第61話 火災旋風
南門から入ったクリプトン帝政軍は、慎重だった。
先頭の部隊が盾を構えながら進み、建物の陰を確認してから次の部隊が続く。路地の一本一本をしらみつぶしに確認しながら進むため、動きは遅い。しかし、オズウィンはそれを急かさなかった。
無人の街は、静かすぎた。
足音が石畳に響く。風が看板を揺らす。それだけだ。伏兵の気配はない。しかし、だからこそ、警戒を緩めるわけにはいかない。
日が傾き、橙色の光が石造りの建物を染め始めた頃、副官が報告に来た。
「将軍、街の南と中央からやや北までの確認が完了しました。伏兵の痕跡はありません」
「残りは?」
「日が暮れます。夜間の索敵は危険が増します」
オズウィンは空を見た。茜色が紺へと変わりつつある。
「今夜はここで休む。夜襲に備えて見張りを倍にしろ。残りは明朝に確認する」
「はっ」
クリプトン帝政軍は、フェルゼンブルクの中央広場に陣を張った。
―――
夜が深くなった。
兵士たちの多くは眠っていた。疲労からではなく、命令だった。オズウィンは戦闘前に兵を休ませることを徹底する。眠れなくとも横になれと言う。体を休めるだけでも違うからと。
見張りだけが、暗い街を眺めていた。
月が出ていた。雲のない夜だった。石畳が月光を反射して、街全体が薄く光っているように見える。
見張りの一人が、北の方角を見た。
何もなかった。
暗い建物が並んでいるだけだった。
―――
日が変わる頃、ジョセフは動いた。
北西部の主のいなくなった民家で、マルチと二人、息を潜めていた。敵の索敵はここまで来なかった。藁の束は準備した場所にそのままある。
「風は」
マルチが小声で言った。
「変わっていない。北西から吹いている」
ジョセフは手を出した。頬に当たる空気の流れを確かめた。
変わっていない。この風なら、火は南東へ向かう。敵が陣取る中央広場へ。
ジョセフは目を閉じた。
フロギストンを生成する。体の内側から、何かが湧き上がってくる感覚。炎の素になるもの。それを集める。
以前は、もっと嫌な感覚があった。
ギフトを使うたびに、何かが削れていくような、体の芯が軋むような感覚。炎に触れることへの本能的な拒絶感。そこから生じるフロギストンの嫌な臭い。実際には無臭であるが、気持ちが臭いを感じさせていた。
しかし今夜は、それが薄かった。
(慣れたのか?)
ジョセフは少し考えた。
慣れた、というのが正確かどうかはわからない。ただ、以前ほど嫌ではない。炎が自分の一部であるという感覚が、以前より自然だった。
敵を焼くことへの抵抗も、同じだった。
一度目に炎のギフトを使ったとき、ジョセフは吐いた。人が燃える光景に、体が拒絶した。
しかし今夜は、その感覚も薄い。
その存在を否定されたフロギストンが、俺はここにいるぞと存在をアピールしたくて、外に飛び出そうとしていることに同調するかのような気持ちの変質。
(俺は変わっているのか)
答えは出なかった。
出す必要もなかった。今夜やるべきことは、決まっている。
「行きます」
マルチが小声で言った。確認ではなく、覚悟を口にしたような声だった。
「ああ」
ジョセフは藁の束に手をかざした。
―――
最初の炎は、小さかった。
藁が燃え始め、その火が隣の束へ移る。木造の軒先へ。乾いた板張りの壁へ。
静かな街に、パチパチという音が響いた。
ジョセフは次の束に火をつけながら、北西へと移動した。風上に炎を置く。北西から吹く風が、炎を南東へ押していく。
次々と生成されるフロギストンは、その炎目掛けて飛んでいく。
マルチが後ろをついてくる。二人は声を出さなかった。
