第十七話「入口の先に」
【一】
街を出ると、道はすぐに山の麓へと続いていた。
石畳が消えて、土道になった。木々が密になってきた。鳥の声が遠くなった。
ルナが先頭を歩いた。慣れた足取りだった。草を踏む音がしなかった。猫族の俊敏性だろうとクロウドは思った。
「この山、名前はあるんですか」
「グレイム山よ。この辺り一帯の山塊の総称ね」ルナは振り返らずに答えた。「獣人族がこの地に来る前から、ずっとここにあった山。古い言葉で『眠れる大地』って意味があるの」
「眠れる大地」
「そう。昔から地面が動くことがある土地なのよ。だから地震も珍しくはないんだけど——」ルナは少し声を落とした。「今回みたいに続くのは、記憶にないわ」
クレインが口を開いた。
「ダンジョンはいつからある」
「古いわよ。街の記録には三百年前から書かれてるけど、それより前からあったと思う。ダンジョンの入口に刻まれた文字が、今の獣人族の言葉より古い書体だから」
「三百年以上、ですか」
「そう。その間、ダンジョンのモンスターが街に出てきたことは一度もなかった。結界があったから」
道が少し急になってきた。足元の石が大きくなった。
「結界はどういう仕組みなんですか」
「詳しくはわからないけど、おばあちゃんが言うには、山の力を使って作られた古い術らしい。維持するのに術者が必要で、代々引き継いできたんだけど——最後の術者が亡くなってから、もう二十年近く経つわ」
「二十年、誰も維持していなかった」
「そう。でも結界はそう簡単には壊れなかった。だから大丈夫だと思っていたんだけど、今回の地震で——」
ルナは足を止めた。
前方に、崩れた木が倒れていた。根元から折れていた。最近のことだとわかった。
「地震ね」ルナはそれを確認してから、迂回した。「この辺りから先は、何度か地割れがあったって聞いてる。気をつけて」
---
### 【二】
一刻ほど歩いた頃、道がさらに険しくなった。
足元に岩が増えてきた。所々、地面が割れていた。細い亀裂が、まるで誰かが引っ張ったように地面を走っていた。
「これが地割れ、ですか」
「そう。先月はここまでなかったんだけど」ルナは地割れを覗き込んだ。「深いわね。底が見えない」
クレインが亀裂の端を踏んだ。地面がわずかに揺れた。
「……足元が脆くなっている」
「気をつけて。踏み外したら終わりよ」
三人は慎重に進んだ。
木々の間から、岩肌が見えてきた。山の地肌だった。そこに、黒い口が開いていた。
ダンジョンの入口だった。
近づくにつれて、空気が変わった。
冷たかった。山の中の冷気ではなかった。もっと、底から来るような冷たさだった。
「……感じる?」ルナが小声で言った。「この空気」
「感じます」
「ダンジョンの中の空気よ。地上とは全然違う。慣れないと気分が悪くなる人もいるわ」
クロウドは深呼吸した。
冷たかったが、吐き気はなかった。
【三】
入口が近づいてきた。
そこで、三人は立ち止まった。
入口の石組みが、崩れていた。右側の壁が半分以上落ちていた。岩が積み重なっていた。地震の爪痕だとわかった。
「先に来た冒険者たちの報告で、入口が崩れているとは聞いてたけど——」ルナは眉間に皺を寄せた。「ここまでひどいとは思わなかったわ」
「中には入れますか」
「入れるけど、気をつけないと。崩れた石が不安定なところがあるから、触らないようにね」
その時だった。
入口の暗闇の中から、音がした。
ずるずると、何かが這う音だった。
三人が構えた。
暗闇から、小さな影が出てきた。
体長は半メートルほどの、芋虫のような生き物だった。目が六つあった。体が薄く光っていた。弱々しい動きだった。
「スライムモスよ」ルナが言った。「ダンジョンの浅い層にいる、一番弱いモンスター。本来なら入口まで出てくることはないんだけど」
「それが出てきている」
「そう。結界が相当弱まってる証拠ね」
クロウドはスライムモスを見た。
弱い、とルナが言った通りだった。動きが緩慢だった。でも——こんな弱いモンスターが外に出てきている。もっと強いモンスターも、いずれ——
クレインがスライムモスを剣の柄で軽く叩いた。スライムモスは小さく弾けて、消えた。
「……あっさりしてますね」
「弱いやつはそんなもんよ。問題は中にいるやつら」
ルナは武器を締めなおした。
「行くわよ。深入りしないで、入口付近の状況確認だけ。何かやばそうなものが来たら即撤退。いい?」
「わかりました」とクロウドは言った。
「わかった」とクレインは言った。
ルナは頷いた。
「じゃあ——」
暗闇に、一歩踏み込んだ。
【四】
中は暗かった。
でも、完全な暗闇ではなかった。壁に何かが光っていた。苔のような、薄青い光を放つ生き物だった。それが壁一面に広がっていて、ぼんやりと道を照らしていた。
「光苔よ」ルナが言った。「ダンジョンの中にしかない植物。これがあるから、松明がなくても少しは見える」
「不思議な光ですね」
「触ったらダメよ。毒があるから」
クロウドは壁から少し離れた。
道は真っ直ぐではなかった。少し歩くと、分岐があった。左と右に分かれていた。
「左は浅い層に続く道。右は深い層に続くけど——」ルナは右の道を見た。「右はここで塞がれてるわ」
崩れた岩が、道を半分塞いでいた。地震の影響だとわかった。
「これが結界の破損箇所ですか」
「多分ね。でも確認するには——」ルナはしばらく考えた。「もう少し奥に入らないといけない。今日のところは左の道だけにしておきましょう」
「わかりました」
三人で左の道を進んだ。
しばらく歩くと、壁に古い文字が刻まれていた。
「これが——さっき言っていた古い書体ですか」
「そう」ルナは文字を見た。「読めない部分もあるけど、大体は結界の仕組みについて書かれてるって、おばあちゃんが言ってた」
クロウドは文字を見た。
細く、丁寧な文字だった。三百年以上前に、誰かがここに刻んだ文字だった。その人間は今はいない。でも、文字は残っていた。
(誰かが、守ろうとしていたんだな)
その人間が守ろうとしたものが、今、壊れかけている。
「今日はここまでにしましょう」ルナが言った。「入口付近の状況は確認できた。崩れた箇所、スライムモスの出現、右の道の封鎖——これをギルドに報告する」
「結界の破損箇所は、次に来た時に確認しますか」
「そうね。今日は初回だから。敵の強さも、道の状態も、まだわからないことが多い。細かくギルドに報告するのも私たちに何かあれば後が続けられるからね。これを何度か繰り返して現状を報告しきればクエスト完了よ」
三人で入口に戻った。
外に出ると、夕日が差していた。
クロウドは振り返って、ダンジョンの入口を見た。
暗い口が、静かに開いていた。
(まだ、始まりだ)
そう思った。




