第二話「見てくる男」
【一】
その男のことを、クロウドは最初、気にしていなかった。
アッシュタウンの裏通りには、いろんな人間がいる。仕事にあぶれた日雇い労働者。昼間から酒を飲んでいる元冒険者。どこへ行くでもなく路地の隅に座り込んでいる老人。そういう人間が、ここでは風景の一部だった。
だから最初は、そういう一人だと思っていた。
市場の外れで、青物売りのマッコという男に呼び止められたのは昼前のことだった。依頼の内容は単純だった——市場の奥にある倉庫まで荷物を運び、仕分けをして、帳簿に記録する。それだけで銅貨三枚。
クロウドは引き受けた。
半分、終わらせたところで手を止めた。
残りの仕事の中身を、クロウドはもうわかっていた。帳簿の記録というのは、実は取引先ごとに複雑な仕分けが必要な作業だった。マッコは最初、それを言わなかった。言わなかったのか、気にしなかったのかは知らない。
クロウドはマッコのところへ戻った。
「銅貨三枚では残りは無理です」
マッコの顔色が変わった。「話が違う」と言った。クロウドは静かに言い返した。「最初に聞いた仕事の分は、もう終わらせました。それが三枚分です」
マッコには今日中に仕事を終わらせなければならない理由があった。上からの締め切りがあった。クロウドにはそれが見えていた。
最終的に、銅貨七枚半で合意した。当初の二倍半だった。
マッコは渋い顔で金を払った。クロウドは「ありがとうございます」と言って、仕事を終わらせた。丁寧に、完璧に。
交渉が終わって、踵を返したところで——ふと、視線を感じた。
路地の入り口に、男が立っていた。
四十がらみだろうか。無精髭が伸び放題で、服はくたびれていたが破れてはいなかった。かつては良い服だったのかもしれない。今は汚れて、色が褪せている。腕を組んで、こちらを見ていた。
目が合った。
男は視線を逸らさなかった。
クロウドも逸らさなかった。
数秒、そのままだった。やがてクロウドが先に歩き出した。男はそれ以上何もしなかった。
その日は、それだけだった。
【二】
翌日も、男はいた。
今度は別の場所だった。クロウドが荷運びの手伝いを終えて路地を曲がったところで、また視線を感じた。振り返ると、少し離れた壁際に男が立っていた。昨日と同じ男だった。同じ無精髭、同じくたびれた服、同じ腕組み。
また、じっと見ていた。
(……なんなんだ、このおじさんは)
クロウドは少し考えた。
この街で、烙印持ちを見てくる大人の目には、大体パターンがある。嫌悪か、恐れか、あるいは完全な無視か。ちらりと見てすぐ目を逸らすのが一番多い。じっと見てくる場合は、大体ろくなことにならない。
でも、この男の目は違った。
嫌悪でも恐れでもなかった。何か——不思議がっているような、測っているような、そういう目だった。
(まあ、絡んでこないなら別にいい)
クロウドはそう結論づけて、仕事に戻った。
三日目も、男はいた。四日目も、五日目も。場所は毎回違った。でも必ず、クロウドが仕事をしている場所のどこかに、あの男が立っていた。声をかけてくるわけでもなかった。邪魔をするわけでもなかった。ただ、見ていた。
さすがに、気になった。
六日目。
その日もクロウドは裏通りを回って仕事を探していた。二件の依頼をこなして、三件目を探していたところで——今日も男がいた。
今度は、クロウドが先に近づいた。
「……何か用ですか」
男は少し間を置いた。
「別に」
「じゃあなんで毎日見てるんですか」
「……見たらいかんのか」
「別にいかんとは言ってません。ただ気になって」
男はしばらく黙っていた。腕組みを解いて、また組み直した。
「烙印持ちのくせに」と、男は言った。「よく仕事があるもんだ」
感心とも皮肉ともとれる言葉だった。クロウドは怒らなかった。
この男の言葉の奥を、クロウドはもう読んでいた。意識してやっているわけではなかった。ただ、自然にわかった。男の息の吸い方。肩の落ち方。視線の動き——馬鹿にしているだけじゃない。本当に、不思議に思っている。
そして、もう一つ。
