第四話「そこからか、とは言わせない」
【一】
廃屋の裏に、狭い空き地があった。
雑草が生えて、石が転がって、壁に苔が張り付いている。誰も使わない、誰も来ない場所だった。クレインはそこを選んだ。
「まず立て」
クロウドは立った。
「それが普通に立っている状態だな」
「……はい」
「その立ち方で戦ったら死ぬ」
クロウドは何も言わなかった。
クレインはクロウドの周りをゆっくりと一周した。頭のてっぺんから足の先まで、じっくりと見た。元近衛兵団の目だった。
「いいか。まず心技体という言葉を知っているか」
「知りません」
「そうだろうな」クレインは言った。「戦いにはこの三つが必要だ。心——精神の持ち方。技——体の動かし方と技術。体——体そのものの力と使い方。この三つが揃って初めて戦える」
クロウドは黙って聞いた。
「普通は体から鍛える者が多い。力をつけろ、走れ、それだけだ。だが近衛ではそうじゃなかった。まず心を作る。次に体の使い方を教える。力はその後についてくる」
「なぜ心が最初なんですか」
クレインは少し間を置いた。
「どんなに体が強くても、怖さで頭が真っ白になれば動けない。お前が昨日やられたのも、半分はそれだ」
クロウドは思い当たった。羽交い締めにされた瞬間、頭の中が一瞬止まった。見えていても、体が固まった。
「……そうかもしれないです」
「もう半分は体の使い方を知らないからだ。だから今日は両方やる」
【二】
「まず心の話をする」
クレインはクロウドの前に立った。
「戦いの場で一番怖いのは何だと思う」
「……殴られること、ですか」
「違う。わからないことだ」
クロウドは首を傾けた。
「相手が次に何をしてくるかわからない。自分がどう動けばいいかわからない。その『わからない』が人を固める。逆に言えば、わかっていれば怖くない」
「……だから相手の動きを読む」
「そうだ。お前が昨日言っていたことは、その感覚に近い。相手の動きが見えれば、わからないことが減る。わからないことが減れば、心が落ち着く。心が落ち着けば、体が動く」
クロウドは静かに聞いていた。
「心を鍛えるとは、場慣れすることだ。怖い状況に何度も身を置いて、その中で考える癖をつける。最初は誰でも固まる。固まりながらも考えろ。それを繰り返すうちに、固まる時間が短くなる」
「……昨日の俺は、固まりすぎた」
「そうだ。だが最初はそんなもんだ」
クレインは短く言い切った。責めているわけではなかった。ただ、事実として言っていた。それがクロウドには、むしろわかりやすかった。
「次は体だ」
クレインはクロウドの前に立った。
「構えを教える前に、まず重心の話をする。お前は今、重心がどこにあるかわかるか」
「……足の裏、ですか」
「どの辺りだ」
クロウドは少し考えた。「真ん中、くらい」
「つま先寄りだ」クレインは言った。「前に体重が乗っている。これだと後ろに引かれた瞬間に崩れる。昨日お前が一発目で転がされたのはそれだ」
言われてみれば、そうだった。羽交い締めにされた瞬間、あっさり後ろに引かれた。
「重心は体の中心、やや下に置く。足は肩幅より少し広め。膝を軽く曲げる。これが基本だ」
クレインが実際にやってみせた。特別な構えには見えなかった。ただ立っているように見えた。でも、何かが違った。
クロウドは同じようにやろうとした。
「膝が伸びている」
直した。
「足が狭い」
直した。
「力が入りすぎだ。柔らかく」
クロウドは力を抜こうとした。抜きすぎた。
「抜きすぎだ」
「……難しいですね」
「そうだ」クレインは言った。「だから鍛錬がいる」
【三】
一刻ほど、基本の構えだけをやり続けた。
重心の置き方。足の幅。膝の曲げ方。肩の力の抜き方。一つ直すと別のところがずれる。別のところを直すと最初のところがずれる。クロウドは何度も同じことを繰り返した。
クレインは丁寧だった。
「膝を曲げるのは、バネを作るためだ。真っ直ぐ立っていたら、いざ動く時に一拍遅れる。曲げておけばすぐ動ける」
「肩の力を抜くのは、腕を速く動かすためだ。力が入っていると腕が重くなる。軽い方が速い」
「重心を低く置くのは、崩されにくくするためだ。背の高い木より、低い木の方が風に強い」
一つ一つに理由があった。ただやれと言われるより、なぜそうするのかがわかる方が、クロウドには入ってきた。
(……これは、理にかなっている)
頭の中で、何かが整理されていく感覚があった。
「もういい。次は動きをつける」
クレインが向かい合って立った。
「俺が打ち込む。避けろ。ただし、闇雲に逃げるな。どこに来るかを見てから動け」
「……はい」
「来るぞ」
クレインの右腕が動いた。
クロウドには見えた。肩が上がった。肘が引いた。右に重心が乗った——右の拳が来る。
体を左に、一歩ずらした。
拳が、空を切った。
クレインは動きを止めた。
「……もう一度」
また来た。今度は左から。左肩が動いた。右足に重心が移った——
右に動いた。また空を切った。
「……」
クレインは無言だった。
「もう一度」
三度、四度、五度——クロウドは避け続けた。完璧ではなかった。六度目はかすった。七度目は少し遅れた。でも、当たらなかった。
クレインは打ち込みを止めた。
しばらく、黙っていた。
クロウドは息を整えながら、クレインの顔を見た。何を考えているのか、読みにくい顔だった。でも——目が、違った。
(驚いている)
言葉にしないだけで、確かに驚いていた。
クレインは近衛兵団で何人もの新兵を見てきた。基本の構えを教えて、打ち込みに入るまでに、普通は何日もかかる。体が動きを覚えるまでに、もっとかかる。
このガキは、一刻でそこまで来た。
しかも、避け方が違った。闇雲に逃げているのではなかった。動く前に、一瞬、止まっていた。見てから動いていた。あの感覚が、本物だとしたら——
(化けるかもしれない)
久しぶりに、そう思った。
「……疲れたか」
「全然」
クレインは短く鼻を鳴らした。
「今日はここまでだ」
「もう少しできます」
「体が覚える前に詰め込みすぎると、変な癖がつく。今日覚えたことを体に馴染ませろ。鍛錬は明日も続く」
クロウドは少し不満そうだったが、「……わかりました」と言った。
クレインは踵を返しかけて、止まった。
「お前、昨日やられた物取りの男の動きを今でも覚えているか」
「覚えています」
「どんな動きだった」
クロウドは答えた。後ろから来た足音のリズム。羽交い締めにした腕の力加減。拳の軌道。重心の置き方——細かく、正確に。
クレインは黙って聞いていた。
「……一度やられただけで、そこまで覚えているのか」
「なんとなくですけど」
クレインはまた黙った。
「明日も来い」
それだけだった。
でも、クロウドにはわかった。これはクレインなりの「お前は本物だ」という言葉だと。
クロウドは笑った。
「はい」
クレインの背中が、また少しまっすぐになった気がした。




