第70話 撤退
氷のドームが溶けていくのを、ハルムは離れた場所から見ていた。
溶けきった頃、二人が歩いて出てきた。セシリアとジョセフ。二人とも、怪我はないように見えた。
ハルムは馬を進めた。
「殿下、ご無事で」
「ああ」
セシリアは短く答えた。いつもの落ち着いた声だった。しかし、ハルムには少しだけ違うように聞こえた。何が違うのかはわからない。ただ、違った。
「騎士団はどうしますか?」
「指揮官を失った。統率が崩れている。投降を呼びかけろ。狂信者どものことだ、拒否するだろうが、一度動きを見よう。こちらも増派の手は打てないから、ここで兵力を減らすのは避けたい。圧をかけるだけでよい」
「承知しました」
ハルムは馬を返した。
「全軍、前身!騎士団を包囲せよ!」
帝国軍が動き始めた。
―――
マルチはジョセフのところに走り寄った。
「隊長、無事ですか」
「無事だよ」
ジョセフは少し疲れた顔をしていた。煤けてもいないし、怪我もない。しかし、目の下に疲労がある。
マルチはジョセフの隣に並んだ。
そして、鼻がひくひくした。
「……隊長」
「なんだ」
「皇女殿下の匂いが、すごくついています」
ジョセフは少し間を置いた。
「強敵だったからねえ」
「匂いと戦闘は関係ないと思いますが」
マルチはジト目でジョセフを見た。
「ドームの中、何があったんですか」
「戦ったよ。二人で」
「それだけですか」
「それだけだよ」
ジョセフはあっさりと答えた。
マルチはしばらくジョセフを見ていた。嘘をついているような顔ではなかった。しかし、何かが引っかかった。犬人の鼻は正直だった。あの匂いは、普通の距離では移らない。
「……そうですか」
マルチは前を向いた。
ジョセフは歩きながら、考えていた。
(気づいてしまったな)
セシリアの気持ちは、わかった。ドームの中で、はっきりわかった。あれは疲れただけの行動ではなかった。
困った、とジョセフは思った。
困った、というのは、セシリアのことだけではなかった。隣を歩くマルチのことも。
マルチが何を感じているか、ジョセフにはわかっていた。ずっとわかっていた。わかっていて、気づかないふりをしていた。
(どうしたらいいんだろう)
答えが出なかった。
出せなかった。
「隊長」
マルチがまた言った。
「次はどこに行くんですかね」
「教皇庁だろうね」
ジョセフは答えた。
「殿下についていくよ」
マルチは頷いた。それ以上は言わなかった。
ジョセフも、それ以上は言わなかった。
二人は並んで歩いた。
―――
教皇庁の執務室に、騎士団からの使者が飛び込んできたのは、午後を過ぎた頃だった。
投降を呼びかけられたが、それには応じずに教皇の指示を仰ぐことにした。帝国軍もセシリアの命令通り、追撃はせずに見逃していた。
「教皇猊下、セラフィナ騎士団長が……」
報告をする騎士の顔が、青かった。
アリアは書類から目を上げた。
「神の御許に旅だったか」
騎士は頷いた。言葉が出ないようだった。
アリアはしばらく黙っていた。
セラフィナ・ブルッシ。騎士団長。神の加護を持つ、最強の盾。その彼女が死んだ。
(セシリアのギフトにやられたとは。鋼を貫く氷。厄介な。いや、厄介なのは神の威光が地に堕ちたことか。セラフィナ、案外使えなかったな――)
使者の報告を頭の中で整理した。帝国軍はすぐそこまできている。こちらの最強の手札は失った。
アリアは立ち上がった。
「準備をしろ」
「は?」
「撤退の準備だ。今すぐ」
騎士が目を丸くした。
「し、しかし、教皇庁をお捨てになるので」
「建物より命が大事だ。私には神の言葉を届ける義務がある。神は時々我らに試練をお与えになる。今はその試練の時。いずれまた、この地を取り戻すようにとのことでしょう」
アリアは書棚から、小さな革袋を取り出した。重要な書類だけを選んで入れていく。迷わなかった。何を持ち、何を捨てるか、頭の中に順番があった。
「猊下、せめて金庫の財産だけでも」
「時間をかければ追いつかれる。財産は捨てろ」
アリアは革袋を肩にかけた。荷物はそれだけだった。
「クリプトン帝政への連絡は」
「道中で出す。馬を用意しろ」
侍従が慌てて動き始めた。
アリアは窓の外を見た。
遠くに、帝国軍の旗が見えた。来るのは早かった。
(セラフィナが負けるとは思っていなかった。金などまた、信者どもから集めればよい。それにしても、この私が!!この私が教皇となった時に、教皇領が占拠されるなどという汚点が!!!)
アリアのはらわたは煮えくり返る。
クリプトン帝政に落ち延びる。あの国はまだ帝国に恨みがある。教皇が身を寄せれば、利用価値がある。向こうもそれはわかっているはずだ。いつでも帝国を攻撃できる口実を得るのだ。そこで再起を図る。
ラドン教は、まだ終わっていない。
建物が占拠されても、信仰は消えない。信者は残る。
「猊下、馬車の用意ができました」
アリアは部屋を出た。
廊下を早足で歩いた。走らなかった。教皇が走る姿を、誰かに見せるわけにはいかない。
教皇庁の裏門から、アリアは馬車に乗った。
振り返らなかった。
御者が鞭を入れ、馬を走らせた。
遠ざかる教皇庁を、アリアは一度だけ目の端に捉えた。
それから、前を向いた。
―――
帝国軍が教皇庁の正門に到達したのは、夕方だった。
門は開いていた。
先頭の将校が門をくぐり、広場に馬を進めた。人がいない。建物の扉が開いている。静かだった。
「無人です」
報告が来た。
セシリアは馬を進めながら、教皇庁を見上げた。
石造りの大きな建物だった。天を突くような尖塔。入り組んだ回廊。長い歴史を持つ建物だということが、外観からわかった。
「教皇は逃げたか」
ハルムが言った。
「足が速い。それと、信者の抵抗があると思ったが、頭が逃げたとなれば、命がけの抵抗もないか」
セシリアは言った。感情のない声だった。
「追いますか?」
「今は追わない。あれの身柄にどれほどの価値がある?教皇庁を確保することが先だ。各隊に建物の確認をさせろ。罠がないとも限らない」
「はっ」
セシリアは馬を降りた。
教皇庁の門をくぐった。
石畳の廊下。天井が高い。壁に絵が描かれている。ラドン教の神話だろう。光の中に立つ人影。炎を従える神の姿。
セシリアは立ち止まらずに歩いた。
やがて、禁書庫の所在を部下が持ってきた。セシリアは禁書庫という響きに興味を持った。
ひょっとしたら、人がなぜギフトを授かるのか、ということを記した本があるかもしれないと思ったのだ。
「私自らが確認する。誰も――」
そこで言葉を区切る。
「いや、ラザフォード少尉を呼べ。軍学校では歴史の成績も優秀だったはずだ。古文書の解読なら、少尉がよいだろう」
適当な理由でジョセフを呼んだ。
ジョセフは呼ばれたが、理由は聞いていなかった。
セシリアが先に歩き始めると、ジョセフが後ろからついてきた。
「殿下、どこへ」
「禁書庫だ」
セシリアは前を向いたまま言った。
「場所は」
「調べてある」
ジョセフは少し首を傾げた。
「禁書庫ですか」
「ギフトの秘密があるかもしれないだろう。興味はあるか?」
「勿論」
セシリアは廊下を曲がった。
先の見えない廊下が続いていた。




