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帝国の燃素使い〜輸送部隊から始まる英雄譚〜  作者: 工程能力1.33


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第9話 浴場の死闘

 謁見の間は広く、天井から下がる燭台の光が、金色の壁を照らしていた。


 アウグスト・フォン・オキシジェン皇帝は玉座に深く腰を下ろしていた。老いた体に帝国の重みが積み重なったような、疲れた威厳がある。しかし目だけは、まだ鋭かった。


 玉座の前に、二人の男が跪いていた。宰相エドモンド・ウォレスと、帝国軍総司令マクシミリアン・シュトルム将軍だ。


「陛下、アルゴン連邦の親帝国派より、合同軍事演習の申し入れがございました」


 ウォレスが静かに報告した。白髪交じりの落ち着いた男だ。感情を表に出さず、事実だけを積み上げていく話し方をする。


「連邦内では反帝国派が軍備拡張の動きを見せております。親帝国派としては、帝国との連携を示すことで、内部の対立を抑えたい考えのようです」


 皇帝は静かに聞いていた。


「シュトルム」


「はっ」


 シュトルム将軍が顔を上げた。がっしりとした体格の、白髪の老将だ。


「軍事的には、演習の受け入れは連邦への影響力拡大に繋がります。ハイドロジェン王国が弱体化している今、アルゴン連邦を帝国寄りに引き込む好機かと」

「誰を送る」


 シュトルム将軍とウォレス宰相が、一瞬だけ目を合わせた。


「帝国の威光を示すためにも、華のある方を送るべきかと存じます」


 ウォレスが言った。


「セシリア殿下であれば、ギフト持ちとして連邦に与える印象も大きく、演習の場での存在感も申し分ない」

「セシリアか」


 皇帝は少し間を置いた。老いた目が、遠くを見るように細くなった。


「……わかった。セシリアに伝えよ」

「御意」


 二人が退出した後、謁見の間に静寂が戻った。

 皇帝は玉座の肘掛けに手を置いたまま、動かなかった。燭台の炎が、静かに揺れていた。



―――



 セシリアの私室に知らせが届いたのは、謁見から一刻後のことだった。

 侍女のリーナが恭しく頭を下げる。


「殿下、陛下よりご命令が。アルゴン連邦への演習派遣に、殿下をご指名とのことでございます」


 セシリアは窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。


「そうか」


 それだけ答えた。

 リーナが退室した後、セシリアはため息をついた。普段は決して人前でしないため息だ。


「華のある者を、ね」


 独り言のように言った。

 もう一人の侍女、カリナが困ったように微笑んだ。長年仕えている、数少ない本音を話せる相手だ。


「殿下、それは」

「わかっている。帝国のためになることもわかっている」


 セシリアは椅子に腰を下ろした。


「ただ、華というのが引っかかる。ギフトがあるから使う。顔が知られているから送る。私自身ではなく、私の持っているものだけが必要とされる」


 カリナは何も言わなかった。否定できなかったからだ。

 しばらく沈黙が続いた。


「まあ、いい」


 セシリアは立ち上がった。


「どうせ行くなら、せめてひとつだけわがままを通す」

「わがままでございますか」

「輸送部隊の指名だ。第77輸送部隊をこの演習に随行させろと伝えなさい」


 カリナが目を丸くした。


「第77……輸送部隊、でございますか。あの、ラザフォード少尉の」

「そうだ」


 セシリアは窓の外を見た。帝都の空が、夕暮れに染まっていた。


「盗賊の件について、まだ直接話を聞いていない。ちょうどいい機会だ」


 カリナはしばらくセシリアの横顔を見ていた。それから小さく頷いた。


「承知いたしました」


 セシリアは何も言わなかった。

 ただ、窓の外を見つめたまま、その口の端が、ほんのわずかに動いた。



―――



 第77輸送部隊の宿営地に命令書が届いたのは、翌朝のことだった。

 ジョセフは命令書を読んで、一度だけ瞬きをした。それだけだった。


「マルチ、アルゴン連邦への演習随行が決まった」

「はい?」


 マルチが素っ頓狂な声を上げた。


「輸送部隊として、セシリア殿下の演習部隊に随行する。準備を始めてくれ」

「ちょっと待ってください」


 マルチが命令書を覗き込んだ。


「……第77輸送部隊、指名、セシリア皇女殿下……。隊長、これ、殿下が私たちを名指しで呼んだということですか」

「そうなるね」

「なぜですか」

「さあ」


 ジョセフはあっさりと答えた。


「さあ、じゃないですよ!」


 マルチの垂れ耳が、興奮で跳ね上がった。


「帝国の皇女殿下が、わざわざ輸送部隊を名指しするなんて、普通じゃありません。絶対に何かあります」

「まあ、盗賊の件について話を聞きたいんじゃないかな。あるいは砦でのことをか」

「それだけですか?」

「それだけじゃないかもしれないけど」


 ジョセフは命令書を折りたたんだ。


「でも、命令は命令だから」


 マルチはしばらくジョセフを見ていた。それから、深いため息をついた。


「……悪い予感しかしません」

「どうして」

「どうしてって」


 マルチは眉を寄せた。


「砦のこともあります。盗賊のこともあります。そこに皇女殿下の名指しです。隊長、何か引き寄せていませんか。面倒なことを」

「引き寄せてはいないよ。向こうからやってくるんだ」

「同じことです」


 ジョセフは苦笑した。


「大丈夫だよ。輸送するだけだから」

「その言葉が一番信用できません」


 マルチはそう言いながら、すでに準備の段取りを頭の中で組み始めていた。文句を言いながらも、動き出す。それがマルチという副官だった。


「ダオたちにも伝えます。ノイの足はもう問題ないそうですし」

「ビンは」

「もう少しかかりますが、輸送なら問題ないと軍医が」

「なら連れていこう」


 マルチが頷いて、天幕を出ていく。

 一人残ったジョセフは、もう一度命令書を広げた。


 セシリア殿下の直々の指名。


(盗賊の件だけじゃないだろうな、やっぱり)


 砦の夜のことを、殿下はまだ覚えている。あの包帯の一言が、それを証明していた。

 ジョセフは命令書を懐にしまった。


(まあ、なるようになるか)


