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帝国の燃素使い〜輸送部隊から始まる英雄譚〜  作者: 工程能力1.33


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第70話 撤退

 氷のドームが溶けていくのを、ハルムは離れた場所から見ていた。

 溶けきった頃、二人が歩いて出てきた。セシリアとジョセフ。二人とも、怪我はないように見えた。

 ハルムは馬を進めた。


「殿下、ご無事で」

「ああ」


 セシリアは短く答えた。いつもの落ち着いた声だった。しかし、ハルムには少しだけ違うように聞こえた。何が違うのかはわからない。ただ、違った。


「騎士団はどうしますか?」

「指揮官を失った。統率が崩れている。投降を呼びかけろ。狂信者どものことだ、拒否するだろうが、一度動きを見よう。こちらも増派の手は打てないから、ここで兵力を減らすのは避けたい。圧をかけるだけでよい」

「承知しました」


 ハルムは馬を返した。


「全軍、前身!騎士団を包囲せよ!」


 帝国軍が動き始めた。



―――



 マルチはジョセフのところに走り寄った。


「隊長、無事ですか」

「無事だよ」


 ジョセフは少し疲れた顔をしていた。煤けてもいないし、怪我もない。しかし、目の下に疲労がある。

 マルチはジョセフの隣に並んだ。

 そして、鼻がひくひくした。


「……隊長」

「なんだ」

「皇女殿下の匂いが、すごくついています」


 ジョセフは少し間を置いた。


「強敵だったからねえ」

「匂いと戦闘は関係ないと思いますが」


 マルチはジト目でジョセフを見た。


「ドームの中、何があったんですか」

「戦ったよ。二人で」

「それだけですか」

「それだけだよ」


 ジョセフはあっさりと答えた。

 マルチはしばらくジョセフを見ていた。嘘をついているような顔ではなかった。しかし、何かが引っかかった。犬人の鼻は正直だった。あの匂いは、普通の距離では移らない。


「……そうですか」


 マルチは前を向いた。

 ジョセフは歩きながら、考えていた。


(気づいてしまったな)


 セシリアの気持ちは、わかった。ドームの中で、はっきりわかった。あれは疲れただけの行動ではなかった。


 困った、とジョセフは思った。

 困った、というのは、セシリアのことだけではなかった。隣を歩くマルチのことも。

 マルチが何を感じているか、ジョセフにはわかっていた。ずっとわかっていた。わかっていて、気づかないふりをしていた。


(どうしたらいいんだろう)


 答えが出なかった。

 出せなかった。


「隊長」


 マルチがまた言った。


「次はどこに行くんですかね」

「教皇庁だろうね」


 ジョセフは答えた。


「殿下についていくよ」


 マルチは頷いた。それ以上は言わなかった。

 ジョセフも、それ以上は言わなかった。

 二人は並んで歩いた。



―――



 教皇庁の執務室に、騎士団からの使者が飛び込んできたのは、午後を過ぎた頃だった。

 投降を呼びかけられたが、それには応じずに教皇の指示を仰ぐことにした。帝国軍もセシリアの命令通り、追撃はせずに見逃していた。


「教皇猊下、セラフィナ騎士団長が……」


 報告をする騎士の顔が、青かった。

 アリアは書類から目を上げた。


「神の御許に旅だったか」


 騎士は頷いた。言葉が出ないようだった。

 アリアはしばらく黙っていた。

 セラフィナ・ブルッシ。騎士団長。神の加護を持つ、最強の盾。その彼女が死んだ。


(セシリアのギフトにやられたとは。鋼を貫く氷。厄介な。いや、厄介なのは神の威光が地に堕ちたことか。セラフィナ、案外使えなかったな――)


