下げた。
「……必ず、伝えます」
クロウドは頷いた。
夕暮れのアッシュタウンを、一人歩いた。
空が橙色に染まっていた。
(口先と、歩き回った日々が——ここで繋がった)
まだ始まったばかりだった。でも、確かに、何かが動き始めていた。




