第64話 逆侵攻
ハートフィールド侯爵の書斎に、グレアムの姿があった。
二人の前には、戦況の報告書が広げられていた。フェルゼンブルクの一戦。クリプトン帝政軍の敗走。オズウィン・ドレヴの戦死。
侯爵は報告書を置いた。
「……無傷の勝利、か」
「はい」
グレアムは静かに言った。
「セシリア殿下の南東方面軍、損耗はほぼゼロです。敵将を討ち取り、連合軍の主力の一翼を壊滅させた。帝国内での評価は、さらに上がるでしょう」
侯爵は腕を組んだ。
「グレイは北西でエリオットと睨み合ったまま、手柄らしい手柄がない。そのあいだに、セシリアが大戦果を挙げた。帝国内の民心が、どちらに向くかは明らかだ」
「問題は、このままでは困るということです」
グレアムは言った。
「セシリア殿下が無傷で大勝利。次の戦でも同じことが続けば、殿下の求心力は盤石になります。我が派閥は戦力温存のため、前線には出ておりませんが、それがあだになるかもしれません。アントワネット殿下の即位のためにも、セシリア殿下には勝ちすぎてもらっては困るのです」
「まずいな……」
侯爵が言葉を引き取った。
「多少なりとも損耗してもらわねば困る。勝ちすぎる将は、脅威になる。適度でよいのだ」
グレアムは頷いた。
「手はあります。セシリア殿下に、逆侵攻を命じればいい。クリプトン帝政軍を追って敵地に踏み込ませる。疲弊した兵を、補給の整わないまま敵地に送り込む。うまくいけば損耗が出ます」
「うまくいかなければ?」
「グレイの無能さを引き立てることでしょう。ただ、いきなりの遠征は、損耗無しというのはありえません」
グレアムは淡々と言った。
「しかし、どちらに転んでも、我々には都合がいい」
侯爵はしばらく黙った。
それから、静かに立ち上がった。
「ルドルフ陛下の勅命が必要だな。アントワネット殿下に話を通す必要がある」
「はい。そこからクラウディア妃へと話てもらわねばならないでしょう」
グレアムは書類を閉じた。
「閣下、お急ぎを。戦況は動いています」
―――
アントワネットがクラウディアの執務室を訪れたのは、その日の午後だった。
侍女を下がらせ、二人きりになった。
「皇后陛下」
アントワネットは言った。普段の華やかさを抑えた、静かな声だった。
内心は皇后などと呼びたくないのだが、今は実利のためにそれを我慢していた。
「セシリアのことで、ご相談があって参りました」
クラウディアは書類から目を上げた。
「聞こう」
「フェルゼンブルクの戦果はご存知のことと思います。南東方面軍、損耗なし。敵将討ち取り。クリプトン帝政軍を壊滅させました」
「知っている」
「グレイ将軍の北西戦線は、いまだ膠着状態です。手柄らしい手柄はありません」
クラウディアは何も言わなかった。
「妃殿下、陛下が即位されたばかりのこの時期に、皇女が大勝利を重ねるのは……いかがなものかと」
アントワネットは続けた。
「民心は戦果に動きます。セシリアが無傷で勝ち続ければ、帝国の民は皇女を仰ぐようになる。陛下への忠誠より、セシリアへの期待が先に立つ。それは、陛下のためになりません」
クラウディアは少し間を置いた。
「それで」
「逆侵攻を命じてはいかがかと。敵地に踏み込ませれば、損耗は避けられません。勝てば御の字。多少の損耗が出れば、セシリアも無傷ではなくなる」
クラウディアはアントワネットを見た。
この女が、純粋に息子のことを心配しているのか。それとも自分自身のために動いているのか。どちらかは、明らかであった。
しかし、言っていることは正しかった。
即位したばかりの皇帝の傍らで、皇女が英雄になる。それは、好ましくない。
「……わかった」
クラウディアは言った。
「命令を出すよう、陛下に進言しよう」
アントワネットは静かに一礼した。その目の奥に何があるものを、クラウディアは呑み込むことにした。
―――
命令書は、簡潔だった。
クリプトン帝政軍の敗走を受け、帝国南東方面軍はただちにクリプトン帝政領への逆侵攻を開始せよ。セシリア・フォン・オキシジェン皇女はその指揮をとること。
それだけだった。
セシリアは命令書を一度読んで、机の上に置いた。
カリナが傍らで待っていた。
「馬鹿な命令を――」
「殿下」
「わかっている」
皇帝に対し馬鹿という言葉を使ったことを諫められたセシリアは、少し肩をすくめておどけてみせた。
セシリアは窓の外を見た。フェルゼンブルクの方角だ。街中は使えるような状況ではなく、今は城外に陣を敷いて、撤退許可が出るのを待っていた。
しかし、先ほど判明したように、撤退ではなく進軍せよという命令。
逆侵攻――
論理としては筋が通っている。敵が敗走した直後は、態勢を立て直す前に追い込むのが定石だ。この命令に、表向きの不合理はない。
