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第十九話「中村正義の記憶」



【一】


暗闇の中で、何かが見えた。


映像だった。


どこか遠い場所の、映像だった。白黒の画面の中で、人々が走っていた。競技場だった。大きな旗が風に揺れていた。観客が大勢いた。


(なんだ、これは)


クロウドは見ていた。見ている、という感覚だった。


画面の前に、男が座っていた。


四角い箱の中で人が動いていた。テレビだ——という言葉が、どこかから浮かんできた。なぜその言葉を知っているのかはわからなかった。


男は夢中で画面を見ていた。子供だった。七つか八つか。坊主頭で、膝に擦り傷があった。


(あの子は——)


見ていると、子供が振り返った。


顔が見えた。


見覚えのある顔だった。でも、どこで見たのかわからなかった。


「東京オリンピックだ!」


子供が叫んだ。嬉しそうだった。隣に座っていた老人が「静かにしろ」と言いながら、でも目が細くなっていた。


映像が、変わった。




道場だった。


板張りの床。白い胴着。子供たちが並んでいた。


あの子もいた。坊主頭の子だった。今日は胴着を着ていた。先生の前で、正座していた。


「正義、構えろ」


先生が言った。


正義——その名前を聞いた瞬間、クロウドの中で何かが揺れた。


坊主頭の子が立ち上がった。構えた。先生が打ち込んだ。子供は受けた。また打ち込んだ。また受けた。何度も、何度も。


転んだ。立ち上がった。また転んだ。また立ち上がった。


泣いていなかった。


ただ、立ち上がり続けていた。


(あの子は——)


映像が、また変わった。


【二】


今度は大人だった。


スーツを着た男が、街を歩いていた。夜だった。ネオンが光っていた。看板に知らない文字が書いてあった。でも読めた——なぜか読めた。


「銀座」と書いてあった。


男は歩きながら、書類を見ていた。顔が疲れていた。でも、目は前を向いていた。


会社の中に入った。上司が怒鳴っていた。


「中村!あの契約どうなってる!」


男が振り返った。


その顔を見た瞬間——


クロウドは、息を飲んだ。


第一話で見た顔だった。走馬灯の中で見た顔だった。中村正義だった。


(俺だ)


そう思った。


でも、まだ他人を見ているような感覚だった。


正義は上司の怒鳴り声を受けながら、深く頭を下げた。「申し訳ありません、明日には必ず」と言った。頭を下げながら、目だけは前を向いていた。


(折れない目だ)


その目を見た瞬間——


映像が、崩れた。


【三】


気づいたら、そこにいた。


会社の中だった。蛍光灯が白く光っていた。机の前に座っていた。書類が積み上がっていた。


体が——重かった。肩が凝っていた。腰が痛かった。目が乾いていた。


でも、これは——


(俺の体だ)


そう思った瞬間、全部がわかった。


俺は中村正義だ。


昭和の日本で生きた、ただの営業マンだ。


電話が鳴った。体が勝手に受話器を取っていた。


「はい、中村です」


声が出た。日本語だった。でも、自然に出てきた。体が覚えていた。


「例の件、明日の朝一までに——」


「承知しました。必ず」


電話を切った。


書類を見た。数字が並んでいた。読めた。全部読めた。


(そうか。俺はこういうことをしてきたんだ)


記憶が、流れ込んできた。


断られ続けた飛び込み営業。それでも次のドアを叩いた。怒鳴られた。馬鹿にされた。それでも笑った。追い詰められたら笑え——誰かに言われた言葉だったか、自分で決めた言葉だったか、もう覚えていなかった。


でも、その感覚は——体に染み込んでいた。




得意先の社長と向かい合っていた。


社長が言った。「無理だね」


正義は笑った。


「そうおっしゃると思っていました。実は——」


話し始めると、体が動いた。勝手に動いた。相手の目を見た。息の吸い方を見た。体の重心を見た——全部、自然に見えた。


(これが、間だったのか)


そう思った。


ずっと、こうしてきたんだ。意識せずに、ずっと。人の目を見て、心を読んで、場を動かしてきた。


それが——


向こうの世界でも、ずっと使っていたものだったのか。


記憶が、もっと流れ込んできた。


柔道の道場。畳の匂い。汗の匂い。投げられて、投げて、また投げられて。剣道の稽古。竹刀の音。打ち込む時の足の踏み込み。体が全部、覚えていた。


(武術を、子供の頃からやっていたんだ)


そうか。だから体が動いたんだ。


クレインに剣術を教わった時、異様なほど早く馴染んだのも——向こうの世界で体に叩き込んでいたものがあったからか。


全部が、繋がった。




### 【四】


人の目を見た時に込み上げてくるもの——


得意先の担当者が疲れた目をしていた時。ああ、この人は追い詰められているな、と感じた。その感覚は、同情ではなかった。共感だった。


あの孤児院の子供たちの目。透明な無視をしてくる大人たちの目。でも時々、その奥に——本当は関わりたい、という光が見えた。


ケルタの目。最初は値踏みするような目だったが、話すうちに変わった。


クレインの目。人を信じられなくなった男の目。でも、本当は——


全部の記憶と、向こうの世界での記憶が、一つに重なった。


(なんだ、ずっと同じことをしてきたんじゃないか)


生きる場所が変わっても。体が変わっても。名前が変わっても。


人の目を見て、心を読んで、場を動かして、折れずに立っていた。


ずっと、同じことをしてきた。


熱いものが、胸の奥から込み上げてきた。


泣くのかと思った。でも、泣かなかった。


ただ、全部が——腑に落ちた。




意識が、戻ってきた。


暗闇の底。光苔の薄青い光。冷たい石の壁。


クロウドは目を開けた。


頭の痛みは、まだあった。


でも、頭の中は——澄んでいた。


今まで靄がかかっていた部分が、全部晴れていた。


間の眼の意味がわかった。人の心を読む力の意味がわかった。折れない胆力の意味がわかった。体が動きを知っている理由がわかった。


全部——中村正義として生きた日々が、この体に宿っていたものだった。


クロウドは立ち上がった。


壁に手をついた。


足元は暗かった。上への道は見えなかった。一人だった。


でも——


(俺は中村正義でもあり、クロウドでもある)


どちらも、俺だ。


それだけで——十分だった。


暗闇の中で、クロウドは前を向いた。


まず、ここから出なければならない。


生きて、上に戻らなければならない。


クレインとルナが、待っているかもしれない。


(……いや、諦めてるかもな)


そう思ったら、可笑しくなった。


初めて、この暗闇の中で笑った。


歩き始めた。


光苔の光を頼りに、前へ。



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