第10話 依頼人と報告
演習部隊が出発した翌朝、宿営地の食堂はがらんとしていた。
本来であれば兵士たちの喧騒で満たされるはずの広い部屋に、今は二人だけが残っている。
ダオもタンもノイもビンも、さっさと食べて自室に引き揚げてしまった。輸送部隊は演習に加わらない。今日も明日も、特にすることがない。兵士にとって暇は眠るに限る、という判断だろう。
ジョセフとマルチは向かい合って座っていた。テーブルの上には、宿の厨房が用意した質素な朝食。パンと干し肉とスープだ。
マルチはスープを一口飲んでから、ジョセフを見た。
「隊長」
「うん」
「浴場の件なんですが」
ジョセフはパンをちぎりながら答えた。
「うん」
「セシリア殿下に、ギフトがばれましたよね」
「ばれたね」
あっさりとした返答だった。マルチは眉を寄せた。
「それで済む話じゃないと思うんですが」
「どうして」
「どうしてって……」
マルチはスープの椀を置いた。
「ギフト持ちが軍に発覚したら、処遇が変わります。輸送部隊じゃなくなる可能性もある。最悪、公爵家に報告されて、後継者争いに巻き込まれる」
「そうだね」
「なのに、なぜそんなに落ち着いているんですか」
以前、ジョセフはマルチに言った。
『僕がギフトを持っていることがわかったら、後継者争いが起こってややこしいことになるから』
それを思い出して、どうしてこんなに落ち着いていられるのかと不思議であった。
ジョセフはスープを飲んだ。少し冷めていた。
「皇女殿下が秘密にしてくれるって言ったから」
マルチがぴたりと止まった。
「……どういうことですか」
「あの夜、浴場を出る前に言われたんだよ。この件は殿下が処理する、自分は何もしていない、って」
ジョセフはパンをもう一口かじった。
「つまり、暗殺未遂はなかったことになる。僕がギフトを使ったこともなかったことになる」
マルチはしばらくジョセフを見ていた。
「なぜ殿下がそんなことを」
「さあ」
「さあ、じゃないですよ」
「理由はわからないけど、そう言ってくれたんだから、信じるしかないよ」
ジョセフは肩をすくめた。
「それに、殿下がわざわざ嘘をつく理由もない」
マルチは視線を落とした。椀の中のスープが、静かに揺れている。
「……隊長」
「うん」
「殿下は、なぜだと思いますか」
「さっきも言ったけど、わからないよ」
「でも、何か感じませんでしたか」
ジョセフはしばらく考えた。食堂の窓から、朝の光が差し込んでいる。遠くで演習部隊の馬蹄の音がした。
「強いて言うなら」
「はい」
「面倒なことが増えた、という感じかな」
マルチは力が抜けたように、ため息をついた。
「それだけですか」
「それだけだよ」
「……隊長は本当に」
マルチは小さく首を振った。
「もう少し、いろいろ考えてください」
「何をかい?」
「いろいろです」
それ以上は言わなかった。
マルチは再びスープに視線を落とした。その耳が、ほんのわずかに赤くなっていたが、ジョセフは気づかなかった。
食堂に静寂が戻った。パンをちぎる音と、スープをすする音だけが響いた。
―――
ネオン共和国の首都、フロンティアは活気のある街だった。
共和国らしく、街の中心には議会の建物がある。だが本当の権力がある場所は別だ。
大統領府の奥まった執務室。ヴィクター・ハーンはそこに座っていた。
七十がらみの老人だ。白髪を丁寧に撫でつけ、仕立ての良い服を着ている。温和そうな顔立ちだが、長年権力の座に居続けた者だけが持つ、底冷えするような圧がある。
選挙のたびに笑顔で手を振り、国民に愛される大統領として振る舞う。それが彼の仮面だ。
執務室に入ってきた男を、ハーンは無言で見た。
ケイン・モレル。三十代。中背で細身だが、無駄のない動きをする。表情がない。感情が顔に出ないのではなく、最初から顔に何も載せていない、そういう男だ。
「失敗したそうだな」
ハーンが先に口を開いた。
「はい」
ケインは動じなかった。椅子にも座らず、部屋の中央に立ったまま答えた。
「説明しろ」
「実行犯は我々が誇るギフト持ちでした。暗殺の直前まで気配を殺せる。標的に気づかれることなく、確実に仕留められるはずでした」
「はずだった、というのは」
「殺そうとした瞬間、気配が漏れる。それがあのギフトの唯一の弱点です」
ケインは淡々と続けた。
「標的——セシリア皇女殿下は、その瞬間を捉えて回避しました。ギフト持ちは伊達ではなかったということです」
ハーンは指を組んだ。
「それだけか」
「ええ」
ケインは一拍置いた。
「それだけあの皇女が手ごわかったということです。違約金はお支払いしますが、表には出せない金ですよね?」
「そうだ」
「それと――」
「何だ?」
「閣下、確認しておきたいことがあります」
ケインが言った。
「何をかね?」
「今回の依頼、こちらが関与した痕跡は残っていないか、という点です」
ハーンの目が、わずかに鋭くなった。
「それを心配しているのはこちらも同じだ」
「実行犯はすでに死亡しています。我々との繋がりを示すものは持たせていませんでした。雇用の経路も、複数の仲介を挟んでいます」
ケインは続けた。
「ただ、アッシュ・ダガーの名前が知られている可能性はある。そこからネオン共和国まで辿られるかどうか」
「辿れるか?いや、お前がこうしてここにいることを誰かに見られたらなあ」
「そんなへまはしませんがね。ええ、通常の調査では難しい。ただし――」
ケインは一拍置いた。
「もしポロニウム公国が動いていれば、別の話になります」
ハーンの顔が、わずかに変わった。
「あの小国が」
「あそこは情報網が違います。我々がいつ動いたか、なぜ動いたか、知っている可能性がある」
ハーンはしばらくケインを見ていた。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「わかった。引き続き痕跡の処理を頼む。それと」
「はい」
ケインは無言で一礼した。そのまま踵を返し、執務室を出ていった。
一人残ったハーンは、椅子の背もたれに身を預けた。
窓の外には、共和国の街並みが広がっている。議会の建物が、夕陽に照らされていた。
(セシリアが死んでいれば、帝国は混乱した。アルゴン演習は頓挫し、帝国のアルゴンへの影響力拡大は止まった)
計画は失敗した。だが終わりではない。
老いた目が、細くなった。




