第8話 盤上の駒
ポロニウム公国の首都は小さい。
街の規模だけ見れば、オキシジェン帝国の地方都市にも劣る。だが、この国の力は街の大きさとは無関係だ。
公国の情報局が入る建物は、目立たない石造りの館だった。表向きは商会の事務所だ。出入りする人間も、見た目は商人や使用人ばかりだ。
その館の奥まった一室で、カイル・モスは報告書を読んでいた。
二十代とは思えない落ち着きで、書面を最後まで読み終えると、静かに卓に置いた。感情は顔に出ない。出さないのではなく、出る前に消える。そういう男だった。
「ギーレン将軍が死んだか」
独り言のように言った。部屋には他に二人いたが、誰も返事をしなかった。返事を求めていない口調だとわかっていたからだ。
カイルは立ち上がり、壁に貼られた地図の前に立った。
オキシジェン帝国。ハイドロジェン王国。アルゴン連邦。ラドン教皇領。そして、地図の東の端に小さく記されたポロニウム公国。
この地図を見るたびに、カイルは同じことを思う。
小さい国が生き残るには、大きい国同士を戦わせ続けるしかない。どちらかが勝てば、次の標的は小国だ。だから均衡が必要だ。均衡こそが、ポロニウム公国の安全保障だ。
ギーレン将軍の死は、その均衡を崩した。
「帝国とハイドロジェンの戦力差が広がった」
カイルは地図のハイドロジェン王国を指でなぞった。
「ギフト持ちをひとり失った王国は、しばらく攻勢に出られない。帝国が押し込めば、王国は講和を求める。帝国が大陸の覇権を握り始める」
それは困る。
「アルゴン連邦の状況は」
部下のひとりが答えた。
「反帝国派と親帝国派の対立が続いています。ラドン教皇領の影響圏も含めると、三つ巴の状態です」
「使える」
カイルは地図から離れ、椅子に戻った。
「反帝国派に接触しろ。帝国がハイドロジェンを押し込んでいる。次はアルゴンだという話を流せ。軍拡の動きを後押しする。資金は公国の名前を出さずに流せ」
「親帝国派は」
「そちらには別の工作だ」
カイルは指を組んだ。
「帝国軍との合同軍事演習を提案させろ。親帝国派が帝国軍を呼び込めば、反帝国派は反発する。アルゴン連邦の内部対立が深まる」
「演習の目的は」
「帝国にとっては、アルゴンへの影響力拡大に見える。喜んで乗ってくる」
カイルは淡々と続けた。
帝国の兵力をアルゴン連邦に向けさせ、ハイドロジェン王国に軍再編の時間を与える。
ここまでお膳立てしても、ハイドロジェン王国が手を打てなければ、その時は別の手段を考えるが、ハイドロジェン王国もそこまで愚かではないはずだとわかっていた。
「しかし実際は、アルゴン内部の亀裂を広げるための餌だ。連邦が割れれば、帝国はアルゴンに足を取られる。ハイドロジェンへの圧力が分散する」
部下が頷いた。
「期間は」
「三ヶ月で連邦内の緊張を高める。焦る必要はない。じっくりやれ」
カイルは書類を一枚手に取った。別の案件の報告書だ。彼の仕事は常に複数同時進行だ。
「以上だ。動け」
部下たちが退室した。
一人残ったカイルは、再び地図を見た。
地図の上では、すべてが駒だ。帝国も、王国も、連邦も。駒として動かす。そして、ポロニウム公国が生き残る道筋を作る。
(均衡を保て。それだけでいい)
感情はなかった。ただの計算だ。
―――
アルゴン連邦の東部、反帝国派の有力者が集まる街に、一人の商人が現れた。
年齢は四十がらみ。目立たない風貌で、荷物を積んだ馬車とともにやってきた。商人としての身分証明も完璧だ。
彼がその街に滞在したのは五日間だった。
その間、彼は有力者たちと食事をし、酒を飲み、雑談をした。政治の話は一度もしなかった。
だが五日後、街を去るころには、有力者たちの間でひとつの噂が広まっていた。
帝国がハイドロジェンを追い詰めている。次はアルゴンだ。今のうちに備えなければ——。
噂の出所は誰も知らなかった。商人はすでに街を出ていた。
―――
アルゴン連邦の西部、親帝国派の中心都市では、連邦議会の代表が集まっていた。
議題は帝国軍との合同軍事演習だ。
連邦内の反帝国勢力が、軍備拡張をして帝国との戦いに備えるという噂が広まっていた。
「帝国との関係強化は、連邦の安全保障に直結する」
議長が言った。
「ハイドロジェン王国が今後どう動くか不透明な今、帝国との連携を深めることは必要だ。それを反帝国派の連中は、軍備拡張などして帝国を刺激しようとしている。だからこそ、合同軍事演習を実施して、親帝国の姿勢を見せねばならない」
反対意見もあった。
「帝国軍を連邦内に入れるのは危険だ。出て行かなくなったらどうする」
「演習だ。期間を定めれば問題ない」
議論は続いたが、結論は決まっていた。親帝国派の有力者たちは、すでに演習の受け入れを決めていた。
採決の結果、賛成多数で可決された。
その知らせが帝国に届いたのは、採決から三日後のことだった。
―――
報告を受けたカイルは、書類に目を通したまま小さく頷いた。
「予定通りだ」
それだけ言って、次の書類に手を伸ばした。
地図の上で、駒が動いた。




