第二十話「集中、集中」
【一】
まず、状況を確認しなければならない。
クロウドは立ち上がって、周囲を見回した。
暗かった。でも、完全な暗闇ではなかった。光苔が壁のあちこちに張り付いていて、薄青い光を放っていた。目が慣れてくると、思ったより広い空間にいることがわかった。
天井を見上げた。落ちてきた穴が、遠くに見えた。
(……随分、落ちたな)
先が見えないくらい上にある。よく生きていたものだと、我ながら感心した。
(上には戻れない。今は)
冷静に認めた。
次に、周囲を探索した。
地下空間は、思ったより広がっていた。光苔を頼りに歩くと、通路が複数あることがわかった。ダンジョンの地下層だった。上の階とは別の空間が、ここに広がっていた。
歩きながら、体の状態を確認した。
頭の痛みは、まだあった。でも、昨日より薄れていた。打ち身や擦り傷もあったが、思ったより軽かった。治りが早い——昨日より確実に、傷の具合がよかった。
(これも覚醒の影響か)
そう思った。
しばらく歩いたところで、水の音がした。
音を頼りに進むと、壁の隙間から細い水が流れ出していた。岩を伝って、小さな水溜まりになっていた。
クロウドは水に手をつけた。冷たく、匂いはなかった。
飲んだ。
美味かった。
(よかった。水はある)
次は食料だった。
ダンジョンの地下に食料があるとは思えなかった。でも、モンスターを倒せれば——
その時、足音がした。
【二】
のそのそと、影が現れた。
体長は一メートル半ほど。四足歩行だった。頭が大きく、牙が見えた。毛が短く、皮膚が厚そうだった。目が光っていた。
上の階で見たモンスターとは、明らかに違った。
重さが違った。存在感が違った。一目見ただけで、格が違うとわかった。
クロウドは剣に手をかけた。
モンスターがこちらを向いた。赤い目が、クロウドを捉えた。
低い唸り声が響いた。
(やばい)
正直に思った。
モンスターが踏み込んだ。速かった。大きな体に似合わない速さだった。
クロウドは横に跳んだ。ギリギリだった。爪が空を切った。
着地した瞬間、また来た。
今度は受けようとした。剣で弾こうとした——重すぎた。腕がしびれた。体が吹き飛んだ。
壁に背中が当たった。
(力が違いすぎる)
立ち上がった。膝が震えていた。
モンスターがじりじりと近づいてきた。
体が固まっていた。恐怖だとわかった。でも、わかっていても動かなかった。
(まずい、まずい、まずい——)
頭の中がぐるぐるした。
その時——
記憶の奥から、声が聞こえた気がした。
(追い詰められたら、笑え)
「焦るな俺、集中集中——」
声が出た。自分の声だった。
呼吸を整えた。
目を閉じた。
一秒。二秒。
また開いた。
その瞬間——
頭が、澄んだ。
恐怖が、消えた。
霧が晴れるように、全部がクリアになった。モンスターの動きが、はっきりと見えた。
線が見えた。
今までより鮮明だった。モンスターの重心。次に踏み込む足。爪がどこへ向かうか——全部が、濃い線として浮かび上がった。
時間がゆっくりになった。
体が動いた。
今までと違う動きだった。
足が自然に動いた。道場の板張りの感触が蘇った。打ち込まれた技を何度も受け続けた記憶が、体の中から出てきた。相手の力を受け流す。勢いを利用する。重心を崩す——
モンスターの爪が来た。
体を半歩ずらすと、爪が肩をかすって空を切った。致命傷ではない。
そのまま懐に入り込みながら、剣を脇腹に差し込んだ。
今までとは違う手応えがあった。しっかりと、通っていた。
モンスターが低い声を上げてよろめいたところへ、もう一撃——剣を引いて首筋に当てると、巨体がゆっくりと崩れ落ちた。
【三】
静寂が戻った。
クロウドは荒い息をついた。
肩が痛む。爪に掠られた部分からじわりと血が滲んでいたが、意外に傷は浅かった。
自分の手を見た。
震えていなかった。
(……強くなってる)
はっきりとわかった。
線の見え方が違う。頭の澄み方が違う。体の動き方が違う。全部が、昨日までとは別物だった。
中村正義として生きた日々が——この体に宿っていた力が、全部開いていた。
倒したモンスターを見た。
大きかった。
(……食えるか、これ)
腹が減っていた。
正直に言えば、かなり減っていた。
モンスターを食べた経験はなかった。でも、生き物である以上、肉があるはずだった。
クロウドはしゃがんで、モンスターをじっくりと見た。
動物に似ていた。毛並みはなかったが、四足歩行で、爪があって、牙があった。構造は獣に近い。
クレインに野うさぎの解体を教わった記憶が蘇った。
(やってみるか)
剣を使って、慎重に解体し始めた。
解体していると、思わぬものが出てきた。
体の内側に、丸い石があった。
握りこぶし半分ほどの大きさで、透き通って薄く光っていた。
クロウドは手に取った。
冷たかった。でも、何かが込もっているような感覚があった。重さの割に、妙な存在感があった。
(綺麗だな)
これが何かは、わからなかった。
でも、捨てる理由もなかった。
懐にしまった。
肉は、そのまま食べるわけにはいかなかった。火が必要だった。
火打ち石——クロウドは腰の袋を探った。ソラがくれた回復薬と解毒薬があった。それ以外に、火打ち石が入っていた。出発前にクレインが「必ず持て」と言って入れていたものだった。
(クレイン、ありがとう)
心の中で言った。
光苔を集めた。燃えるかどうかわからなかったが、試してみた。
火がついた。
乾いた岩の上で、小さな火が燃え始めた。
肉を炙った。
焼けるいい匂いがした。
ダンジョンの地下で、一人で肉を焼いていた。状況は最悪だった。でも——
(悪くない)
そう思った。
【四】
固かったが、腹に入れどうにか食べ終わって壁に背中をつけると、静寂が戻ってきた。
上の世界が、遠かった。クレインとルナが、今頃何をしているか——心配しているか、それとも諦めているか。
(……諦めてるかもな)
そう思ったら、また可笑しくなった。
でも——
生きて帰らなければならない。
それは、絶対だった。
クロウドは丸い石を取り出した。薄青い光の中で、それは静かに光っていた。
綺麗だった。
(また倒したら、集めよう)
理由はなかった。ただ、綺麗だから。
それだけだった。
クロウドは立ち上がった。
まだ、ここがどこなのかわからなかった。出口がどこにあるのかもわからなかった。ミノタウルスをどうするかも、まだわからなかった。
でも——
一つだけ、わかっていることがあった。
あのミノタウルスを倒さなければ、外には出られない。
それだけは、確信があった。
(まだ、足りない)
今の自分では、まだ足りない。
もっと強くなる必要があった。
光苔の光を頼りに、クロウドは歩き始めた。
地下の暗闇が、続いていた。




