第9話 浴場の死闘
謁見の間は広く、天井から下がる燭台の光が、金色の壁を照らしていた。
アウグスト・フォン・オキシジェン皇帝は玉座に深く腰を下ろしていた。老いた体に帝国の重みが積み重なったような、疲れた威厳がある。しかし目だけは、まだ鋭かった。
玉座の前に、二人の男が跪いていた。宰相エドモンド・ウォレスと、帝国軍総司令マクシミリアン・シュトルム将軍だ。
「陛下、アルゴン連邦の親帝国派より、合同軍事演習の申し入れがございました」
ウォレスが静かに報告した。白髪交じりの落ち着いた男だ。感情を表に出さず、事実だけを積み上げていく話し方をする。
「連邦内では反帝国派が軍備拡張の動きを見せております。親帝国派としては、帝国との連携を示すことで、内部の対立を抑えたい考えのようです」
皇帝は静かに聞いていた。
「シュトルム」
「はっ」
シュトルム将軍が顔を上げた。がっしりとした体格の、白髪の老将だ。
「軍事的には、演習の受け入れは連邦への影響力拡大に繋がります。ハイドロジェン王国が弱体化している今、アルゴン連邦を帝国寄りに引き込む好機かと」
「誰を送る」
シュトルム将軍とウォレス宰相が、一瞬だけ目を合わせた。
「帝国の威光を示すためにも、華のある方を送るべきかと存じます」
ウォレスが言った。
「セシリア殿下であれば、ギフト持ちとして連邦に与える印象も大きく、演習の場での存在感も申し分ない」
「セシリアか」
皇帝は少し間を置いた。老いた目が、遠くを見るように細くなった。
「……わかった。セシリアに伝えよ」
「御意」
二人が退出した後、謁見の間に静寂が戻った。
皇帝は玉座の肘掛けに手を置いたまま、動かなかった。燭台の炎が、静かに揺れていた。
―――
セシリアの私室に知らせが届いたのは、謁見から一刻後のことだった。
侍女のリーナが恭しく頭を下げる。
「殿下、陛下よりご命令が。アルゴン連邦への演習派遣に、殿下をご指名とのことでございます」
セシリアは窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。
「そうか」
それだけ答えた。
リーナが退室した後、セシリアはため息をついた。普段は決して人前でしないため息だ。
「華のある者を、ね」
独り言のように言った。
もう一人の侍女、カリナが困ったように微笑んだ。長年仕えている、数少ない本音を話せる相手だ。
「殿下、それは」
「わかっている。帝国のためになることもわかっている」
セシリアは椅子に腰を下ろした。
「ただ、華というのが引っかかる。ギフトがあるから使う。顔が知られているから送る。私自身ではなく、私の持っているものだけが必要とされる」
カリナは何も言わなかった。否定できなかったからだ。
しばらく沈黙が続いた。
「まあ、いい」
セシリアは立ち上がった。
「どうせ行くなら、せめてひとつだけわがままを通す」
「わがままでございますか」
「輸送部隊の指名だ。第77輸送部隊をこの演習に随行させろと伝えなさい」
カリナが目を丸くした。
「第77……輸送部隊、でございますか。あの、ラザフォード少尉の」
「そうだ」
セシリアは窓の外を見た。帝都の空が、夕暮れに染まっていた。
「盗賊の件について、まだ直接話を聞いていない。ちょうどいい機会だ」
カリナはしばらくセシリアの横顔を見ていた。それから小さく頷いた。
「承知いたしました」
セシリアは何も言わなかった。
ただ、窓の外を見つめたまま、その口の端が、ほんのわずかに動いた。
―――
第77輸送部隊の宿営地に命令書が届いたのは、翌朝のことだった。
ジョセフは命令書を読んで、一度だけ瞬きをした。それだけだった。
「マルチ、アルゴン連邦への演習随行が決まった」
「はい?」
マルチが素っ頓狂な声を上げた。