 使者の報告を頭の中で整理した。帝国軍はすぐそこまできている。こちらの最強の手札は失った。

 アリアは立ち上がった。


「準備をしろ」

「は?」

「撤退の準備だ。今すぐ」


 騎士が目を丸くした。


「し、しかし、教皇庁をお捨てになるので」

「建物より命が大事だ。私には神の言葉を届ける義務がある。神は時々我らに試練をお与えになる。今はその試練の時。いずれまた、この地を取り戻すようにとのことでしょう」


 アリアは書棚から、小さな革袋を取り出した。重要な書類だけを選んで入れていく。迷わなかった。何を持ち、何を捨てるか、頭の中に順番があった。


「猊下、せめて金庫の財産だけでも」

「時間をかければ追いつかれる。財産は捨てろ」


 アリアは革袋を肩にかけた。荷物はそれだけだった。


「クリプトン帝政への連絡は」

「道中で出す。馬を用意しろ」


 侍従が慌てて動き始めた。

 アリアは窓の外を見た。


 遠くに、帝国軍の旗が見えた。来るのは早かった。


(セラフィナが負けるとは思っていなかった。金などまた、信者どもから集めればよい。それにしても、この私が!!この私が教皇となった時に、教皇領が占拠されるなどという汚点が!!!)


 アリアのはらわたは煮えくり返る。

 クリプトン帝政に落ち延びる。あの国はまだ帝国に恨みがある。教皇が身を寄せれば、利用価値がある。向こうもそれはわかっているはずだ。いつでも帝国を攻撃できる口実を得るのだ。そこで再起を図る。


 ラドン教は、まだ終わっていない。

 建物が占拠されても、信仰は消えない。信者は残る。


「猊下、馬車の用意ができました」


 アリアは部屋を出た。

 廊下を早足で歩いた。走らなかった。教皇が走る姿を、誰かに見せるわけにはいかない。

 教皇庁の裏門から、アリアは馬車に乗った。


 振り返らなかった。

 御者が鞭を入れ、馬を走らせた。


 遠ざかる教皇庁を、アリアは一度だけ目の端に捉えた。


 それから、前を向いた。



―――



 帝国軍が教皇庁の正門に到達したのは、夕方だった。

 門は開いていた。

 先頭の将校が門をくぐり、広場に馬を進めた。人がいない。建物の扉が開いている。静かだった。


「無人です」


 報告が来た。

 セシリアは馬を進めながら、教皇庁を見上げた。

 石造りの大きな建物だった。天を突くような尖塔。入り組んだ回廊。長い歴史を持つ建物だということが、外観からわかった。


「教皇は逃げたか」


 ハルムが言った。


「足が速い。それと、信者の抵抗があると思ったが、頭が逃げたとなれば、命がけの抵抗もないか」


 セシリアは言った。感情のない声だった。


「追いますか?」

「今は追わない。あれの身柄にどれほどの価値がある?教皇庁を確保することが先だ。各隊に建物の確認をさせろ。罠がないとも限らない」

「はっ」


 セシリアは馬を降りた。

 教皇庁の門をくぐった。


 石畳の廊下。天井が高い。壁に絵が描かれている。ラドン教の神話だろう。光の中に立つ人影。炎を従える神の姿。


 セシリアは立ち止まらずに歩いた。

 やがて、禁書庫の所在を部下が持ってきた。セシリアは禁書庫という響きに興味を持った。

 ひょっとしたら、人がなぜギフトを授かるのか、ということを記した本があるかもしれないと思ったのだ。


「私自らが確認する。誰も――」


 そこで言葉を区切る。


「いや、ラザフォード少尉を呼べ。軍学校では歴史の成績も優秀だったはずだ。古文書の解読なら、少尉がよいだろう」


 適当な理由でジョセフを呼んだ。

 ジョセフは呼ばれたが、理由は聞いていなかった。

 セシリアが先に歩き始めると、ジョセフが後ろからついてきた。


「殿下、どこへ」

「禁書庫だ」


 セシリアは前を向いたまま言った。


「場所は」

「調べてある」


 ジョセフは少し首を傾げた。


「禁書庫ですか」

「ギフトの秘密があるかもしれないだろう。興味はあるか?」

「勿論」


 セシリアは廊下を曲がった。

 先の見えない廊下が続いていた。


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