 いつもの、省エネな結論だった。



―――



 アルゴン連邦の親帝国派が治める都市、ヴェルタは石畳の街だった。


 帝国軍の合同演習部隊が到着して三日が経つ。セシリアを中心とした帝国軍の本隊と、補給を担うジョセフの輸送部隊が、それぞれ街の宿営地に落ち着いていた。


 夕刻、ジョセフのもとに伝令が来た。


「皇女殿下がお呼びです。夜、宿舎の談話室にて」

「わかった」


 用件はなんとなく想像がついた。盗賊の件だろう。帝都からここまでの道中、セシリアとは顔を合わせていなかったが、報告書は届いているはずだ。


 夜になり、ジョセフは宿舎へ向かった。マルチが後ろについてくる。


「マルチは外で待っていてくれ」

「はい」


 談話室の前まで来ると、侍女が出てきた。


「殿下はただいま浴場におられます。もうしばらくお待ちください。武器はこちらでお預かりいたします」

「承知した」


 ジョセフはサーベルを渡すと、廊下の椅子に腰を下ろした。マルチが扉の外に立つ。

 静かな夜だった。

 どのくらい待っただろうか。

 マルチと無言のままの時間が流れる。

 マルチの耳がぴくりと動いた。


「隊長」


 声が低かった。ジョセフはすぐに立ち上がった。


「何だ」

「浴場の方から……血の臭い」


 次の瞬間、浴場の方角から短い悲鳴が聞こえた。



―――



 セシリアは湯の中で息を整えていた。


 演習初日からの緊張が、ようやく解けていく。アルゴン連邦の親帝国派との折衝、反帝国派の動向、ハイドロジェン王国の動き——考えることは山積みだ。


 そのとき、空気が変わった。

 セシリアは皇女である前に、ギフト持ちだ。長年の訓練が、微細な変化を肌で感じさせる。

 気配。いや、気配ではない。気配が、ない。

 それが逆に、おかしかった。


 セシリアは動いた。湯から飛び出し、浴場の端へと転がった。


 次の瞬間、彼女がいた場所に短剣が突き刺さった。石床に火花が散る。


 人影が現れた。黒装束の男だ。気配がない。存在感がない。見ているのに、視界に入らないような感覚がある。


 セシリアは壁に背をつけた。ギフトを発動させようとする。だが浴場は狭い。大規模な凍結は味方ごと閉じ込める。

 さらには自らの体温も奪う。

 使うには場所が悪かった。


 男が再び動いた。


 その瞬間——扉が蹴破られた。



―――



 ジョセフが浴場に飛び込んだとき、最初に目に入ったのは倒れた護衛の兵士たちだった。


 次に、壁際のセシリア。

 次に、短剣を構えた黒装束の男。

 状況を把握するのに一秒もかからなかった。


「マルチ、来るな!襲撃だ!人を呼んで来い!」


 ジョセフは叫びながら、浴場の壁と男の間に割り込んだ。丸腰だ。剣も何もない。


 男がジョセフを見た。値踏みするような目だ。脅威ではないと判断したのか、視線をセシリアに戻そうとした。


 その瞬間、ジョセフは息を整えた。


 胸の奥で、あの感覚が疼く。熱。焦げた匂い。嫌悪感が込み上げる。だが今は、それに構っている余裕はない。


