第二十五話「一人で、倒す」
【一】
広間に入った瞬間、気配が変わった。
重かった。
空気が重かった。
暗かった。光苔がほとんどない広間だった。でも、目が慣れると、その影が見えた。
広間の奥に、それは立っていた。
三メートルを超える巨体。牛の頭。人間の体。巨大な斧を持っていた。
ミノタウルスだった。
あの時と同じだった。あの時、三人で逃げた相手だった。
クロウドは立ち止まった。
ミノタウルスがこちらを向いた。赤い目が、クロウドを捉えた。
(でかい)
正直に思った。
(でも——)
あの時と違うのは、こちらも変わっていることだった。
ミノタウルスが動いた。
【二】
一歩の踏み込みで、距離が縮んだ。
斧が来た。
線が見えた——大きく、明確な線だった。
横に跳んだ。斧が床を叩いた。石が砕けた。風圧が来た。
(重い。でも——)
火龍の動きと比べると、読みやすかった。
火龍は俊敏で、攻撃が多彩だった。飛沫のような液体ブレスは線でも読めなかった。でもミノタウルスは違った。動きが単調だった。スピードも火龍より劣っていた。
一撃が来るたびに、線がはっきり見えた。
(これなら——戦える)
少し、希望が見えた。
でも、油断はできなかった。
まともに当たれば即死は免れない。それだけの破壊力があった。斧が一度床を叩くたびに、石が砕けて飛び散った。攻撃が当たるたびに、風圧だけで体が揺れた。
絶対に、当たってはいけなかった。
クロウドは右手に剣を持ったまま、左手で懐を探った。
地下で骸から拾っていたものがあった。
煙玉だった。
ミノタウルスが踏み込んできた瞬間——投げた。
白い煙が広間に広がった。
ミノタウルスの動きが乱れた。視界が塞がれて、一瞬だけ戸惑った。
その隙に、クロウドは動いた。
煙の中を駆けた。ミノタウルスの重心の動きは感じ取れた。どこにいるか、わかった。
背後から、剣を脇腹に差し込んだ。
硬かった。外皮が厚かった。でも、力を込めて押し込むと、通った。
ミノタウルスが唸った。
すぐに離れた。
煙が晴れた。
ミノタウルスが振り返った。脇腹から血が滲んでいた。
(効いてる)
【三】
ミノタウルスが激昂した。
さっきより速くなった。怒りで動きが増した。でも、単調さは変わらなかった。
斧が来た。線が見えた。かわした。
また来た。また線が見えた。またかわした。
剣を叩きつけた。外皮に弾かれた。でも、同じ場所に何度も当てると、少しずつ削れていくのがわかった。
次に投げナイフを取り出した。
骸から拾っていたものだった。三本あった。剣を一旦引いて、左手で構えた。
ミノタウルスが踏み込んでくる瞬間——目を狙って投げた。
一本、かすった。
ミノタウルスの動きが一瞬止まった。
その一瞬に、懐に入った。
剣を、脇腹の傷口に深く差し込んだ。
ミノタウルスが大きく仰け反った。
クロウドは後ろに跳んだ。
斧が空を切った。
傷口が広がっていた。
ミノタウルスの動きが鈍くなっていたが、まだ立っていた。
クロウドは息を整えながら、次の手を考えた。
残りの煙玉は一つ。投げナイフは二本。
(このままじゃ深く入らない)
ガルドの長剣が、腰にあった。自分の剣より重く、長さもある。重く振れる分、外皮を突き破る力がある。長さがある分、奥まで届く。
左手でガルドの長剣を抜いた。右手には自分の剣を持ったまま。
ミノタウルスが踏み込んだ。
クロウドは今度は逃げなかった。
線が見えた——斧が右から来る。
半歩だけ右にずれた。斧が肩をかすった。皮が裂けた。痛かった。でも、致命傷ではなかった。
その分、懐に入れた。
右手の剣を、ミノタウルスの顔めがけて投げた。
ミノタウルスが反射的にそちらへ目を向けた。
その一瞬——ガルドの長剣一本に全力を込めて、傷口の深いところに差し込んだ。
力を込めた。全部、込めた。
ミノタウルスが低く唸った。
膝が、折れた。
巨体が、ゆっくりと崩れ落ちた。
石床が、揺れた。
【四】
静寂が戻った。
クロウドは立っていた。
肩が痛かった。血が流れていた。でも、立っていた。
ミノタウルスの骸を見た。
(倒した)
それだけだった。
火龍を倒した時のような、達成感の波はなかった。ただ静かに、やるべきことをやったという感覚があった。
剣を鞘に収めた。
荷物を取りに戻った。通路に置いてきたものを担いだ。魔核の袋。ガルドの日記。火龍の巣。全部、あった。
上を見た。
出口は、この先にあるはずだった。
歩き始めた。
一歩、また一歩。
足が重かった。肩が痛かった。体中が疲れていた。
でも——
(帰れる)
その実感が、じわじわと湧いてきた。
光苔の光が、前を照らしていた。
歩き続けた。
---
どのくらい歩いただろうか。
通路の先に、光が見えた。
光苔ではなかった。
もっと明るい、白い光だった。
松明の光だった。
クロウドは足を止めた。
(誰かいる)
感覚が告げていた。複数の人間がいた。こちらに向かってきていた。
クロウドは剣に手をかけた。
でも——
足音が聞こえた。
人間の足音だった。
「——この先に何かいる」
声が聞こえた。
聞き覚えのある声だった。
クロウドは手を止めた。
松明の光が、近づいてきた。
影が見えた。人影が、複数。
先頭の人影が、立ち止まった。
その人影が、クロウドを見た。
クロウドも、その人影を見た。
「……クレイン」
クレインは動かなかった。
松明の光がクロウドを照らした。傷だらけで、埃まみれで、でも立っていた。
「……クロウド」
震える声だった。
「なぜ、お前がここにいる」
後ろから小さな影が飛び出してきた。
「クロウドっ——!」
ルナだった。
白銀の耳が、ぴんと立っていた。




