第二十章 生きるための選択
私――綾子は四日間、宿から一歩も出られなかった。
朝。
ベッドから体を起こすと、まだ少しだけお腹に重みを感じたが、
昨日よりはずっと楽だった。
窓から差し込む光が、今の私には眩しく感じる。
(よし、今日こそ……行こう)
食堂に下りると、マルさん――マルキーがすでに座っていた。
「おはようございます、お嬢」
「おはよう」
私は小さく微笑む。
まだ少しふらつく体を支えながら、簡単な朝食を口に運ぶ。
パンをかじり、スープを少し飲む。味は淡い。
それでも、胃に入ると少しずつ元気が戻るのを感じた。
「体調は大丈夫ですか?」
マルさんの声に、私は頷く。
「うん、あの薬、よく効いたわ。
それでね、そろそろ、剣の先生に……」
言葉に迷いが混じる。
少し緊張している自分に気づいた。
――でも、もう決めた。
食事を終えると、二人で宿を出た。
街の通りを歩きながら、私の心が少しずつ高鳴る。
(本当に、この住所の人が、剣を教えてくれるのかな……)
不安と期待が入り混じる。
マルさんが隣を歩いてくれるだけで、少し安心した。
――――――――――――――――――――
「お嬢、あそこですね」
やがて、住所を頼りに辿り着いたのは、
どこか日本の風情を感じる、木造の建物だった。
(……この街で、この雰囲気…)
門の前では、白髪のおじいさんが黙々と掃き掃除をしている。
(使用人さんなのかな?)
「おはようございます」
「はい、おはよう。いい朝だねぇ」
おじいさんは穏やかにそう返した。
「ええ、本当に」
綾子は軽く会釈しながら、
「あの……オルベインさんの紹介で来ました」
声をかけると、おじいさんは顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「そうですか。それでは、こちらへどうぞ」
(優しそうなおじいちゃん……)
縁側へ案内されると、おじいさんはその場で、静かに頭を下げた。
「カール・クレイゲンと申します」
穏やかな仕草に、私は思わず目を瞬く。
(え……この人が……?)
「私は、…綾子と申します」
「俺はマルキー・マルテンです」
少しだけ声は震えたけれど、はっきりと名乗った。
マルさんも続くように、名前を告げた。
「では、お話を聞きましょう」
そう言われ、私は剣を習いたい理由を口にした。
話している間、カールさんの目は柔らかかった。
でも、
言葉を言い終える頃には、その表情が少しずつ険しくなっていく。
「……なるほど」
カールさんは、そう一言だけ呟いた。
それから、道場の棚へ歩き、木剣を二本取る。
一本を私の前に差し出した。
「お前さんの覚悟――
それが何なのか、わしが見てやろう」
「先生、お嬢はまだ――」
「構えなさい」
短い一言で、
マルキーの言葉は途中で止まった。
カールは、綾子の足元をちらりと見た。
(逃げ腰か――)
私は、見よう見まねで木剣を構えた。
力の入らない腕。
不格好な足運び。
それを見たカールさんは、
ほんの一瞬、眉をひそめただけだった。
次の瞬間。
木剣が、軽く薙がれる。
「……なんだ、それは」
一撃。
また一撃。
「甘いな」
木剣が当たる。
痛みが、腕に、肩に、残る。
「街の娘のほうが、まだ必死だ」
私は防ぐので精一杯だった。
それでも――
手加減されているのは、分かる。
「……死にたくない、か」
カールさんは木剣を構えたまま言った。
「そんな言葉はな、
死ぬ寸前じゃ、役に立たん」
木剣がさらに重くなる。
「そうなる前に、動け」
「逃げろ」
「あがけ」
「生きたいならな」
間を置いて、
カールさんは静かに続けた。
「人を斬るやつは――
相手のことなんぞ、考えちゃいない」
木剣が、また当たる。
「向こうは、斬るだけだ」
声と衝撃に、私はたじろいだ。
視界がじわりと滲む。
――それでも。
心の奥で、
何かが、静かに灯った。
(……死にたくない)
(……痛いのも、嫌)
綾子は、涙を流しながら、渾身の力で木剣を横に薙いだ。
乾いた音が、道場に響く。
カールの木剣が、真っ二つに折れた。
折れた先が、床へ転がる。
綾子の木剣は――
カールの鼻先を、かすめていた。
「……面白い」
カールは、折れた剣を見つめながら呟いた。
「私は、死にたくないです……生きたいです……」
その声に、
カールは、にやりと笑みを浮かべ、肩の力を少し緩めた。
「そうだよ、それでいい」
「立派な理由だ」
そう言うと、ほんの一拍置いた。
「……それが、お前さんの覚悟だ」
張りつめていた空気が、ふっと緩む。
彼の物腰は、
いつの間にか、最初に見せた穏やかさに戻っていた。
横で見ていたマルキーも、静かに息を吐いた。
「満足するまで、好きなだけ泣きなさい」
そう言って、少しだけ視線を外す。
「すっきりしたら、道場に上がっておいで」
私は言われた通り、しばらく泣き続けた。
――たくさん泣いたせいか。
それとも、
胸の奥に溜まっていたものが流れ落ちたせいか。
気がつくと、頭の中は不思議と澄んでいた。
立ち上がって、大きく息を吸う。
