第十七章 覚悟の話、手段の話
朝、目が覚めた瞬間、綾子は小さく息を吐いた。
(……お腹、重い)
鈍い痛みが下腹に居座っている。
頭もぼんやりして、布団から出る気になれない。
それでも何とか身支度を整えて、食堂へ向かった。
すでにマルキーは朝食を取っていた。
「おはようございます、お嬢」
「……おはよう」
椅子に座った綾子の顔を、マルキーがちらりと見る。
「どうしました? 今日は元気がないですね」
「うん……お腹が痛いの」
「腹でも下しましたか?」
その瞬間、綾子のこめかみがぴくりと動いた。
言い返しそうになって、ぐっと飲み込む。
「……ううん、違うの。頭も痛い」
「そうですか。風邪でも引きましたかね」
綾子は小さく首を振った。
説明する気にはなれなかった。
朝食はほとんど喉を通らず、スープを少しだけ飲む。
「今日はあんまり歩けそうにないの。マルさん、一人で行ってきて」
「そうですか。では、薬でも買ってきましょうか?」
「ありがとう。でも、ゆっくりしてきて」
マルキーは少し迷うような顔をしたが、やがて頷いた。
「分かりました。無理はしないで下さい」
――――
綾子はパンを持って部屋へ戻り、そのままベッドに倒れ込んだ。
「ふぅ……」
天井を見つめたまま、しばらく動けない。
綾子は、ぼんやりと天井を眺めたまま考える。
(体もだるいし……頭もぼんやりする……)
(こうなると、やっぱり弱気になっちゃうな……)
胸の奥で、いつもなら押し込めている不安が、体の重さに乗じて少しだけ顔を出す。
頭も心も重くて、何も考えたくなくなる。
(もう戻れないけど……元の世界に戻りたいかって言われたら)
少し考えてから、首を横に振った。
お金を出せば、大抵の物は手に入った。
スマホも、お風呂も、恋しくないと言えば嘘になる。
便利な物はいくらでも思い浮かぶ。
高校時代の友人、会社の同僚。
当たり前のように交わしていた他愛のない会話。
放課後や仕事帰りに何気なく寄った店やアウトレット。
それと――よく通った、あのラーメン屋さん。
思い出せば、いくらでも浮かんでくる。
それでも。
(あそこに、私の居場所があったかって言われたら……)
言葉が続かなかった。
白銀様のお陰で、お金には困らない。
衣食住も、今のところ何とかなっている。
それでも。
(……この世界で、生きていけるのかな)
胸の奥に、ぼんやりとした不安が残っていた。
やがて、部屋の隅に置かれた剣が目に入った。
(剣が必要……)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
(包丁くらいしか持ったことないのに……)
(あんな重くて長いの、使えるのかな……)
目を閉じると、昨日の光景が蘇る。
血。
倒れた人。
衛兵が来ても暴れ続けた男。
(今は、街を一人で歩くのも怖い……)
(こんなんじゃ、旅にも出られない……)
胸の奥が、きゅっと縮む。
(自信が欲しい……)
でも、すぐに別の考えが頭をもたげる。
(剣は、人を斬るための道具……)
(それでも、身を守るには必要……)
(護りの剣って……何?)
答えは出ない。
出ないまま、綾子はいつの間にか浅い眠りに落ちていた。
――――――――――――――――――――
その頃、マルキーは一人、街を歩いていた。
港に近い屋台に腰を下ろし、
海老や貝の串焼きを頬張りながら、朝からエールを傾ける。
潮の匂いと、焼けた殻の香ばしさ。
喉を通るエールは、少し苦くて、やけに旨い。
(……久しぶりだな、こんな朝は)
少し前までなら、こんな朝は考えられなかった。
盗賊に身を落とし、
どうせこのまま、どこかで野垂れ死ぬのだろうと
半ば覚悟していた。
そのうえ、今は――
ドラゴンに命を握られている身だ。
普通に考えれば、
とんでもない人生だろう。
それなのに。
(……まあ、悪くない)
口の端が、少しだけ上がる。
あのドラゴンが庇護している娘だ。
普通の娘じゃないのは、間違いない。
昔の英雄様もそんな感じだったらしいが。
その世話役に収まるとは、
人生、分からないものだ。
少なくとも、
先週よりはマシな明日を考えている。
それだけでも、上出来だ。
ほろ酔い気分で立ち上がり、
人の流れに身を任せるように歩く。
昼前には、別の屋台に入り、
また串焼きと、焼き魚を頼む。
気付けばエールも五杯目だった。
店主や居合わせた客と、雑談を交わしながら過ごす。
