第二十三章 剣はまだ遠く
朝。
木剣がぶつかる、乾いた音。
「――っ」
マルさんの振り下ろしを受けきれず、
鈍い衝撃が肩に叩き込まれた。
(っつ……)
「お嬢、大丈夫ですか!?」
「……大丈夫、……続けて」
「行きますよ!」
またマルさんの振り下ろし。
私は、かろうじて半身で外す。
風を裂いた木剣が、頬のすぐ横を通り過ぎた。
次は――そのまま来るのか、
それとも一度引くのか。
分からない。
ここは踏み込まず――
半歩だけ後ろへ。
マルさんの下段からの剣がわずかに空を切る。
「……へえ」
マルさんが小さく呟く。
――あれから、三ヶ月。
立合いを横目で見ていたカールの目が少しだけ見開いた。
(ほう、もう逃げ腰じゃないな)
「お嬢……やりますね」
少しだけ間合いが変わる。
次の一撃は、さっきより速い。
「――っ!」
今度は避けきれず、
必死に木剣を合わせて受ける。
重い衝撃が腕に響いた。
(まだ……受けるのが精一杯……!)
「いいですね」
マルさんの目が少しだけ変わる。
踏み込みがさらに鋭くなる。
(来る……!)
振り上げ――
(違う!)
一瞬の違和感。
マルさんの視線が、ほんの一瞬だけ外れる。
足。
重心。
(まずい――)
「そこまでだ」
先生の声が、割り込んだ。
――――
「…避けられるとは思いませんでしたよ」
マルさんが少し驚いたように言った。
「……でも、最後のは……」
「あれは、よくあるフェイントですよ。
さっきの、完全に引っかけるつもりでした」
「俺も思わずムキになっちゃって。
先生に止められましたが」
そう言われて胸の奥がわずかにざわつく。
(……やっぱり、フェイントだったんだ)
「……途中まで見えてはいたな」
一拍置いて続ける。
「だが、遅い」
先生――カール先生が静かに言う。
「まだ粗いが、ちゃんと拾えている」
「逃げるのではなく、間合いを残すようになってきた」
一つ一つ言葉が落ちてくる。
でも――
(……そんなに変わってるのかな)
自分では、まだよく分からない。
――――
「マルキー、さっきのをもう一回頼むよ」
「…分かりました」
「よし、もう一度だ」
先生の声が落ちる。
「……はい」
構え直す。
さっきと同じ距離。
同じはずなのに――少しだけ違って見える。
(視線……足……重心……)
さっき拾えた“何か”をなぞる。
「行きますよ」
踏み込み。
速い。
「――っ!」
(横――違っ!)
上。
体が、追いつかない。
合わせる。
(前に――!)
「遅い」
打ち込まれた木剣が、わずかに競り勝つ。
体勢が崩れる。
「……っ」
踏みとどまるのがやっとだった。
「今のだ」
先生の声。
「見えていても、間に合わなければ意味がない」
一拍。
「……だが悪くない」
「ええ、悪くなかったですよ」
マルさんが微笑みながら言った。
少し嬉しいけど、悔しさも混ざる。
「さ、お昼にしようか」
「はい!」
「待ってました!」
――――
今日は珍しく、お昼まで先生が稽古を見てくれてたから、
お昼ご飯も遅くなった。
私とマルさんは台所へ行き、先生を手伝う。
(今日は何かな?)
「マルキーは、魚の焼き加減を見ていておくれ」
「はい」
「綾子は、これが沸いたら中の魚を取り出して、酒と醤油を足して」
先生はキャベツみたいな漬物を切りながら、そう言った。
「最後にこの海苔を入れるから」
「はい!」
(これ、いりこ出汁だ)
「こういうのも、昔の英雄様が広めたんですよね?」
私は軽い気持ちで先生に聞いてみた。
「……ああ。……そうらしいねぇ……」
味噌の話を聞いた時もそうだったけど、先生の歯切れが悪い。
そのまま私は、それ以上は聞かずに手を動かした。
「綾子、取り出した魚は捨てちゃだめだ」
「えっ…」
「これは後で甘辛く煮詰める」
「はい」
(へー、…佃煮にするんだ)
「無駄は良くない」
先生がまた一拍置く。
「ある物は何でも使う」
「これは剣術でも同じことだ」
「覚えておきなさい」
「はい!」
「ご飯も炊けたようだ。さ、食べよう」
「わーい」
――――
「いただきま~す!」
「いただきます!」
今日も二人の声が揃う。
「んー、今日も美味しい!」
「美味いです」
「そうかい、それは良かった」
少しの間、箸の音だけが静かに続く。
途中、ふと箸をおいた先生が話し始めた。
「綾子、先程の立合いはマルキーが少し先走ったが、もう良い頃合いだろう」
マルさんが苦笑いをする。
「すみません、つい熱くなってしまって」
「構わんよ。あれくらいでなければ、身につかん」
先生は湯呑みに口をつけてから続けた。
「これは、私のご先祖様が言った言葉だ」
その表情が、わずかに引き締まる。
「愚者は武器を振るい、賢者は技を振るう。至高は、ただ相手の心と歩む」
(……難しい)
意味を掴もうとしたけど、うまく形にならない。
