第60話 火葬の準備
フェルゼンブルクは、静かだった。
人の声がない。荷車の音がない。犬の鳴き声も、子供の笑い声も、厨房から漂う食事の匂いも、何もない。
石畳の広場に風が吹き抜け、誰もいない露店の布をはためかせた。扉の開いたままの家がある。急いで出ていったのだろう、水桶が道の真ん中に置き去りにされていた。
ジョセフは荷台から降り、広場を見回した。
「……本当に誰もいない」
ビンが呟いた。
「殿下の退避命令、ちゃんと行き届いたんですね」
「ああ」
ジョセフは風の向きを確認した。頬に当たる感触。木の葉の揺れ方。
北西から吹いている。予報通りだった。
「藁は北西部に置く。この時期の風を使う」
オキシジェン帝国、いや、ジョセフにとって幸いなのは、この時期は北西の風がふくことである。南から攻めてくる敵にしたいして、風上を取ったうえでの火計は効果が大きくなる。
隊員たちが荷台から藁の束を降ろし始めた。
ビンが一束を抱えながら、ジョセフに聞いた。
「……隊長」
「なんだ」
「本当に、ここを燃やすんですか」
石畳。古く歴史のありそうな家々。何百年も人が暮らしてきた街並み。
ビンはその景色を見ながら言った。声に責める気持ちはなかった。ただ、確認したかっただけのようだった。
ジョセフは頷いた。
「火は死なない兵士だから。僕らが直接敵と戦うより、よっぽど良いだろ?」
ビンは少し黙った。
「……承知しました」
それだけ言って、藁を抱えて歩き始めた。
―――
クリプトン帝政軍の先頭部隊から、報告が上がってきた。
「将軍。フェルゼンブルク、もぬけの殻とのことです」
副官が言った。
オズウィンは馬上で、しばらく黙っていた。
「もぬけの殻」
「はい。城門は開いており、城壁の上に見張りの姿もなく、住民の気配もないと」
オズウィンは前方を見た。地平線の向こうに、フェルゼンブルクの城壁の影がある。
(怪しい。露骨すぎる)
オズウィンは訝しんで、進行方向を眺めた。
フェルゼンブルクよりも守りに向いた場所など、この地域には存在しない。帝国がここを捨てるとは考えにくい。しかも、交通の要衝でもある。
仮に、帝国が反攻作戦を計画していたとしても、フェルセンブルクを自分たちがおさえていれば、物資の輸送にも大きく影響する。
それに、取り返そうとすれば多大な被害を生じるはず。
しかし、そんな重要な場所が無人だという。
罠だ、とオズウィンは思った。疑う余地がなかった。
だが――
「城塞都市を、無血で占拠できる」
オズウィンは静かに言った。副官が聞いた。
「将軍?」
「罠ならば、罠ごと食いちぎる」
たとえ罠だとしても、自分のギフトなら乗り越えられると考えた。
それに、ここを見逃せば、戦後に何を言われるかわかったものではない。
そうしたことから、オズウィンは馬を進めた。
「全軍、進め。城内に入ったら警戒を怠るな。しかし、止まるな」
副官は一瞬だけためらった。しかし、オズウィンの背中を見て、頷いた。
「はっ」
クリプトン帝政軍が、フェルゼンブルクへ向けて動き始めた。
―――
「隊長」
マルチが言った。
「みんなを下がらせてから、隊長も一緒に出るんですよね」
ジョセフは北西の建物に最後の藁束を置きながら答えた。
「僕はもう少し残る。火をつけてから出る」
「なら、私も残ります」
ジョセフはマルチを見た。
「マルチまで残る必要はない」
「隊長一人を残して下がれるわけがないじゃないですか」
マルチは譲らなかった。
ジョセフは少し考えた。マルチの目を見た。説得できる目ではなかった。
「……わかった。マルチだけだ。他の全員は、セシリア殿下たちのところまで下がれ」
ビンたちは顔を見合わせた。
「隊長と副官だけ残して……」
「俺が火をつけたら、すぐに出る。マルチと二人ならむしろ動きやすい。心配するな」
ジョセフはビンの肩を叩いた。
「お前たちは殿下のところで待っていてくれ。終わったら合流する」
ビンはまだ何か言いたそうだったが、結局頷いた。
「……わかりました。絶対に来てくださいよ」
「ああ」
隊員たちが城門の方へ歩き始めた。ジョセフはその背中を見送った。
静かになった。
マルチとジョセフの二人だけが、街に残った。
マルチはジョセフの顔を見る。
「ここには二人だけ。そろそろ、ギフトをどう使うのかを教えてもらえますか?」
「わかったよ」
ジョセフは火災旋風についてマルチに説明を始めた。
北西の風が、変わらず吹いていた。




