第65話 戦略転換
カイル・モスは地図を前に、しばらく黙っていた。
ポロニウム公国の情報局。その一室は、窓が一つしかない。外の光が斜めに差し込んで、地図の上に影を作っていた。
地図には、いくつもの印が打たれていた。帝国の位置。周辺国の配置。そして、クリプトン帝政軍が敗走したことを示す、消された赤い線。
(フェルゼンブルクか)
カイルは報告書を読み返した。
クリプトン帝政軍、城内で壊滅。オズウィン・ドレヴ将軍、戦死。帝国の使用した手段、火災との情報あり。
火災、という二文字が、カイルの注意を引いた。
オズウィン・ドレヴは水使いのギフト持ちだ。精強で知られるクリプトン帝政軍の虎の子を、帝国が「火災」で葬った。火を水で防げなかった。
報告書だけで、普通の火ではないとわかる。
(我々の知らないギフト持ちか。しかも、水に対して有効な炎を扱う)
思考はすぐにギフト持ちの存在にたどり着く。
カイルは地図から視線を上げた。
窓の外、遠くに山が見える。ポロニウム公国で一番高い山だった。その名をアハトフィアホルンという。ポロニウム公国国民が故郷を思う時、必ず思い出すという、国内のどこからでも見える山だ。
カイルも祖国の為を思い、策略を考えるときに、ついつい見てしまう。
均衡を保て。それが自分の仕事だ。大国が強くなりすぎても、弱くなりすぎても、小国であるポロニウム公国の生存空間が狭まる。
問題は、今の状況だった。
討伐連合は崩れかけている。クリプトン帝政軍が脱落した。残る主力はハイドロジェン王国軍と、ラドン教皇領の義勇兵。その他の国は国力が小さく、帝国の脅威とはならない。ポロニウム公国も派兵してはいるものの、帝国を占領したところで、そこに置く兵士がたりない。
そんな状況だが、ラドン教の義勇兵は烏合の衆だ。帝国の正規軍に正面からぶつかれば、じきに崩れる。これがラドン教騎士団なら話は別だが、今回彼らは動いていない。主たる任務が教皇領の防衛であるためだ。
となると、ハイドロジェン王国が踏ん張れるかどうかが、鍵だった。
しかし――
(帝国を攻めても、連合軍に勝ち目は薄い)
カイルは地図を指でなぞった。
戦場では帝国が優勢になりつつある。しかし、帝国の内側は腐っている。派閥争い。宗教対立を機に、略奪に走る貴族。戦場の勝利が、必ずしも帝国の強化に繋がらない。
ならば……
(戦場で帝国を倒すのをやめる)
カイルは静かに結論を出した。
外から叩くのではなく、内側を揺さぶる。帝国の弱点は、外にある敵ではなく、内にある対立だ。
手段は一つある。
カイルはペンを取り、別の紙に何かを書き始めた。
―――
ハイドロジェン王国の農村出身の兵士たちの不満が溜まっていた。
もともと、貧しい土地だった。痩せた土壌。短い農期。税は重く、収穫は少ない。それでも、何とか暮らしていた。
しかし、遠征が続いた。
農村の若い男たちが兵として取られた。残ったのは老人と子供と女だった。春の種まきの時期に、働き手がいない。麦の収穫が、例年の半分以下になった。
それでも、税は変わらなかった。むしろ、増やす方向に動いていた。度重なる遠征が国家の財政をひっ迫させ、それを補うための増税。
冬が来た。食糧が足りなかった。
兵士たちは遠く故郷を離れた場所で、重い鎧を着て、帝国との戦いに備えていた。故郷の家族が飢えているかもしれないと知りながら。
その不満に、誰かが火をつけた。
きっかけは、一人の将校だった。
「我々は、誰のために戦っているのか」
夜の焚き火の前で、若い将校が言った。貧農の出身だった。軍に入ったのも、食べるためだった。
「領主である貴族は増税を続ける。農村は疲弊している。我々の家族は飢えている。君側の奸を排除し、家族に食糧を」
誰も止めなかった。
「王都の人間に、農村の声を聞かせる必要がある。剣を向けるのではない。ただ、声を届けるために、立ち上がる必要がある」
その言葉が、伝わった。
農村出身の兵士たちの間で、静かに広まった。
―――
エリオット・バークレーに知らせが届いたのは、夜明け前だった。
「将軍、本国から緊急の使者が」
エリオットは天幕を出た。使者は馬を乗り潰してきたような顔をしていた。封書を差し出す手が震えていた。
エリオットは封を開けた。
読みながら、顔色が変わった。
「……クーデターか」
ドルトンが隣で封書を覗き込んだ。
「農村出身の将校と兵士が、王都近郊に集結しつつあると。農村への増税撤廃と、遠征の中止を要求して」
「政権を狙ったものではない、と書いてある」
エリオットは封書を閉じた。
「しかし、陛下は動揺されている。帰還して事態を収拾せよ、という命令だ」
ドルトンは少し間を置いた。
「……将軍、これは」
「わかっている」
エリオットは静かに言った。
「仕掛けられたのだろうな」
ドルトンは地図を見た。ハイドロジェン王国の農村地帯。王都の位置。帝国との前線。
これが帝国の策であれば、撤退戦の追撃は激しいものとなるだろう。してやられたという気持ちでいっぱいだった。
その気持ちが、ポロニウム公国が本当の犯人であるということにたどり着かせなかった。
「帰還すれば、この戦線が崩れます。帝国にとって、北西の圧力が消える」
「わかっている」
エリオットは繰り返した。
「しかし、命令だ。王命に逆らえば、それはそれで国内が割れる。それこそ敵の思うつぼ」
エリオットはドルトンを見た。
「お前はどう見る」
「してやられましたな。まさか、このような策をとるとは……」
ドルトンは静かに言った。
エリオットは天幕の外を見た。
夜明けの空が、白み始めていた。
「……全軍に伝えろ。帰還の準備を始める、と」
ドルトンは頷いた。
エリオットは封書をもう一度見た。
遠くで、帝国側の陣営から、朝の炊事の煙が上がり始めていた。
―――
カイルは窓の外の山を見ていた。
報告が来るのを、待っていた。
均衡を保て。それだけでいい。
帝国が強くなりすぎれば、周辺国が飲み込まれる。しかし、帝国が弱くなりすぎれば、各国が争い始める。どちらも、ポロニウム公国のような小国には都合が悪い。
今必要なのは、帝国を少し削ることだ。
外から叩くのではなく、内側の矛盾を育てる。セシリアの台頭と、ルーカスの孤立。手柄を立てた皇女と、手柄のない将軍。派閥の綱引きが、また激しくなる。
エリオット将軍が帰還すれば、北西戦線が崩れる。ルーカスは勝てなかったという評価が残る。セシリアとの対比が、帝国内の権力闘争を加速させる。
(戦術が戦略を覆した)
カイルは静かに思った。
フェルゼンブルクの一戦が、討伐連合の戦略を変えた。しかしそれ以上に、カイルの描いた新しい戦略が、帝国の内側を揺さぶる糸口になる。
誰がその炎を起こしたのか、カイルはまだ知らなかった。
しかし、いずれ知ることになる、と予感していた。
山の雪が、朝の光を受けて白く輝いていた。