「だが、これは表向きの格言でね」
少しだけ間を置いて、
「本当は、こう言ったんだ」
「凡人は剣に縋り、秀才は技に溺れる。だが達人は、ただ相手の心を読む」
私は思わず箸を止めた。
「……心を読む、ですか?」
「そうだ」
先生が穏やかに頷く。
「今日の綾子は、途中まで“見えていた”」
「あれはな、剣を見ていたわけじゃない」
「マルキーの“動こうとする気配”を拾っていたんだ」
(……気配)
さっき感じた、あの違和感が浮かぶ。
「だが、まだ遅い」
「見えてから動いているうちは、間に合わん」
先生は静かに言葉を重ねる。
「読むというのはな、 “来る前に動く”ことだ」
「相手がどう動くかを、先に決めてしまう」
「そのためには――」
少しだけこちらを見る。
「場数だ」
「……やっぱり、それなんですね」
思わず苦笑いが漏れる。
「そうだな」
先生は少しだけ口元を緩めた。
「予測は経験でしか育たん」
「だが安心しなさい。綾子は、もう入口には立っている」
「……はい」
その言葉を噛みしめながら私は、すまし汁を口に運んだ。
私の味付けだけど、美味しい。
食事を終えたあと、私たちは少しだけ身体を休めて――
午後の稽古に備えた。
――――
午後。
日が少し傾き始めた頃、道場の空気がゆるやかに戻ってきていた。
私は木剣を手に取り、軽く握り直す。
「よし、続きをやろうか」
先生の声が静かに落ちる。
そのまま、ふと視線が横に流れた。
「マルキー、ちょっと来なさい」
「はい?」
呼ばれて、マルさんが少しだけ首をかしげたけど、
すぐに表情を引き締めて前に出た。
「……相手、ですか」
「そうだよ。軽くでいい」
先生は、いつもと変わらない調子で木剣を取る。
(……気負ってないのに、なんか違う)
構えた瞬間、空気がほんの少しだけ変わった気がした。
マルさんも何かを感じたのか、ゆっくりと構え直す。
「……胸を借ります」
「来なさい」
短い言葉。
次の瞬間マルさんが踏み込んだ。
午前中よりも、はっきりと速い踏み込み。
(……速い)
思わず息を呑む。
振り下ろし――
「甘い」
先生の木剣が、わずかに動く。
それだけで――
マルさんの剣が外へ流された。
(え……?)
次の瞬間。
先生の木剣が喉元で止まっていた。
「……っ」
マルさんが目を見開く。
「今のは、見えていたかい」
「……いえ」
「そうか」
一度距離が離れる。
もう一度構え直す。
今度は慎重に。
間合いを詰めすぎず、様子を探るように。
(……さっきと違う)
さっきよりも静かだ。
じり、と間合いが動く。
マルさんの足。
重心。
視線。
(来る……?)
踏み込み――
と見せて引く。
(フェイント……!)
次の瞬間、本命の一撃。
「遅い」
先生は、すでにそこにいなかった。
横。
いつの間にか回り込まれ、
軽く、背中に当てられる。
「……参りました」
マルさんが息を吐いた。
「うん。今のは悪くない」
先生は穏やかに頷く。
「だがな」
木剣を肩に乗せるようにして続ける。
「 “見てから”動いているうちは、間に合わん」
静かな声。
でもはっきりと響く。
(……同じこと、言ってる)
午前中の言葉が重なる。
「もっと、先を取れ」
「相手が動く前に、動け」
「……はい」
マルさんが小さく頭を下げる。
―――
そのやり取りを私は、少し離れた場所で見ていた。
(……すごい)
さっきのやり取り。
ほとんど何が起きたのか分からなかった。
(鮮やかすぎて参考にならない……)
でも――
(足……?)
先生の動きは大きくない。
なのに、位置がずれている。
(それに……間合い)
近いはずなのに、届かない。
遠いはずなのに、当たる。
(……何が違うの?)
分からない。
でも、目が離せなかった。
心の内に、何か込み上げて来るものがあった。
(……あれに、近づきたい)
気づけば木剣を握る手に力が入っていた。
――――
「……綾子」
先生の声に私は、はっと顔を上げた。
「次は、お前さんだ」
「……はい」
胸の奥が少しだけざわつく。
さっきのやり取りが、まだ頭に残っている。
(……やるしかない)
私は木剣を構えた。
「マルキー、相手をしてやりなさい」
「はい」
マルさんもすぐに構える。
さっきまでとは少し違う。
どこか静かだ。
「行きますよ」
踏み込み。
(来る……!)
さっき見た動きが頭をよぎる。
足。
重心。
視線。
(……ここ!)
半歩ずらす。
木剣が肩口をかすめた。
(避けた……!)
ほんの一瞬、そう思った次の瞬間。
「甘い」
鈍い衝撃。
脇腹に、重い一撃が入る。
「――っ!」
息が、詰まる。
(まだ……!)
踏みとどまる。
「続けますよ!」
二撃、三撃。
受ける。
流す。
間に合わない。
当たる。
腕。
肩。
足。
鈍い衝撃が積み重なっていく。
(痛ったっ……!)