「輸送部隊として、セシリア殿下の演習部隊に随行する。準備を始めてくれ」
「ちょっと待ってください」
マルチが命令書を覗き込んだ。
「……第77輸送部隊、指名、セシリア皇女殿下……。隊長、これ、殿下が私たちを名指しで呼んだということですか」
「そうなるね」
「なぜですか」
「さあ」
ジョセフはあっさりと答えた。
「さあ、じゃないですよ!」
マルチの垂れ耳が、興奮で跳ね上がった。
「帝国の皇女殿下が、わざわざ輸送部隊を名指しするなんて、普通じゃありません。絶対に何かあります」
「まあ、盗賊の件について話を聞きたいんじゃないかな。あるいは砦でのことをか」
「それだけですか?」
「それだけじゃないかもしれないけど」
ジョセフは命令書を折りたたんだ。
「でも、命令は命令だから」
マルチはしばらくジョセフを見ていた。それから、深いため息をついた。
「……悪い予感しかしません」
「どうして」
「どうしてって」
マルチは眉を寄せた。
「砦のこともあります。盗賊のこともあります。そこに皇女殿下の名指しです。隊長、何か引き寄せていませんか。面倒なことを」
「引き寄せてはいないよ。向こうからやってくるんだ」
「同じことです」
ジョセフは苦笑した。
「大丈夫だよ。輸送するだけだから」
「その言葉が一番信用できません」
マルチはそう言いながら、すでに準備の段取りを頭の中で組み始めていた。文句を言いながらも、動き出す。それがマルチという副官だった。
「ダオたちにも伝えます。ノイの足はもう問題ないそうですし」
「ビンは」
「もう少しかかりますが、輸送なら問題ないと軍医が」
「なら連れていこう」
マルチが頷いて、天幕を出ていく。
一人残ったジョセフは、もう一度命令書を広げた。
セシリア殿下の直々の指名。
(盗賊の件だけじゃないだろうな、やっぱり)
砦の夜のことを、殿下はまだ覚えている。あの包帯の一言が、それを証明していた。
ジョセフは命令書を懐にしまった。
(まあ、なるようになるか)
いつもの、省エネな結論だった。
―――
アルゴン連邦の親帝国派が治める都市、ヴェルタは石畳の街だった。
帝国軍の合同演習部隊が到着して三日が経つ。セシリアを中心とした帝国軍の本隊と、補給を担うジョセフの輸送部隊が、それぞれ街の宿営地に落ち着いていた。
夕刻、ジョセフのもとに伝令が来た。
「皇女殿下がお呼びです。夜、宿舎の談話室にて」
「わかった」
用件はなんとなく想像がついた。盗賊の件だろう。帝都からここまでの道中、セシリアとは顔を合わせていなかったが、報告書は届いているはずだ。
夜になり、ジョセフは宿舎へ向かった。マルチが後ろについてくる。
「マルチは外で待っていてくれ」
「はい」
談話室の前まで来ると、侍女が出てきた。
「殿下はただいま浴場におられます。もうしばらくお待ちください。武器はこちらでお預かりいたします」
「承知した」
ジョセフはサーベルを渡すと、廊下の椅子に腰を下ろした。マルチが扉の外に立つ。
静かな夜だった。
どのくらい待っただろうか。
マルチと無言のままの時間が流れる。
マルチの耳がぴくりと動いた。
「隊長」
声が低かった。ジョセフはすぐに立ち上がった。
「何だ」
「浴場の方から……血の臭い」
次の瞬間、浴場の方角から短い悲鳴が聞こえた。
―――
セシリアは湯の中で息を整えていた。
演習初日からの緊張が、ようやく解けていく。アルゴン連邦の親帝国派との折衝、反帝国派の動向、ハイドロジェン王国の動き——考えることは山積みだ。
そのとき、空気が変わった。
セシリアは皇女である前に、ギフト持ちだ。長年の訓練が、微細な変化を肌で感じさせる。
気配。いや、気配ではない。気配が、ない。
それが逆に、おかしかった。
セシリアは動いた。湯から飛び出し、浴場の端へと転がった。
次の瞬間、彼女がいた場所に短剣が突き刺さった。石床に火花が散る。
