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第一話「灰の街から始めりゃいい」

蛍光灯が、ちかちかと瞬いていた。

東京、昭和六十年。十一月の深夜二時。

中村正義は、積み上がった書類の山の前で、煙草に火をつけようとしていた。ライターが、なかなか着かない。カチ、カチ、カチ。三回、四回。

「……くそ」

五回目で、ようやく小さな炎が生まれた。

正義は深く煙を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。煙が蛍光灯の光の中に溶けて、消えた。

四十歳。独身。営業部第三課所属。今月の成績は、部内トップ。去年も、その前の年も、ずっとそうだった。

だから何だというのだ。

「中村ァ、例の件、明日の朝一で部長に報告書上げとけよ」

廊下の向こうから、課長の声が飛んできた。正義は煙草を灰皿に押しつけながら「わかりました」と答えた。返事だけは、いつでも元気よく。それが中村正義の流儀だった。

報告書は、もう書き終わっていた。

終わっていたが、帰れなかった。課長がいる間は帰れない。課長より先に帰るやつは根性なし、と言われる職場だった。そういう時代だった。文句を言うやつは弱虫で、耐えるやつが偉かった。

正義はそれを、おかしいとも思っていなかった。

ただ、なんとなく、疲れていた。

胸の奥に、小さな重さがあった。いつからあったのか、もう覚えていない。気づいたら、ずっとそこにあった。

ちかちかと、蛍光灯が瞬く。

正義は目を細めて天井を見上げた。なんか、最近、頭が重い。肩も凝る。飯も、あまり美味くない。

(まあ、そんなもんか)

そう思った瞬間だった。

胸の中心に、鈍い痛みが走った。

最初は、ちょっとした圧迫感だった。次の瞬間、それが急激に広がって、全身を縛り上げた。正義は書類の山に手をついて、体を支えようとした。支えられなかった。

床が、迫ってきた。

(あ)

それだけだった。

走馬灯というものがあるとすれば、それはひどく静かなものだった。怒鳴る上司の顔。断られ続けた飛び込み営業。泥だらけの靴。接待のカラオケ。深夜の首都高。自分でも気づかないうちに覚えた、商談相手の癖や息の吸い方。

