第十六章① 印章の指輪と、昼のラーメン
朝の光が部屋の窓から差し込む。
綾子はこの世界に来て、初めて落ち着いた朝を迎えた。
宿屋の食堂に行くと、簡単な朝食が並んでいた。
席につき、ゆっくりとパンを手に取る。
「……あの、マルさん」
声をかけると、向かいに座るマルキーがにっこりと笑った。
「どうしました、お嬢?」
綾子は少し恥ずかしそうに、でも真剣な目で訊ねた。
「ディルさんが言ってた印章って、どういう物なの?」
マルキーは食べながら、説明を始める。
「お嬢が受け取った預かり証でも、金貨は引き出せますが、
印章があれば、同じことが出来るんです」
「紙だと、濡れたり破れたりしますんで。
代わりに印章を指輪にして、持ち歩きます」
「…ふんふん」
(印鑑とキャッシュカードが、一緒になった感じなのかな…)
「その指輪って、名前とか入れるの?」
「ほとんどが、家紋とか分かり易い紋様ですかね。
俺も持ったことがないんで、ディルに聞いた方が」
「ふ~ん、…じゃあ白銀様の紋様を入れたい」
マルキーは一瞬だけむせる。
そして、俯いて額に手をやり、冷や汗を浮かべたまま口を開く。
「お嬢の決めた事ですから、口出ししませんが、
……本当にいいんですね?」
「うん、どうしても白銀様がいい」
「……分かりました。
食べ終わったら、ディルの店に行きましょう。
お嬢は、紋様を考えておいて下さいね」
(白銀様のデザイン……)
(牙……翼……目……。
どれも格好いいけど、指輪にするなら――)
オルベイン商会に向かおうとする二人。
綾子が足を止めた。
「ちょっと待って……忘れ物した」
「はいはい、店の外で待ってますね」
マルキーは慣れた様子で店の外に立ち、
行き交う人々を眺めていた。
そうして、二人は朝の港町を歩き始めた。
――――――――――――――――――――
オルベイン商会に着いた二人は、そのまま店内へ入った。
昨日と同じ店員が一瞬こちらを見て、何も言わずに頭を下げる。
(……顔、覚えられてる)
綾子は少しだけ背筋を伸ばした。
「あのー、ディルさん、いますか?」
声をかけると、店員は静かに頷き、二人を奥の部屋へ案内する。
扉の向こうから、書類を手にしたディルが現れた。
昨日よりも、どこか仕事の顔をしている。
「ようこそ綾子さん。今日はどうしました?」
「あの……印章の指輪を、作ってほしいんです」
その言葉に、マルキーが一歩近づき、ディルに小声で耳打ちする。
内容を聞いたディルは、すぐには返事をせず、視線を落とした。
一瞬の沈黙。
それから、ゆっくりと顔を上げ、綾子を見た。
「……本当にいいんですね?」
(……今日は、ちょっと怖い顔してる……)
綾子とマルキーは、顔を見合わせてから、静かに頷いた。
「分かりました。では、細工職人を呼びましょう。
彼が来るまで、こちらでゆっくりしていって下さい」
出されたお茶に口を付けて、綾子は小さく息を吐く。
(昨日は、分からなかったけど……このお茶、美味しい)
その後、綾子は羊皮紙に向かい、慣れない手でドラゴンの絵を描いた。
細工職人と細かな打ち合わせを終える頃には、すっかり昼前になっていた。
「では、よろしくお願いします」
「ええ。完成したら宿に知らせを送りますよ。
よければ、こちらからお持ちしますが?」
「……いえ、取りに伺います」
一瞬だけ、ディルの口元が緩む。
(若いのに、ちゃんとしている)
「分かりました。では、その時をお待ちしています」
二人は一礼し、オルベイン商会を後にした。
――――――――――――――――――――
マルキーは通りを歩きながら、綾子の様子を横目で窺った。
商会を出てからというもの、どこか落ち着きがない。
「昼食にはいい時間です。お嬢は何が食べたいですか?」
「ラーメン!」
即答だった。
「……やけに気合入ってますね」
「ラーメン……食べたい」
今度は、ぎゅっと拳を握っての宣言だった。
「分かりました。では行きましょう」
その返事を待っていたかのように、綾子の足取りが一気に速くなる。
「お嬢、そんなに急がなくても……」
返事はない。
完全に、頭の中はラーメン一色らしい。
マルキーの背中を押しながら、足早に店へと向かう。
案内された店は、港町らしく海鮮料理を看板に掲げていた。
中はそれなりに賑わっており、昼時なのがよく分かる。
席に着くと、店員が湯気の立つお茶を運んできた。
綾子はそれを一口飲み――小さく目を瞬かせる。
(番茶?…ウーロン茶? っぽい……)
(それに……ちゃんと箸があるのね)
ほっとしたのも束の間。
「おすすめのラーメン下さい!」
勢いそのままに注文を通す。
「……お嬢、まだメニュー見てませんが」
「ラーメンなら大丈夫!」
その自信はどこから来るのか。
マルキーは何も言えず、黙って同じ物を頼んだ。
待っている間、綾子は落ち着かず、きょろきょろと店内を見回す。
そして、ふと思い出したように、いつもの“儀式”を始めた。
ヘアゴムの代わりに紐で髪を束ね、
前髪は目立つ大きなヘアピン2個でしっかり留める。
「よし……!」
満足げに頷く綾子を見て、マルキーは思わず眉をひそめた。
「お嬢、その格好で食べるんですか?」
「だって、髪の毛がスープに付いたら嫌でしょ?」
正論だった。
マルキーは苦笑するしかない。
やがて、湯気と共にラーメンが運ばれてくる。
ふわりと立ち上るのは、魚介の濃い香りと、
それを引き締めるような醤油の匂い。
「わぁ……美味しそう!」
綾子は迷いなく箸を取り、
麺をひと口分つまんで、器に口を付ける。
ずるずる、と遠慮のない音。
「……豪快ですね」
「んー……美味しい!」
マルキーの声など、もう耳に入っていない。
「魚介の出汁がすごく効いてるわ……
それに、…これは醤油なのかしら? …甘みも感じる」
「それは良かったです」
「麺は知ってるのとちょっと違うけど……太めで…これはこれで好き」
その笑顔に、マルキーは気付けば微笑んでいた。
「あー、美味しかったぁ!」
気付けば、綾子はもう完食している。
まだ半分ほど残っている自分の器を見て、マルキーは目を丸くした。
余韻に浸りながら、綾子は紐とヘアピンを外す。
(……髪、ギシギシ……)
「ねぇ、シャンプーとかリンスって売ってる?」
「……何ですか、それは」
「髪の毛を洗う物と、サラサラ艶々にするやつ」
「……ああ、洗髪薬ですか」
「それそれ!」
「それと、櫛!」
「櫛なら、そこらの屋台でもあります」
「あと、タオルも欲しい」
「……たおる?」
「体洗ったり、拭いたりする布!」
「皆、ボロ布で済ませてますが……」
「やだ、ちゃんとしたのが欲しい」
即答だった。
「あるか分かりませんが、探してみましょう」
「それと、カバンも!」
「はいはい」
ようやく食べ終えたマルキーの腕を、
綾子はぐいっと引っ張る。
次の目的地は、もう決まっているらしい。
第十六章① 終わり




