第63話 夜明け
セシリアは丘の上に立っていた。
フェルゼンブルクまで、馬で半刻ほどの距離だ。街は見えないが、夜空が見えた。
その夜空が、赤かった。
最初に火の手が上がったのは、真夜中を少し過ぎた頃だった。地平線の向こうが、じわりと橙色に染まり始めた。最初は小さかった。しかし、それはすぐに大きくなった。
そして、炎の渦が立ち上がった。
街一つを飲み込むような巨大な炎の柱が、夜空に向かって伸びた。渦を巻きながら、回転しながら、暗黒の夜空を紅に染めていく。遠く離れた丘の上からでも、その規模がわかった。熱気までは届かなかったが、光は届いた。
陣内が静まり返った。
誰も声を出さなかった。あれほどの炎を、誰も見たことがなかったから、見る者から言葉を奪ったのだ。
「ドレヴ将軍に、火で……」
ハルムが呟いた。
老将の声には、驚きがあった。信じていなかったわけではない。しかし、目で見ると話が違った。
「信じられん。消火されないのか……」
セシリアは答えなかった。
炎の渦を見ていた。渦は衰えなかった。むしろ、時間が経つほど大きくなっていくように見えた。街全体が燃えているのだろう。夜空の赤みが、じわじわと広がっていた。
(頼んで、よかった)
セシリアは思った。
あの炎の中に、ジョセフがいる。マルチがいる。帰ってくると言った。信じると決めた。
だから、待つ。
「殿下」
カリナが隣に来た。
彼女は戦場にも随行する。そして、主が起きているなら、このような夜中でも寝ずに職務を果たす。
「寒くなってきました。上着を」
「いらない」
セシリアは炎から目を離さなかった。
その熱が伝わってくるようで、夜の寒さなど微塵も感じていなかった。
―――
報告が来たのは、夜明け前だった。
「南門偵察隊より連絡です。クリプトン帝政軍、敗走確認。隊列を維持できず、南東方向へ潰走中とのことです」
伝令の声が、陣内に響いた。
どよめきが起きた。
将校たちが顔を見合わせた。歓声を上げる者もいた。信じられないという顔をする者もいた。あの炎を見た後では、当然といえば当然かもしれなかった。しかし、それでも。
クリプトン帝政軍が、敗走した。
ハルムが深く息を吐いた。
「……勝った、のか」
「まだだ」
セシリアは言った。
「敗走した敵は、立て直す前に叩く。夜明けを待って追撃をかける。各隊、準備を始めろ」
陣内が動き始めた。
―――
ジョセフとマルチが戻ってきたのは、空が白み始めた頃だった。
二人とも煤だらけだった。軍服が黒ずんでいる。マルチは髪の先が少し焦げていた。
一介の少尉を皇女であるセシリアが出迎える。
しかし、ここに異を唱える者はいなかった。誰もがジョセフの功績を認めているからである。ただ、それはギフトではなく火を放ったという認識ではあったが。
「ラザフォード少尉、帰還しました」
ジョセフは敬礼した。
「オズウィン・ドレヴ将軍を討ち取りました」
周囲が静かになる。
誰もが思考がついていかなかったのだ。火災が消火されなかった時点で、オズウィンは敗走したと思っていた。しかし、ジョセフの口から出たのは討ち取ったという事実。
それから、どっと声が上がった。
セシリアはジョセフを見た。煤だらけの顔。目の下に疲れがある。しかし、立っている。怪我はなさそうだった。
「ご苦労だった」
セシリアは言った。
「よくやってくれた」
ジョセフは少し間を置いた。
「あの、殿下」
「なんだ」
「疲れたので、寝てもいいですか」
周囲の将校たちが、一瞬固まった。
セシリアは少し目を瞬かせた。それから、口の端が動いた。
「……許可する。好きなだけ寝ろ」
「ありがとうございます」
ジョセフはそのまま、近くの天幕に向かって歩いていった。
マルチがその後ろをついていった。当然のような顔で。
ハルムが、こほんと咳払いをした。
「……殿下、追撃の準備が」
「わかっている」
セシリアは視線をジョセフの背中から外した。
「各隊、夜明けと同時に動く。私は部下に追撃を任せ、フェルゼンブルクの状況確認に向かう。ハルム将軍は追撃の指揮を。また、夜通し警戒に当たっていた者たちは休ませろ。無理はさせるな」
「はっ」
ジョセフはセシリアがフェルセンブルクへと向かう背中を見送ると、マルチに話しかけた。
「さて、マルチ副官。我々は寝ようとしようか」
「お供いたします」
マルチはとびっきりの笑顔でこたえた。
―――
夜が明けた。
セシリアがフェルゼンブルクに入ったのは、朝の光が差し始めた頃だった。
城門をくぐった瞬間、言葉が出なかった。
街が、なかった――
正確には、形はある。石造りの壁が残っている建物もある。しかし、内側が空洞だった。燃え尽きていた。石畳の上に、黒い灰が積もっていた。まだ熱を持っている場所がある。踏むたびに、煙が上がった。
武器があった――
剣だった。いや、剣だったものだ。刃が溶けて、石畳に張り付いていた。鉄が溶けていた。鎧も同じだった。形を失って、広がっていた。
持ち主は、消し炭だった。
セシリアは立ち止まった。
兵士の形をしたものが、そこにあった。鎧の輪郭だけが残っていて、中身は炭だった。熱の凄まじさが、形からわかった。
周囲の将校たちは、口を開かなかった。
誰かが小声で言った。
「すさまじい火事だったんですな」
そうだ、とセシリアは思った。
この人たちには、そう見える。
大きな火災があって、街が燃えた。不幸な偶然と、うまく重なった炎の動きが、こういう結果を生んだ。そう思っているのだろう。
しかし、セシリアは知っていた。
これは火災ではない。
一人の人間が、この街を意図して燃やした。周囲の炎を制御し、気流を読み、城壁の中に閉じ込めた熱を武器にした。それを、ジョセフ・ラザフォードが、一晩でやってのけた。
鉄が溶けている――
鉄は高温にならないと溶けない。一度製鉄所を見学したことがあったが、あの時の熱気を思い出すと、ここがどれほど高温だったのかがわかる。鉄を溶かす、それだけの熱が、この街の中を満たしていた。
セシリアは溶けた剣を見た。
怖い、と思った。
美しいとも思った。
しかし、怖いという感覚の方が先だった。この力を、あの男は持っている。そしてあの男は、この力をセシリアのために使った。
(頼んで、よかった。しかし、無理をさせてしまったな。実家の兄弟との確執。これだけの力を持っていながら、隠して生きているのに――)
ジョセフの事を思うと胸が痛んだ。
(初代皇帝は俯仰天地に愧じずと言ったそうだが、私はどうもそうはなれないようだ……)
空を見上げ、自嘲する。
セシリアはそんな思いを抱えながら、炭になった城壁の内側を歩いた。
風が灰を巻き上げた。
「クリプトン帝政軍の将軍の階級章を見つけました!」
という報告が飛び込んでくる。
オズウィンの燃えカスから、やや溶けてはいるものの、なんとか判別できる階級章が回収された。
これにより、オズウィン・ドレヴの死亡は公式なものとなった。