それでも。
(……まだ、動ける)
私は木剣を握り直した。
―――
「そこまでだ」
先生の声で動きが止まる。
「……ふぅ……」
(……息は、上がってない)
身体に手を当てる。
確かに当たっている。
痛みもある。
でも。
(動ける……?)
それが妙に引っかかった。
―――
「マルキー、ご苦労さん」
「いえ……」
マルさんも少しだけ息を吐いている。
「しかし、マルキーは遠慮がないな」
先生が少しだけ笑みを浮かべる。
マルさんは苦笑いを返した。
「いや、悪くない。痛みに耐えるのも修行だ」
「綾子」
呼ばれて顔を上げる。
先生の視線が私に向けられていた。
「今の、どう感じた」
「……まだ全然です」
正直に答える。
「見えても間に合わなくて……」
「そうだな」
静かな頷き。
先生のその目が――
ほんの一瞬だけ、私の腕と足をなぞった。
「……ふむ」
小さく呟く。
(……?)
何かを考えているような顔。
先生は、それ以上は何も言わなかった。
「それでいい」
いつもの調子に戻る。
「繰り返せ」
「はい」
―――
少しの休憩を挟んだ後、
先生がゆっくりと立ち上がる。
「……さて、綾子」
「少し、相手をしてやろうか」
空気が変わる。
マルさんが、わずかに表情を引き締めた。
(……来た)
先生とマルさんの立合いを思い返す。
「来なさい」
穏やかな声。
でも――
逃げ場はない。
「……はい」
私は一歩踏み込んだ。
その瞬間。
「遅い」
視界が揺れる。
気づいたときには、
木剣が喉元で止まっていた。
「……っ」
息が止まる。
何も見えなかった。
「今のが、差だ」
先生の声が静かに落ちる。
木剣が下がり、距離が戻る。
「どうにもならんでいい」
「最初は、皆そうだ」
そのままこちらを見る。
「だがな」
ほんの少しだけ、口元が緩む。
「わしの立合いに慣れろ」
「間合い、癖、全部覚えろ」
「それが、そのまま“対人”の基準になる」
一歩踏み出す。
「来い」
「何度でもやってやる」
その言葉に、胸の奥がわずかに熱くなる。
(……強い)
(でも――)
木剣を握り直す。
「……お願いします!」
私は、もう一度踏み込んだ。
――――
数え切れない立合いの後。
「……今日はここまでにしよう」
先生の声が落ちたとき、
私は、ようやく力を抜いた。
(……全然、分からなかった)
何度踏み込んでも、
何もさせてもらえなかった。
いつもは寸止めしてくれてた先生が、
今日は何度か当ててきた。
「どうだ、綾子」
先生の声に顔を上げる。
「……さっぱり、です」
正直に答えると、
先生は、わずかに口元を緩めた。
「それでいい」
短い言葉。
「最初から分かるなら、誰も苦労せん」
一拍置いて。
「だが、悪くなかった」
「……え?」
思わず声が漏れる。
「ちゃんと拾っている」
「続けなさい」
それだけ言って、先生は視線を外した。
(……拾ってる?)
自分では何も出来ていない気がする。
それでも――
(……少しは成長してるのかな)
よく分からないまま、私は小さく頷いた。
「明日明後日はお休みだったね」
「はい」
「気をつけてお帰り」
「はい!ありがとうございました」
最近は立合いが多くて、
4着目の古着は、まだそれほど汚れていない。
あの視線がないのを少しだけ物足りなく感じながら、帰路につく。
―――――――――――――――――――
宿へ戻ると、どっと疲れが押し寄せた。
(体は疲れてないけど、疲れてる……)
部屋に戻り、着替えようとして、
ふと、胸元に手が触れる。
白銀の宝石。
ランプの光を受けて静かに揺れていた。
(……白銀様)
その輝きを、ほんの少しだけ見つめる。
―――
食堂で夕食を取る。
マルさんはもう食べ終わる直前だった。
「今日は疲れましたね、お嬢」
「ええ、そうね」
「何もさせてもらえなかったけど、
格が違いすぎて、悔しさも湧いてこない」
「そんなもんですよ。ありゃ化け物ですよ」
食べ終えたマルさんが私を見る。
「…で、お嬢、明日は何時からお出かけですか?」
「明日は10時ぐらいにしよっか」
「分かりました。じゃ俺はもう寝ますね」
「分かった。おやすみ」
私は夕食をゆっくりと食べて、部屋へ戻った。
布団に入って目を瞑ると、
ふと、今日の言葉が浮かんだ。
――凡人は剣に縋り、秀才は技に溺れる。だが達人は、ただ相手の心を読む。
(……心を読む)
まだ全然分からない。
今日だって、何も出来なかった。
それでも――
(入口には、立ってる……んだよね)
確かめるように、胸の奥で呟く。
静かに目を閉じ、明日のことを思い浮かべる。
(……あの店と、あそこの店……)
そのまま、私の意識は、ゆっくりと沈んでいった。
第二十三章 終わり