しかし――
(早すぎる。こちらとて、遠征の準備は整わないだろう)
フェルゼンブルクの戦闘が終わったのは数日前だ。兵は疲弊している。補給線の整備も追いついていない。敵地への侵攻は、防衛戦とは条件が全く違う。
それを皇帝は知らないのか。
知らないだろう、とセシリアは思った。
別の誰かが知っていて、出した命令だ。
アントワネット姉上か。あるいはクラウディア妃か。どちらが先に動いたかはわからない。しかし、この命令の意味はわかる。
勝ちすぎた。
それだけのことだった。
「ハルムを呼んでくれ」
「はい」
カリナが部屋を出た。
セシリアはもう一度、命令書を見た。
従う以外に選択肢はない。皇女といえど、統帥権を持った皇帝の命令に背くことはできない。今は特に。外にも内にも敵がいる状況で、内側の命令に逆らえば、それ自体が失脚させられる口実になる。
ため息をつく代わりに、セシリアは地図を広げた。
クリプトン帝政の国境。その先の地形。進軍ルート。
罠だとわかっていても、入るしかない罠がある。
ならば、できるだけ被害を少なくして出る方法を考える。それだけだ。
―――
ハルムに命令の内容を伝えると、老将はしばらく黙っていた。
「……逆侵攻、ですか」
「そうだ」
「兵の疲労が」
「わかっている」
「補給が」
「わかっている」
ハルムはセシリアの顔を見た。
「殿下は、この命令をどう」
「従う」
セシリアは地図を指した。
「クリプトン帝政の国境までは平野が続く。入ってから先は丘陵地帯だ。深入りはしない。国境を越えた時点で陣を張り、様子を見る。兵の損耗を最小限に抑えながら、命令の体裁を守る」
「帝都はそれで納得しますか」
「しなくても構わない」
セシリアは地図から目を上げた。
「命令には従った。それで十分だ。深追いして全滅するより、損耗を抑えて帰還する方が、帝国のためになる」
ハルムは少し間を置いた。
「……命令の意図は」
「聞くな」
セシリアは短く言った。
ハルムは頷いた。それ以上は聞かなかった。
そして、ジョセフを呼びだす。
「殿下、お呼びでしょうか?」
「ああ。逆侵攻の命令が出た」
「では、我が部隊は輸送の任務に戻ることに?」
「いや、輸送はいい。一緒に来てもらう」
セシリアはジョセフのギフトをもう一度使うことを考え、輸送任務には戻らせなかった。
ジョセフは肩を落とす。
「嫌か?」
「ええ、まあ。気楽な輸送部隊だと思っていたのですがね」
「そう言うな。私とずっと一緒なのだぞ。嬉しいだろう?」
「三千世界の鴉を殺し、殿下と朝寝がしてみたいと思っていたところです」
「聞きなれないプロポーズだな」
「そうでしょうとも。小官のオリジナルですから」
流石に高杉晋作というわけにはいかず、でまかせを言うジョセフ。
こうして強制的にセシリアに同行することになった。
―――
軍が動き始めたのは、翌朝だった。
国境までの道は、思ったより静かだった。クリプトン帝政軍の残兵が散発的に現れたが、組織的な抵抗ではなかった。敗走した軍の残滓だった。
国境を越えた。
丘陵地帯に入った途端、空気が変わった。
斥候が戻ってきた。顔が青かった。
「殿下、前方に大規模な部隊の気配があります」
「クリプトン帝政軍か?」
「それが……旗が、ラドン教のものです」
陣内に緊張が走った。
ハルムが眉を寄せた。
「ラドン教の義勇兵か。教皇令に応じた連中が、クリプトン帝政領に集結していたということか」
「数は?」
セシリアが聞いた。
「……概算で、我が軍の三倍から四倍かと」
沈黙があった。
セシリアは地図を見た。丘陵地帯。前方に大軍。後方は国境までの平野。
帝都からの命令が、頭にあった。
(やはり、そういうことか)
敗走したクリプトン帝政軍を追って深追いさせ、待ち構えた大軍にぶつける。そういう絵だったのだと思った。
実は、これは勘違いである。
正規軍と違い、準備に手間取った義勇兵は、やっとここまで来ていたのだった。
だが、セシリアの恨みは帝都に向く。
クラウディア妃は知っていたのか、知らなかったのか。アントワネット姉上は。
「全軍、停止」
セシリアは命じた。
「陣を張れ。ここから動かない」
「しかし、命令では――」
将校の一人が言いかけた。
「命令は逆侵攻だ。侵攻はした。今は陣を張って状況を見極める段階だ。やみくもにぶつかったところで、被害が拡大するだけ。まずは相手を確認せよ!」
セシリアは将校を見た。
「三倍の敵に突撃して全滅することが帝国への忠義か?」
将校は黙った。
ハルムが動いた。
「各隊、陣形を組め。斥候を四方に出す。補給線を確認しろ」
軍が動き始めた。
セシリアは丘陵の先を見た。見えないが、そこに大軍がいる。