炎が育っていった。
一軒が燃え、隣が燃え、通りが燃える。石造りの壁は燃えにくいが、木の窓枠が燃え、屋根の梁が燃え、内部から崩れていく。
橙色の光が、夜の街を照らし始めた。
―――
最初に気づいたのは、見張りだった。
「火だ……っ」
北の方角が、赤く染まっていた。
それが、津波のような速さで襲ってくる。たちまちフェルゼンブルグの中央までが、巨大な炎につつまれた。
広場に怒号が飛んだ。兵士たちが跳ね起きる。武器を掴む。しかし、何をすればいいかわからない。炎は巨大だ。消火しようにも、水が足りない。
「落ち着け」
オズウィンは広場の中央に立っていた。すでに目が覚めていた。炎の光が顔を照らす。
「北から来る。南門へ向けて撤退する。隊列を整えろ。俺が時間を稼ぐ」
水のギフトを持った指揮官がいることに、兵士たちは安堵して、落ち着きを取り戻す。
命令は的確だった。しかし、炎の広がりが速すぎた。それに、勢いも。
一つの通りが燃えていたのが、気づけば三つになっていた。さらに五つになった。炎が建物から建物へ飛び移る速度が、人間の走る速度を超えていた。
熱風が広場に流れ込んできた。
兵士たちが顔を覆った。空気が焼けている。呼吸するたびに、肺が痛い。
ある兵士は絶命の瞬間に、自らの金属鎧が溶けるのが目に入った。驚く間もなく命が燃え尽きたが。
火災はやがて、炎の竜巻となって、逃げる兵士たちを呑み込むようになる。
火災旋風によって発生する、炎の渦だった。
周囲の音が変わる。炎の音ではなかった。もっと低く、もっと大きな音だった。
渦を巻く風の音だった。
誰かが叫んだ。
「竜巻だ……っ!」
空を見た兵士は、その光景を生涯忘れなかった。
炎が、渦巻いていた。
街の中央に向かって、炎が集まっていた。建物から吹き出す熱気と、北西からの風が絡み合い、巨大な炎の渦が立ち上がっていた。高さは建物を遥かに超え、夜空を赤く染めながら、回転しながら成長していく。
渦は周囲の空気を巻き込んだ。炎だけでなく、風そのものが凶器になった。
隊列を組もうとしていた兵士たちが、足をすくわれた。軽い者が転がった。重い鎧を着た者が、それでも体を保てずによろめいた。
圧死が起きたのは、その直後だった。
逃げようとした兵士たちが南門へ殺到した。狭い城門に人が集中した。押され、倒され、踏まれた。炎に焼かれるのではなく、人に押しつぶされた者が出た。
フェルセンブルクは地獄だった。
―――
オズウィンはギフトを発動した。
水だ。無から水を作り出し、自分の周囲に水の壁を作る。炎が近づけば、水が蒸発して熱を奪う。
しかし――
(これは……)
炎の勢いが、想定を超えていた。
水の壁を作るそばから、熱気が蒸発させていく。水が追いつかない。炎が水を押している。消火できない。
オズウィンは奥歯を噛んだ。
自分の周囲だけを守るのが、精一杯だった。水の膜を薄く広く張って、炎の直撃だけを防ぐ。それが限界だった。
火事の現場では、何度もこのギフトで消火できた。
なのに、今回の炎は消えない。
困惑と焦りから、オズウィンの額には汗が流れていた。
そんな時、ふと気づく。
オズウィンは水の壁の向こうを見た。
誰かがいる。
水の外側に、人影が見えた。こちらを見ている。動いていない。ただ、立っている。
この炎を起こした者だ、とオズウィンは直感した。
(水で消えない炎。おそらくはギフトによるもの)
これが、帝国の切り札か。
セシリアではない。別のギフト持ちがいた。
オズウィンは人影を見つめた。人影も、オズウィンを見ていた。
炎が、二人の間で渦を巻いていた。