人影が現れた。黒装束の男だ。気配がない。存在感がない。見ているのに、視界に入らないような感覚がある。
セシリアは壁に背をつけた。ギフトを発動させようとする。だが浴場は狭い。大規模な凍結は味方ごと閉じ込める。
さらには自らの体温も奪う。
使うには場所が悪かった。
男が再び動いた。
その瞬間——扉が蹴破られた。
―――
ジョセフが浴場に飛び込んだとき、最初に目に入ったのは倒れた護衛の兵士たちだった。
次に、壁際のセシリア。
次に、短剣を構えた黒装束の男。
状況を把握するのに一秒もかからなかった。
「マルチ、来るな!襲撃だ!人を呼んで来い!」
ジョセフは叫びながら、浴場の壁と男の間に割り込んだ。丸腰だ。剣も何もない。
男がジョセフを見た。値踏みするような目だ。脅威ではないと判断したのか、視線をセシリアに戻そうとした。
その瞬間、ジョセフは息を整えた。
胸の奥で、あの感覚が疼く。熱。焦げた匂い。嫌悪感が込み上げる。だが今は、それに構っている余裕はない。
浴場には湯を沸かすための炉がある。その炎が、まだ燃えていた。
空気が変わった。重さが増したような、金属が裏返ったような匂い。ジョセフの掌から、見えるか見えないかの境界にある揺らぎが生まれた。
それが男の顔に向かって、流れていった。
男が息を吸う。だが吸えない。吸っているのに、何も入ってこない。
視界が滲んだ。足に力が入らない。膝が折れる。
脳が、静かに止まっていく。 男がもがくことなく、静かに短剣を落とした。そのまま前の目に倒れる。
浴場に沈黙が落ちた。
ジョセフは壁に手をついた。使った後の反動が来る。頭が痛い。吐き気がする。前世の記憶が断片的に浮かんで消える。
セシリアが動いた。浴場の棚から布を手に取り、素早く身を包んだ。そしてジョセフを見た。
その目に、複数の感情が混在していた。
「……ラザフォード少尉」
「はい」
「今のは?」
ジョセフは壁にもたれたまま、セシリアを見た。隠す気力もなかった。
「僕のギフトです。燃える気体を作って、顔にまとわりつかせました。普段吸っている空気と違うものを吸ったことで、体の機能が停止しました」
極力この世界の人間にわかる言葉を選ぶ。
セシリアはしばらくジョセフを見ていた。
「砦の夜も」
「はい」
沈黙が落ちた。浴場の炉が、静かに燃えている。
セシリアは視線を外した。布を握る手に、わずかに力が入った。
ジョセフが浴場に飛び込んできた瞬間のことを、頭から消せなかった。護衛もなく、武器もなく、それでも躊躇なく割り込んできた。
(勇敢なのか、馬鹿なのか。後先を考えていたようではなかったな)
そう思った。
それと同時に、胸の奥で何かが溶けるような感覚があった。氷の皇女と呼ばれて久しい。感情を凍らせることには慣れていた。
だが今、その氷の一角が、音もなく崩れた気がした。
「殿下、失礼しました。すぐに出ます」
ジョセフが立ち上がろうとした。
「待て」
セシリアが言った。
「お前のギフトのこと、まだ誰も知らないのか」
「マルチだけが知っています」
「そうか。隠す理由は?」
「公爵家に余計な火種を持ち込みたくないんですよ。自分の母親は平民ですからね」
セシリアは倒れた暗殺者を見た。
「この件は私が処理する。これは私が倒した。お前は何もしていない」
「……承知しました」
「それと」
セシリアはジョセフに背を向けたまま言った。
「助かった」
ジョセフは答えなかった。
「早く行け!」
「はい」
扉の向こうで、マルチが心配そうに声をかけてくる。ジョセフはゆっくりと浴場を出た。
廊下に出ると、夜風が頬に当たった。
反動の頭痛が続いていた。だが今は、それよりも別のことを考えていた。
(セシリア殿下に、ばれた)
困ったねえ、と呟いた。
いつもの、飄々とした声で。