俺の人生は、これだけか。

そう思った。

でも、不思議と、後悔はなかった。

やれることは、やった。折れなかった。逃げなかった。それで十分だ。

……たぶん。

「中村ァ、おい、中村ッ」

課長の声が、遠くなった。

蛍光灯の光が、白く滲んで、消えた。


【二】

暖かかった。

それが、最初の記憶だった。

大きな手が、自分を包んでいた。荒れた皮膚の感触。でも、優しかった。揺れていた。誰かが歩いているリズムで、規則正しく、ゆっくりと。

声が聞こえた。

低い声と、高い声。言葉の意味はわからなかった。でも、怒っていなかった。怒鳴ってもいなかった。ただ、そこにあった。静かで、温かい声だった。

狭い部屋だった。

壁が近くて、天井が低くて、隙間風が入ってきた。でも、布が厚かった。包まれていた。外は寒いのに、ここだけ温かかった。

歌が聞こえた。

高い声の歌だった。意味はわからない。でも、眠くなった。自然と、目が閉じた。

それが、幸せというものだと、ずっと後になってから、クロウドは思った。


雨の夜のことは、断片的にしか覚えていない。

激しい雨音。遠くで何かが燃えていた。橙色の光が、雨粒の向こうで揺れていた。煙の匂い。誰かの怒鳴り声。大勢の足音。

大きな手が、自分を抱きしめた。

走った。ぬかるんだ地面を、必死に走った。自分を抱いた腕が、震えていた。でも、離さなかった。どこまでも走って、走って——

ある建物の前で、止まった。

雨が、降り続けていた。

大きな手が、自分をそっと地面に置いた。

何かを言っていた。声が、震えていた。言葉の意味はわからなかった。でも、謝っているのだと、わかった。謝りながら、泣いていた。

背中が、見えた。

雨の中を、遠ざかっていく背中が。

クロウドは泣かなかった。泣き方を、忘れていたのかもしれない。ただじっと、雨の中で、遠ざかる背中を見ていた。

あの人は、俺を捨てたのではなかった。

そのことだけは、わかっていた。


【三】

孤児院の朝は、早い。

鐘が鳴ると、子供たちが一斉に起き出す。顔を洗って、食堂に並んで、配られたパンを食べる。それから掃除をして、それから祈りを捧げて、それから勉強をする。

クロウドは、その列に並ばなかった。

並べなかった、というほうが正確かもしれない。

食堂に入ると、他の子供たちが、すっと体をずらした。誰も言葉を発しなかった。ただ、気づいたら、クロウドの周りだけ、空間ができていた。

大人たちも同じだった。

目が合うと、視線を逸らした。話しかけても、返事が来ないことが多かった。返事が来ても、それは必要最低限の言葉だった。

悪魔憑き。

顔の左頬から顎にかけて広がる、暗い色の(あざ)。それがクロウドの烙印だった。この世界では、それは忌まれた証だった。悪魔に取り憑かれた者の印。関われば祟られる。近づけば不幸になる。

だから誰も、近づかなかった。

クロウドは、それを不思議なことだと思っていた。

(この痣が、なんだというんだ)

ただの痣だ。痛くもない、痒くもない。ただ、そこにあるだけだ。

でも、この世界では、それだけで十分だった。

10年間、クロウドは孤児院で生きた。殴られたことはなかった。蹴られたこともなかった。ただ——いなかった。透明だった。誰の目にも映らない、空気のような存在だった。

怒鳴られるほうが、まだよかった。

怒鳴られるということは、少なくとも、見えているということだから。

ある朝、クロウドは目が覚めて、しばらく天井を見ていた。薄汚れた天井。染みが三つ。右端のやつが、なんとなく魚に見える。

五年間、毎朝見てきた天井だった。

クロウドは起き上がって、自分の持ち物——ぼろ布を一枚と、小さなナイフと、院の子供が落とした銅貨を一枚——を懐に入れた。

食堂に行った。

いつものように、空間ができた。

クロウドは、その空間の真ん中で立ち止まって、院長の顔を見た。院長は、視線を逸らした。

「……お世話になりました」

クロウドはそう言って、頭を下げた。

誰も、何も言わなかった。

クロウドは扉を開けて、外に出た。

振り返らなかった。


【四】

アッシュタウンの裏通りは、煤けていた。

石畳の隙間に、黒い染みが積もっていた。路地の角に、腐りかけた野菜の残骸。遠くで犬が吠えていた。洗濯物が頭上に張られた細い路地を、クロウドは歩いた。

顔には、ぼろ布を巻いていた。

痣を隠すためだった。隠せば、少しだけ、人の目が違った。少しだけ、だが。

路地の奥に、空き家があった。屋根が半分崩れていて、壁に大きな亀裂が入っていた。誰も住んでいない場所だった。クロウドはそこを、自分の家にした。

交渉した。

家主を探し出して——廃屋の持ち主だという老人を探し出すのに、丸二日かかった——頭を下げた。「住まわせてください」と言った。老人は最初、怪訝な顔をした。でも、クロウドが話し続けると、最終的に「好きにしろ」と言った。

タダだった。

老人に言わせれば「どうせ誰も使わん廃屋だ、ガキ一匹が住んだって何も変わらん」ということだった。でも、クロウドには、それが交渉の最初の勝利だった。

食い物は、市場の端で手に入れた。

売り物にならない傷んだ果物や、くず野菜を、商人たちが捨てる前にもらった。最初は追い払われた。でも、諦めなかった。毎日顔を出した。邪魔にならない場所に立って、ただそこにいた。一週間経つと、一人の商人が「持ってけ」と言いながら傷んだリンゴを投げてきた。

受け取った。

「ありがとうございます」と言った。

次の日も来た。また投げてきた。また受け取った。一ヶ月経つと、三人の商人が、くず野菜をくれるようになっていた。

クロウドは、不思議だと思った。

(なんで俺には、これができるんだろう)

孤児院でも、市場でも、他のストリートチルドレンたちが追い払われる場面を何度も見た。でも、クロウドはなぜか、追い払われなかった。何か特別なことをしているわけでもなかった。ただ、相手の顔を見て、息の吸い方を見て、体の重心がどこにあるかを見て——それから、声をかけた。

それだけだった。

でも、それだけで、なぜか、うまくいった。

(……そういえば、昔)

ふと、頭の中に靄がかかった。

何か、思い出しかけた。声の出し方。間の取り方。沈黙を恐れないこと。相手が断りたくなる前に、次の言葉を出すこと——

(誰かに、言われた気がする。どこかで、覚えた気がする)

でも、靄はすぐに晴れた。

何も、思い出せなかった。


ある日、クロウドに仕事の話が来た。

依頼人は、市場の端で干物を売っている中年の女だった。ケルタという名前だった。目つきが鋭くて、声が大きくて、口が悪かった。でも、クロウドに向かって話しかけた数少ない大人の一人だった。