道場に上がると、カールさんは何も言わずに手招きする。
お茶とお菓子を用意してくれていた。
(……これ日本茶だ。……美味しい)
「すっきりしたかね」
「……はい」
「それは良かった」
少しだけ、安心したように頷く。
マルさんも微笑んでいた。
「このまま帰ってしまうのかと、少し心配したよ」
(……おじいちゃんに戻ってる)
「悪かったね。怖い思いをさせて」
一拍、間を置いてから。
「……少し、お前さんを見ておきたかったんだ」
「はい」
「さ、お菓子もお食べ」
そう促され、私は遠慮なく手を伸ばした。
(塩味のクッキー……美味しい)
カールさんの目は、さっきまでとは別人みたいに柔らかい。
「稽古は、明日からにしようか」
「はい!」
「うん、いい返事だ。好きな時間に来なさい」
少し口元を緩めて。
「わしは、いつでもここに居る」
「はい!」
「明日からは、厳しいと思うかもしれない」
でも、その声はもう、怒鳴るようなものじゃなかった。
「……それでも、やってみなさい」
「はい! 明日からお願いします!」
私たちはカール“先生”に見送られて、道場を後にした。
(……稽古は、明日から)
心の奥で、何かが静かに、確かな形を持った。
私はこの人に剣を教わる。
そう、はっきりと思えた。
――――――――――――――――――――
「お嬢、この後、どうします?」
マルさんが私を気づかって声をかけてくれた。
「…うん、少し街を歩いてから、宿に戻りたい」
「いいですよ、じゃあ、ぶらぶらしましょう」
私たちは道場の余韻を感じながら、商店街を歩いた。
屋台でホットドッグみたいなものを買って、お昼ご飯にする。
食べながら歩くと、ちょっと元気が戻った気がした。
ふと、小さな出店に目が留まった。
色々なアクセサリーが並ぶ中で、貝殻のペンダントが目に入る。
一つの貝が光を受けて、ほんのり輝いていた。
(そうだ、白銀様の宝石……)
そんなことを考え、微かに口元が緩む。
―――
宿に戻ると、指輪ができたとの知らせが入っていた。
「マルさん、すぐ行こう!」
「はいはい、お供しますよ」
私たちは急ぎ足でディルさんのお店に向かった。
――――――――――――――――――――
お店に着くと、店員さんは、さっと案内してくれた。
奥の部屋でディルさんが迎えてくれた。
「ようこそ、早かったですね。先程知らせを走らせたばかりなのに…」
「はい、お願いしたいこともあって、急いで伺いました」
「あと、カール先生へのご紹介、ありがとうございます」
ディルさんは優しく頷いてくれる。
そして、完成した指輪を見せてくれた。
その指輪は、青みがかっていて黒く、虹色の光沢を放っている。
手に取ると、ずっしりと重い。
爪で弾くと、硬い音を立てる。
ディルさんが説明してくれる。
「どうです、うちが抱える最高の細工職人が、
秘伝の配合で、丹精込めて作った傑作の指輪ですよ」
「銀とか金じゃないだ……」
マルさんが不思議そうな顔で尋ねる。
(うん、なんでだろう……)
ディルさんは、マルさんと私を見ながら答えてくれた。
「金や銀だと、すぐ削れてしまいますからね。
あんなもの、何も分からない成り上がりの飾りですよ」
話は続く。
「商会の信用を保つためと、偽造防止も兼ねてます。
うちのお客様には、全員、これをお渡ししていますよ」
「削れないって、そういう意味か……」
マルさんが、納得した顔をする。
(へぇ…削れないんだ…)
私は、ディルさんの言葉と、
指輪の模様の確かさや色合いが気に入った。
「あのう、この宝石も、同じ感じでお願いしたいです」
「これは……」
白銀色の宝石を見たディルさんは、驚いていた。
「ペンダントにしたいです。作りは、職人さんにお任せします」
「……分かりました」
少し戸惑っていたけど、引き受けてくれた。
「お願いします」
お願いを聞いてもらえて、私は、ほっとした。
そして指輪を受け取る。
「あの…、お代の方は……」
「無料ですよ。
私共も、綾子さんから預かってるお金を運用しますからね」
「でも、ペンダントのお代は、きっちり戴きますからね」
ディルさんは、にっこりとして頷いた。
私は、少しだけ身がすくんだ。
(いくらぐらい、かかるんだろう)
忙しい中で会ってくれたディルさんにお礼を言い、
私たちはお店を出た。
――――――――――――――――――――
「マルさん、今日はもう帰ろう。明日に備えたい」
「お疲れでしょうし、それが良いですね」
私たちは、ゆっくりと宿屋に戻った。
部屋で一息ついたあと、食堂で簡単に晩ご飯を食べる。
そのまま部屋に戻った。
(今日も、いろいろあったな……)
布団に入り、天井を見つめながら、私は明日からの稽古を思う。
(私は……生きるために、剣を学ぶんだ)
覚悟はまだ中途半端かもしれない。
それでも、
最初の一歩を踏み出した実感が、私の体と心を確かに巡っていた。
(少しずつでも、前に進めている……)
静かに瞼を閉じ、私は眠った。
明日からの道が、少しずつ開けている気がした。
夜の静けさが、私をそっと包み込んだ。
第二十章 終わり