通りをぼんやり眺めているだけでも、気が紛れた。
ふと、綾子の顔が浮かぶ。
「……あ」
思い出したように立ち上がる。
(薬、買わなきゃだったな)
(……まあ、急ぎって顔でもなかったが)
――――
エールの余韻を引きずりつつ、
屋台を後にして歩き出した、その時だった。
「おう、久しぶりだな、マルキー」
低く、張りのある声。
振り向くと、
そこには虎の獣人が立っていた。
「おぉ……バグラムじゃないか」
バグラムは、にやりと笑い、
鼻をひくひくと鳴らす。
「串焼きとエールの匂いがするな」
「……分かるか」
「分かるさ。
それに、羽振りも良さそうだな。いい服着てるじゃねぇか」
「まぁ……」
マルキーは肩をすくめる。
「色々あってな」
その様子を見て、
バグラムは豪快に笑い、マルキーの肩をばんばんと叩いた。
「そうかそうか」
ひとしきり笑った後、
マルキーが聞く。
「こんな時間に珍しいな。仕事は暇なのかい?」
「いやいや、今は若い衆がやってくれるからな。
俺は事務方だよ」
「おぉ……出世したなぁ」
「そうでもねーよ」
そう言って、バグラムは肩をすくめる。
「っと、もう行かなきゃならねぇ」
「俺もだ」
「じゃあ、またな」
「おう、またな」
短いやり取り。
それで十分だった。
マルキーは再び歩き出し、
ほどなく薬屋に辿り着く。
―――
店主に、
綾子の様子を、できるだけ簡単に伝える。
話を聞き終える前に店主は、
マルキーの顔を見つめ、
ほんの少しだけ、目を細めた。
「……これを」
差し出されたのは、小さな瓶だった。
中身を確かめることもなく、
マルキーは受け取る。
「良く効く」
それだけ。
マルキーは何も聞かず、
銀貨を置いた。
店を出てから、
ふと立ち止まり、振り返る。
「効くのか?…これ」
そう呟いてから、宿屋へと戻った。
――――――――――――――――――――
夕方、喉の渇きで目を覚ました綾子は、ふらりと食堂へ降りた。
そこには、見慣れた顔があった。
「これは綾子さん。今日はお休みですか」
ディルが、お茶を飲みながら微笑んでいる。
「……はい」
声に力がないのを、自分でも感じた。
「気分が優れませんか、良ろしければ、少しお話でもしませんか」
綾子は迷ってから、頷いた。
昨日の乱闘の話、今の思いをディルに話す。
「……それで……」
「…剣を……学んだ方がいいのかなって、思ってて」
ディルは何も言わず、続きを促す。
「でも……人を斬るのは、嫌で……」
「それでも、持たないと駄目なのかなって……」
しばらく沈黙が落ちた。
「なるほど、剣を持ちたくない、でも必要なのは分かると…」
ディルが、静かに言った。
そこへ、扉が開く。
「お嬢、薬を買ってきました」
マルキーが戻ってきて、綾子の顔を見ると、何かを察したように目を細めた。
「飲んで下さい。良く効くそうです」
言われるまま、綾子は薬をお茶で飲んだ。
「……何の話をしてたんですか?」
ディルが軽く説明すると、マルキーは頷いた。
「なるほど。剣を持つかどうか、ですか」
「別に、大層な理由なんて要らないと思いますがね」
「剣は振らなくても、構えを知ってるだけで違いますよ」
綾子が顔を上げる。
「構え……?」
「それに、逃げる時の足の運びも、剣ですよ」
ディルが、二人を見比べて口を開く。
「綾子さんは、覚悟の話をしていますね」
「マルキーは手段の話をしている」
「覚悟は、先に決めなくていいんです」
綾子は、ゆっくりと瞬きをした。
「剣を学びながら、考えればいい」
マルキーも、頷く。
「身を守りたいってだけでも、充分覚悟だと思いますよ」
綾子が二人を見る。
「……全部、決めなくてもいいんだ」
「ええ」
ディルは微笑んだ。
「そういうことなら……心当たりがあります」
「落ちぶれてはいますが、技術は保証しますよ」
「宜しければ、一度会ってみませんか?」
綾子は、小さく息を吸った。
「……会ってみたいです」
「分かりました。では、住所をマルキーに渡しておきます」
「……ありがとうございます」
今はまだ、身体も心も追いついていない。
体調が戻ったら、一度会ってみたい。
そう思えただけで、今日は充分だった。
自分の足で進む最初の一歩になる――そんな気がした。
部屋に戻ると、毛布がもう一枚置いてあった。
その夜、綾子は久しぶりに、少しだけ深く眠った。
第十七章 終わり