「あんた、口だけは達者だろ」

ケルタは腕を組みながら言った。

「隣の区画のヤツが、うちのテリトリーに露店を出しやがったんだ。何度言っても退かない。ギルドに訴えても動かない。こっちは費用も払ってる正規の区画なのに、あのクソ野郎が居座りやがって売り上げが半分になった。誰かに話をつけてほしい」

クロウドは聞いた。

「報酬は?」

「銅貨五枚だよ」

「いや十枚」

「ふん・・七枚」

「八枚と、その干物を一本」

ケルタは舌打ちして「……わかったよ」と言った。


クロウドは、侵入者の男のところへ行った。

がっしりした体格の男だった。腕に傷があって、目が据わっていた。元冒険者か、それに近い何かだろうと思った。こういう男は、正面から話しても動かない。面子を潰されると感じた瞬間に、意地になる。

クロウドは、男の隣に立った。

しばらく、黙って市場を見ていた。

男が「なんだ」と言った。クロウドは「いい場所ですね」と言った。男は「そうだろ」と言った。それから少し、表情が緩んだ。

そこから、話した。

男がなぜここに来たのかを聞いた。もともといた区画で何があったのかを聞いた。話を聞くうちに、男が本当に欲しいものが、この場所ではないとわかった。もっと人通りの多い表通りに出たかったが、費用が出せなかった。だから裏口としてここを使っていた。


クロウドはケルタのところへ戻った。

「一つ聞いていいですか。あの男が表通りに移れるよう、費用を半分持つことはできますか」

ケルタは「はぁ?なんでうちがそんな金を」と言った。

「あの男がいなくなれば、あなたの売り上げが戻りますよね。表通りに移れば、あの男の希望通りになります。お互いに得です。費用は、あなたが半分持って、残り半分はギルドへの交渉で免除させます」

「ギルドが免除?んなことするもんかい」

「やってみないとわかりませんよ」

ケルタは三秒、クロウドの顔を見た。

「……あきれた、本当にガキかい」


クロウドはギルドへ行った。受付の男は最初、顔を布で覆った子供が来たことに露骨に顔を顰めた。でもクロウドは怯まなかった。話した。数字を出した。こうなればギルドにとっても利益になると、順番に話した。

最終的に、費用の半額免除が認められた。

男は表通りへ移った。ケルタの区画は空いた。

「……なんなんだい。」

帰り際、ケルタが言った。

「烙印持ちのガキが、なんでこんなことができるだい」

クロウドは銅貨八枚と干物を受け取りながら、笑った。

「さあ」

本当に、わからなかった。

ただ、結果できた。それだけだった。


【五】

夜になると、クロウドは廃屋の崩れた屋根の端に座った。

アッシュタウンの夜は暗い。街灯は少なくて、裏通りはほとんど真っ暗だった。でも、空は広かった。星が、たくさん出ていた。

遠くに、城が見えた。

白い壁が、月明かりを受けてうっすらと光っていた。大きかった。街の向こうに、別の世界があるみたいだった。

クロウドは、その白色を見ながら、干物をかじった。

固かった。でも、美味かった。

(……そういえば)


また、靄がかかった。

煙草の煙。蛍光灯の光。積み上がった書類の山。怒鳴り声と、それでも次の客のところへ向かう足の重さ。

(追い詰められたら、笑え)

誰かに言われた気がした。

どこで言われたのか。誰に言われたのか。思い出せなかった。でも、その言葉だけは、どこかにずっとあった。

クロウドは、自分の左頬に手を当てた。

痣の感触があった。

ただの痣だ。

なのに、この世界では、それだけで十分だった。仕事を断られた。道を空けられた。目を逸らされた。今日の依頼人だって、最後に「烙印持ちのガキが」と言った。

言わせておけばいいことだ。

クロウドは、星を見て。

城を見て。

この街は、灰の街だ。くすんでいて、暗くて、人の嫌がる仕事しか回ってこない。自分から取りにいかないといけない。それでも、今日、飯を食えた。寝る場所だってある。明日も、仕事は取りに行けばいい。

(……灰の街か)

悪くない。

ここから始めりゃいい。

風が吹いた。秋の、少し冷たい風だった。

クロウドは目を細めて、遠くの白い城を見た。

世界は、広い。

まだ、色々ある。

それだけで、今夜は十分だった。

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