第66話 野火
夜明け前の偵察で、敵の布陣がわかった。
義勇兵はおよそ一万。丘陵の手前、平原に展開していた。隊列は整っていない。国ごとに集まった寄せ集めで、統一された指揮系統がない。旗の色が、場所によってまちまちだった。
ハルムが地図を指した。
「平原に出てきているのは、こちらを誘い込もうとしているのか、あるいは単純に展開しきれなかったのか」
「後者だろう」
セシリアは言った。
「義勇兵だ。野戦の陣形を組む練度はない。弓兵がいないのも、練度の低い義勇兵ならではだな。数で押す気でいる」
ハルムは地図を眺めた。
「練度が低いとはいえ、数で押されれば、こちらは厳しいですな。三倍から四倍の敵に正面からぶつかれば」
「ぶつからない」
セシリアは風の向きを確かめた。頬に当たる空気の流れ。草の揺れ方。
北西から吹いていた。
「この時期の風は北西から来る。敵は平原に出ている。風上を取れば、火攻めができる」
ハルムは少し眉を動かした。
「……またですか」
「有効な手は繰り返す。それだけだ。それに、烏合の衆であれば、周囲から襲ってくる炎に対し、パニックを起こして逃げるのが遅れるであろう」
セシリアは各隊の将校に目を向けた。
「全軍を横一列に展開する。北西側に並んで、一斉に火を放つ。風が炎を敵陣へ運ぶ。混乱したところを追撃する」
将校たちは顔を見合わせた。
一人が言った。
「燃料が必要では」
「平原の草だ。この季節は乾いている。十分に燃える」
セシリアは地図を閉じた。
「準備を始めろ。風が変わる前に動く」
―――
将兵たちが下がった後、セシリアはジョセフとマルチを呼び出した。
一介の輸送部隊少尉では、先ほどの軍議には参加できないためである。
「敵の兵に対して火計を使うことにした」
「かなり有効ですね」
「だろう。しかし、さらに威力を増すため、力を貸して欲しい」
セシリアはジョセフを上目遣いで見た。
ジョセフは頷く。
それを見るマルチは複雑な表情だった。
「あまり目立たないように、先頭に立つようなことはしませんけど」
「それでよい」
こうして、ジョセフはセシリアの火計にギフトを使うこと承諾した。
―――
セシリアの命令で帝国軍が動くと、義勇兵の陣地からもそれが見えた。
帝国軍が横一列に展開したのを見て、義勇兵の側に動揺が走った。
突撃してくる気か。しかし、距離がある。弓の射程でもない。何をするつもりだ。と動揺する。
そういう顔をしている義勇兵たちを、ジョセフは遠目で見ながら、隊列の中に並んでいた。
周囲には帝国軍の兵士たちが並んでいる。手に松明を持っている者、火打ち石を持っている者、それぞれが火をつける準備をしていた。
マルチが隣に立っていた。
「隊長、いいんですか?」
「並んで火をつけるだけだよ。いいも悪いもないさ」
「それだけ、ですか」
「それだけ」
ギフトの事を口にできず、お互いそうした会話になる。
ジョセフは草原を見た。乾いた草が風に揺れている。北西の風だ。この草原に火をつければ、炎は南東へ向かう。義勇兵が展開している方向へ。
号令が下った。
「放火、始め」
横一列の帝国軍が、足元の草に火をつけ始めた。
最初は小さな炎だった。松明を草に押しつける。火打ち石で火花を散らす。あちこちで小さな炎が生まれた。
そこにジョセフは、そっと手をかざした。
フロギストンを生成する。体の内側から湧き上がる感覚。それを、そのまま草原に向けて、薄く広く散布した。
目立たないように……
隣の兵士たちは気づいていない。
(ばれてはいないか)
そう安堵する。
やったことは、ただ、草の上にフロギストンを乗せる。それだけだった。
炎が、育ち始めた。
「よく燃えるな」
隣の兵士が言った。
「この草、乾いてるからか」
「だろうな」
別の兵士が答えた。
「風もちょうどいい向きだ。運がいい」
「殿下の采配が良かったんだよ」
「まあ、そうだな」
二人は頷き合った。
炎は横一列に繋がっていった。北西から南東へ、風に押されて進んでいく。幅は帝国軍の展開した距離だけある。
ジョセフは炎の列を見ながら、少しだけフロギストンの量を増やした。
炎が少し高くなった。
「さっきより勢いが増したな」
隣の兵士が言った。
「風が強くなったか?」
「そんなでもないが……よく燃えるもんだな」
兵士は首を傾げた。それで終わりだった。
マルチだけが、ジョセフの横顔をちらりと見た。
ジョセフは何も言わなかった。草原を見ていた。
―――
義勇兵の陣に、炎の壁が迫ってきた。
最初は遠くに見える程度だった。草が燃えている。珍しくはない。しかし、それが止まらなかった。広がりながら、こちらへ向かってくる。
指揮官が叫んだ。
「消火しろ、踏み消せ」
消せるような火の勢いではないが、経験のなさがそうさせた。
前列の兵士たちが動いた。しかし、炎の幅が広すぎた。端から回り込もうとしても、炎はそこまで延びてくる。踏み消そうとした兵士の靴が燃えた。
熱風が吹いてきた。
義勇兵たちは顔を覆った。煙が目に染みる。呼吸するたびに喉が痛い。
後列から声が上がった。
「うわー、だめだ。逃げるぞ!」
前列がまだ炎と格闘しているのに、後列が下がり始めた。隊列が崩れた。前列の兵士たちも、炎が迫る中で後ろを振り返った。味方が逃げていく。
恐怖の伝播。
指揮官が怒鳴った。しかし、声は炎の音と混乱の中に消えた。
誰かが走り始めた。
それで終わりだった。
一人が走れば、隣も走る。義勇兵の隊列は、あっという間に崩れた。旗が倒れた。武器が捨てられた。炎から逃げようとする人の波。しかし、それは不規則な波であり、規則正しい時とは全然違う。
ぶつかり、押し合い、倒れこむ。
フェルセンブルクの二の舞であった。
単なる火災以上の被害が生まれた。
―――
「追撃」
セシリアの声が響いた。
帝国軍が動いた。炎が通り過ぎた後の焦げた草原を踏み、逃げる義勇兵を追う。
ジョセフは隊列の後ろで、その光景を見ていた。
義勇兵が逃げていく。帝国軍が追う。遠くで怒号が聞こえる。
「隊長」
ビンが言った。
「俺たちは?」
「ここにいよう。合同訓練もしていないんだ。邪魔になるだけだよ」
「承知いたしました」
隊員はその場で待機する。
ジョセフは草原を見た。炎はまだ燃えていた。煙が空に上がっている。
隣に残ったマルチに話しかける。
「今回は目立たなくていい場面だった。殿下の作戦が機能したことにしておく方が、いろいろ都合がいい」
「その力を公表すれば、隊長の立場も良くなるはずです」
「それはいいよ。僕は今のままでいいんだ」
マルチはしばらく黙った。
「……わかりました」
それだけ言った。
ジョセフは空を見た。煙が風に流されて、南東へ向かっていた。
セシリアの追撃部隊が、丘陵の向こうに消えていった。




