第六話「二人分の廃屋」
【一】
翌朝、クレインはいつもの場所に立っていた。
クロウドが来ると、昨日巻いた布を見た。血は止まっていた。
「痛みは」
「ないです」
「嘘つくな」
「……少しあります」
「今日の稽古は休め」
クロウドは少し不満そうな顔をしたが、何も言わなかった。クレインが「休め」と言う時は、理由がある。それはもう、わかっていた。
二人で並んで、市場の方向に歩いた。クロウドは仕事を探しに行く。クレインは——特に行く場所はなかった。ただ、気づいたら歩いていた。
しばらく歩いて、クロウドが口を開いた。
「クレイン、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「今、どこに泊まってますか」
クレインは少し間を置いた。
「……宿だ」
「どの宿ですか」
「お前には関係ない」
クロウドは何も言わなかった。
でも、わかっていた。この街で一番安い宿は、市場の裏の木賃宿だった。壁が薄くて、虫が出て、飯も出ない。それでも銅貨三枚かかる。クレインが稼げる日銭を考えれば、毎日払い続けるのは、きつい。
そして、稽古の相場も、クロウドは調べていた。
平民向けの剣術指南——家庭教師として教えてもらうなら、最低でも銀貨一枚は必要だった。クロウドが今稼げる額とは、かけ離れていた。
クレインは何も言わなかった。月謝の話も、一度もしなかった。
それがわかっていたから、クロウドも何も言えなかった。
【二】
市場を一周して、二件の依頼を取ってきた帰り道だった。
クロウドが立ち止まった。
「クレイン」
「なんだ」
「一つ、提案があるんですが」
クレインは歩きながら「言え」と言った。
「二人で暮らしませんか」
クレインが足を止めた。振り返った。
クロウドは続けた。
「街外れの農村の方に、廃屋があるんです。何年も人が寄り付いてないやつで、ほとんどボロボロですけど。二人別々に暮らすより、一緒に暮らした方が家賃が安くなります。廃屋の交渉は俺に任せてください。なんとかなりますよ」
クレインはしばらく黙っていた。
「……何年も寄り付いていないなら、それこそただの廃墟だろう」
「交渉次第です」
「ガキ一人が交渉して、誰が貸す」
「やってみないとわかりません」
クレインはクロウドの顔を見た。
真顔だった。本気で言っていた。
(また、このガキは)
わかっていた。月謝のことを気にしているのだと。宿代のことも、見えているのだと。全部わかった上で、実利の言葉に包んで持ってきている。
気を遣われているのだと思った。
ただ——
(それだけじゃない気もするな、こいつは)
クレインには、なんとなくわかっていた。このガキは、損得だけで動かない。前から、そうだった。市場で最初に声をかけてきた時も、毎日話しかけてきた時も——計算だけじゃなかった。
「……廃屋の交渉が成功したとして、その後が大変だろう」
「直せます」
「お前が、か」
「クレインも手伝ってください」
クレインは深く息を吐いた。
「……俺を顎で使うな」
「お願いしてます」
ニコニコしながら言った。
クレインは空を見上げた。雲が流れていた。しばらく、黙っていた。
「……廃屋を見てから判断する」
クロウドは笑った。
「じゃあ今から行きましょう」
「話が早すぎる」
【三】
街外れの農村は、アッシュタウンの喧騒とは切り離されたように静かだった。
畑が広がって、遠くに農家の煙突が見えた。その外れに、問題の廃屋があった。
クレインは腕を組んで眺めた。
壁にひびが入っていた。屋根の一部が崩れていた。窓枠が朽ちていた。扉は蝶番が外れかけていた。
「……これは廃屋というより廃墟だな」
「言いましたよね、ボロボロだって」
「聞いていたが、想像の上をいった」
クロウドはすでに近隣の農家に向かっていた。一番近い農家の扉を叩いた。出てきた老人に、にこやかに話しかけた。
クレインは遠くから眺めていた。
老人は最初、渋い顔をしていた。クロウドの顔の布を見て、一瞬眉をひそめた。でも、クロウドは怯まなかった。話し続けた。老人の表情が、少しずつ変わった。
十分もしないうちに、クロウドが戻ってきた。
「交渉成立です。あの廃屋、もう十年以上誰も使っていないそうです。取り壊す手間も省けると言ったら、月に銅貨十枚で貸してもらえることになりました」
クレインは黙っていた。
「二人で割れば五枚ずつです。俺の今の宿よりだいぶ安いですよ」
「……お前の今の宿はいくらだ」
「一日銅貨一枚です。まあ雨漏りしてますが」
クレインはもう一度廃屋を見た。
屋根の崩れた廃屋と、雨漏りする宿。どちらがましかという話だった。
「……直せるのか、本当に」
「やってみないとわかりません」
「それしか言わないな、お前は」
「だいたいなんとかなってますから」
クレインは深く息を吐いた。それから、廃屋の扉を押した。蝶番がきしんだ。中は埃だらけだった。でも、壁の基礎はしっかりしていた。屋根も、崩れているのは一部だけだった。
「……修繕の材料代はどうする」
「依頼を増やします。クレインも手伝ってくれるなら早く終わりますよ」
「また勝手に頼る」
「お願いしてますよ」
クレインは埃だらけの床を踏んで、部屋の中を歩いた。窓から農村の景色が見えた。静かだった。アッシュタウンの裏通りとは、空気が違った。
悪くない、と思った。
思っていないふりをしたが、思っていた。
「……わかった」
「本当ですか」
「ただし条件がある」
「なんですか」
「飯は交代で作る」
クロウドは一瞬、間を置いた。
「……俺、あまり作れないですよ」
「俺も大して作れん。だから交代だ」
クロウドは笑った。
「わかりました」
【四】
その夜から、二人は廃屋の修繕を始めた。
昼はクロウドが依頼をこなして材料代を稼ぎ、夕方にクレインと二人で直した。クレインは意外と手が器用だった。元軍人らしく、作業が手際よかった。
稽古も続いた。
「お前に、ちゃんとした剣を持たせる」
ある夕方、修繕の手を止めてクレインが言った。
「木剣じゃなく、ですか」
「先日みたいな場面になった時、木剣では限界がある。ちゃんとした剣があれば、またあの状況でも違う動きができた」
「あと剣の重さに慣れておいた方がいい」
クロウドは頷いた。
「お金が貯まったら、ですね」
「まあその時俺が選ぶ。お前はまだ目利きができないからな」
「……任せます」
クレインは修繕の作業に戻った。
二人分の廃屋は、少しずつ形になっていった。
ある夜、修繕を終えて外に出ると、星が出ていた。アッシュタウンの裏通りより、ずっと広い空だった。
クロウドは顔の布を外し星を見た。
(……広い)
城を見上げた、あの夜を思い出した。灰の街から始めりゃいいと思った夜。あの時は一人だった。
今は、隣に誰かがいた。
クレインは何も言わなかった。ただ、同じ空を見ていた。
それだけだった。
でも、それで十分だった。