 浴場には湯を沸かすための炉がある。その炎が、まだ燃えていた。


 空気が変わった。重さが増したような、金属が裏返ったような匂い。ジョセフの掌から、見えるか見えないかの境界にある揺らぎが生まれた。


 それが男の顔に向かって、流れていった。


 男が息を吸う。だが吸えない。吸っているのに、何も入ってこない。

 視界が滲んだ。足に力が入らない。膝が折れる。

 脳が、静かに止まっていく。 男がもがくことなく、静かに短剣を落とした。そのまま前の目に倒れる。


 浴場に沈黙が落ちた。


 ジョセフは壁に手をついた。使った後の反動が来る。頭が痛い。吐き気がする。前世の記憶が断片的に浮かんで消える。


 セシリアが動いた。浴場の棚から布を手に取り、素早く身を包んだ。そしてジョセフを見た。

 その目に、複数の感情が混在していた。


「……ラザフォード少尉」

「はい」

「今のは?」


 ジョセフは壁にもたれたまま、セシリアを見た。隠す気力もなかった。


「僕のギフトです。燃える気体を作って、顔にまとわりつかせました。普段吸っている空気と違うものを吸ったことで、体の機能が停止しました」


 極力この世界の人間にわかる言葉を選ぶ。

 セシリアはしばらくジョセフを見ていた。


「砦の夜も」

「はい」


 沈黙が落ちた。浴場の炉が、静かに燃えている。

 セシリアは視線を外した。布を握る手に、わずかに力が入った。


 ジョセフが浴場に飛び込んできた瞬間のことを、頭から消せなかった。護衛もなく、武器もなく、それでも躊躇なく割り込んできた。


(勇敢なのか、馬鹿なのか。後先を考えていたようではなかったな)


 そう思った。


 それと同時に、胸の奥で何かが溶けるような感覚があった。氷の皇女と呼ばれて久しい。感情を凍らせることには慣れていた。

 だが今、その氷の一角が、音もなく崩れた気がした。


「殿下、失礼しました。すぐに出ます」


 ジョセフが立ち上がろうとした。


「待て」


 セシリアが言った。


「お前のギフトのこと、まだ誰も知らないのか」

「マルチだけが知っています」

「そうか。隠す理由は?」

「公爵家に余計な火種を持ち込みたくないんですよ。自分の母親は平民ですからね」


 セシリアは倒れた暗殺者を見た。


「この件は私が処理する。これは私が倒した。お前は何もしていない」

「……承知しました」

「それと」


 セシリアはジョセフに背を向けたまま言った。


「助かった」


 ジョセフは答えなかった。


「早く行け!」

「はい」


 扉の向こうで、マルチが心配そうに声をかけてくる。ジョセフはゆっくりと浴場を出た。

 廊下に出ると、夜風が頬に当たった。

 反動の頭痛が続いていた。だが今は、それよりも別のことを考えていた。


(セシリア殿下に、ばれた)


 困ったねえ、と呟いた。


 いつもの、飄々とした声で。


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