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第三話「見えてても、避けられない」



【一】


その日の最後の依頼は、市場の東端にある革具屋への荷物の届け物だった。


中身は布の束。重くはなかった。道も知っていた。いつも通りの、どこにでもある仕事だった。


問題は、帰り道だった。


裏通りの細い路地を抜けようとしたところで、後ろから足音が来た。


クロウドは気づいていた。足音の間隔、地面を踏む重さ——大人の男が一人、速度を上げながら近づいてくる。走っているわけではない。でも、明らかに近づいてきていた。


(やばい)


振り返る前に、腕が来た。


後ろから羽交い締めにされた。男の腕が首に巻きつく。クロウドは体を捩じって逃げようとしたが、相手の方がずっと力が強かった。


「騒ぐな。金を出せ」


低い声だった。酒の臭いがした。


クロウドは男の腕の力加減を感じていた。右腕の方が強い。重心は少し右寄りだ。左に崩せば——


でも、どうやって崩すのかが、わからなかった。


頭ではわかっていた。体が、ついてこなかった。


男がクロウドを放り投げた。服が裂けた。痛かった。立ち上がろうとしたところに、蹴りが来た。腹に入った。息が詰まった。また地面に転がった。


「金はどこだ」


男の拳が顎をかすった。完全には当たらなかった。当たる前に、なんとなく軌道が見えて、顔をずらしていた。でも「なんとなく」では足りなかった。次の拳は頬に入った。


視界が揺れた。


男がクロウドの懐を漁った。今日稼いだ銅貨が全部、消えた。


足音が遠ざかっていった。


路地に一人、クロウドは起き上がった。


手が擦れていた。頬が腫れていた。腹が痛かった。


それより、悔しかった。


見えていた。腕の動きも、拳の軌道も、重心の傾きも——全部見えていた。なのに、何もできなかった。


(見えるだけじゃ、何にもならない)


夜の路地は静かだった。遠くで犬が吠えていた。


クロウドはゆっくりと立ち上がって、廃屋へ向かった。


【二】


翌朝、クロウドはいつも通り裏通りへ出た。


傷は隠せなかった。手の擦り傷は布を巻けば隠れたが、頬の腫れはどうにもならなかった。服の破れも、昨日より増えていた。


クレインはすぐに気づいた。


いつもの場所に立っていたクレインが、クロウドの顔を見た瞬間、眉間に皺が寄った。何も言わずに近づいてきて、クロウドの手をつかんだ。布をずらして、擦り傷を見た。


「……何があった」


「物取りです。たいしたことないですよ」


「たいしたことある顔をしてるぞ」


しばらく、クレインは黙ってクロウドの顔を見ていた。頬の腫れ。服の破れ。


「……避けられなかったのか」


「……避けられませんでした」


「そうか。ならただ殴られただけか。仕方ないな」


「いえ、避けてはいたんです」


クレインの眉が、わずかに動いた。


「……避けていた?」


「何発かは。でも、相手が次こうしてくるって頭ではわかったんです。ただ体が動かなかった。緊張もあったかもしれないですけど……自分の体なのに、動かし方がわからなくて」


クレインはしばらく黙っていた。まぐれだと思うかもしれない。クロウド自身もそう思っていた。でも、嘘をつく理由もなかった。


「……頭でわかった、とはどういうことだ」


【三】


クロウドは少し考えてから言った。


「相手の腕の動き、拳が来る前の重心の移動……次にこうしてくるって、描写みたいなものが見えるというか。うまく言えないんですけど」


「……殴られてるのにか」


「はい。変ですよね」


クレインはしばらく黙っていた。


「剣をやる者は、長年の鍛錬の末にそういう感覚を身につける」クレインはゆっくりと言った。「相手の小さな動き、呼吸の乱れ、足の運び——それを積み重ねて読むことができるようになる。まあお前にそんな経験はないだろうから、本当にそうかはわからんが……もしそれがそのことであれば、すごい才だぞ」


クロウドは何も言わなかった。


「それと、自分の体なのにうまく動かなかったのはな」クレインは続けた。「緊張もあるだろうが、一瞬でその動きを取ろうとしても、体は知らないんだ。頭でわかっていても、体がその動きを覚えていなければ動けない。感覚がないから仕方ない」


なるほど、とクロウドは思った。腑に落ちた。自分の体なのに言うことを聞かなかった理由が、初めてわかった気がした。


「じゃあ……どうすれば動けるようになりますか」


クレインは短く言った。


「鍛錬と実践あるのみだな」


【四】


しばらくの沈黙。


クロウドは、クレインの顔を見た。断るかもしれない。面倒くさいと思っているかもしれない。この男は人を信じていない。自分のことを話さない。壁がある。


でも——


この男は知っている。自分に足りないものを、この人は持っている。そして、本当は。


(この人は、誰かに教えたい人だ)


言葉にできない確信があった。なぜそう思ったのかは、わからなかった。ただ、そう感じた。


「……クレイン」


「なんだ」


「教えてください。体の使い方。剣術でも、素手でも、なんでも」


クレインは答えなかった。


十秒ほど、沈黙が続いた。


クロウドは待った。急かさなかった。この人には、この間が必要だとわかっていた。


やがて、クレインは短く言った。


「……ついてこい」


踵を返して歩き始めた。


クロウドは少し遅れてから、その背中を追った。


クレインの背中は、昨日より少しだけ、まっすぐだった気がした。



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