この男は、長い間、誰とも話していない。心のどこかに、大きな穴が空いている。それがなんとなく、わかった。なぜわかるのかは、クロウド自身にも説明できなかった。ただ、わかった。
「この街の大人が子供に仕事を回すかって言えば、普通は回さないですよね」
クロウドは言った。
「そうだな」
「じゃあなぜ俺には回ってくると思いますか」
男は答えなかった。
「俺にもわからないんです。ただ、話せばなんとかなることが多い。それだけで」
男がちらりとこちらを見た。
「……嘘くさいガキだ」
「よく言われます」
クロウドは笑った。少し間を置いて、続けた。
「あと、俺はクロウドっていいます」
男は少し間を置いた。
「……クレインだ」
「クレイン、また見てたら声かけてください」
クレインは何も言わずに立ち去った。
【三】
翌日から、話すようになった。最初はクロウドが一方的に話しかける形だった。クレインは短い返事しかしなかった。でも、返事はした。
ある日、クレインが城に近い場所で軍人をしていたと、ぽつりと言った。それだけだった。詳しくは何も言わなかった。でも、それだけで話の中身が全然違った。
そこからだった。クロウドの中で、何かに火がついたのは。この男は、アッシュタウンでは絶対に聞けない話を知っている——そう気づいた瞬間から、聞きたいことが次々と湧いてきた。
他の街のこと。他の国のこと。他の種族のこと——エルフ族とはどんな存在なのか。ドワーフ族は本当に鍛冶が得意なのか。魔族というのは見た目からして違うのか。城の中はどんな様子なのか。
クレインは短く、でも確かに答えた。
「エルフは森の中の集落に住んでいるのがほとんどだ。街に出てくるやつもいるが、人間とはほとんど関わらない。見下しているからな」
「魔族は見た目からして違う。目の色が違う。魔力が高い奴は体から微かに光が漏れることもある」
「城の中は……まあ、綺麗だ。廊下一本の石の質が、この辺の建物全部より上等だ」
クロウドは聞いた。全部、聞いた。
クレインが話す度に、知らなかった世界が広がった。アッシュタウンの外に、どれだけの世界があるのかが、少しずつ見えてきた。
(世界は広い)
廃屋の屋根から城を眺めながら思ったことが、少しずつ形を持ち始めていた。
クレインは時々、話の途中で黙り込んだ。
何かを思い出しかけて、引っ込めるような沈黙だった。クロウドはそういう時、急かさなかった。ただ、待った。待ちながら、別の話をした。今日の依頼のこと。市場で見た面白い出来事。そうやって話を流してから、また少し違う角度で聞いた。
「軍にいた頃、他の国にも行ったことあるんですか」
クレインはしばらく間を置いてから「……少しはな」と言った。
「どんな国でしたか」
「……ここよりは、ましだった」
それ以上は言わなかった。クロウドもそれ以上は聞かなかった。
(何かがあったんだ)
それだけはわかった。でも今は聞く話じゃない。クレインの肩が、その話題になると微かに強張る。まだ、その時じゃない。
クロウドは話題を変えた。
クレインは少し、肩の力を抜いた。
「……なんでガキにこんな話をしてるんだ、俺は」
独り言のようだった。自分に言い聞かせるようでもあった。
クロウドは笑った。
「俺が聞きたいからですよ。迷惑でしたか」
クレインは答えなかった。
しばらくして「……邪魔したな」と言って立ち去った。
【四】
その夜、クロウドは廃屋の屋根の上で星を見ながら、今日聞いた話を頭の中で繰り返した。エルフの森のこと。魔族の目の色のこと。城の廊下の石のこと。
知らないことが、まだたくさんある。
世界は、本当に広い。
翌日——また、クレインがいた。
クロウドは何も言わずに仕事を続けた。クレインは何も言わずに、いつもの場所に立った。
しばらくして、クレインの方から近づいてきた。
隣に立って、クロウドと同じ方向を向いた。市場の賑わいを、二人で並んで眺めた。
特別なことは、何もなかった。ただ、元軍人の日銭暮らしと、裏通りを歩き回る烙印持ちの少年が、並んで立っていた。
それだけだった。
でも、何かが始まっていた。




