第59話 孤軍
北西戦線の野営地は、静かだった。
静か、というのは正確ではないかもしれない。遠くでは斥候の報告が行き交い、兵士たちが陣の整備をしている。しかし全体として、張り詰めた静けさがあった。決戦前の、息を詰めるような空気だ。
エリックは天幕の中で書類を確認しながら、ルーカスに言った。
「セス、オーガスト、マーカスの三名を他戦線に回したことは、やはり痛いと思いますが」
「そうか」
ルーカスは地図を見たまま答えた。
「エリオット将軍くらいなら、俺一人で十分だろう」
「将軍一人で十分かどうかの問題ではなく」
「国内にも敵がいる状況で、派閥の勢力を割く危険性はわかる」
ルーカスはエリックを見た。
「しかしだ。今帝国は周辺国すべてから攻められている。どの戦線も人手が足りない。有能な指揮官を一か所に集めておく余裕はない。セスは南部の側面を抑えられる。オーガストは補給線の防衛に向いている。マーカスは中央戦線の穴を埋められる。それぞれ適所だ」
エリックは少し黙った。
「……将軍が、ここで負けたらどうするんですか」
「負けない」
ルーカスは地図に目を戻した。
「エリオット将軍は優秀だ。経験も豊富で、判断が速い。しかし、俺の敵ではない。この前の戦いでみただろう?」
ルーカスは先の戦闘でエリオット将軍に勝利した。しかも、わざととどめを刺さずに逃がしている。だからこそ、今のように心に余裕があるのだ。
エリックはため息をついた。
「……将軍がそう言うなら」
「お前は後方の指揮を頼む。俺が前に出るあいだ、兵の動きを止めるな」
「承知しました」
エリックは書類を閉じた。
それから、少し間を置いて言った。
「セスたちを送り出すとき、将軍に文句を言っていましたよ。なぜ自分たちを外すんだ、と」
「知っている」
「将軍が一人で戦うつもりだと気づいて、余計に怒っていました」
ルーカスは何も言わなかった。
窓の外の空を、一度だけ見た。
―――
ハイドロジェン王国軍の野営地に、不審者の報告が入ったのは夜のことだった。
「将軍、怪しい者を捕らえました。帝国側から接近していたと」
エリオット・バークレーは報告を受け、捕縛された二人を引き合わせた。
一人は中年で太っている男だった。年齢は三十代か四十代。どう見ても戦場に似合わない人物だった。
もう一人は、若い男だった。こちらは貴族らしい品のある服装で、顔立ちも整っている。しかしその目は、どこか落ち着きがなかった。
「名を名乗れ」
エリオットが言った。
「ダニエル・プリーストリーと申します」
若い男が答えた。声は落ち着いていた。
「こちらはアッテンボローと。帝国の者ですが、敵対するつもりはありません。将軍にお伝えしたいことがあって参りました」
「密書を持っていたな」
エリオットは言った。捕縛時に見つかった封書を、副官が持っている。
「はい。将軍にお渡しするつもりでした」
ダニエルは動じなかった。
「中身を確認した。兵糧の数、人員の配置、補給線の詳細。これは帝国の軍事情報だ。なぜそれをこちらに渡そうとする」
「グレイ将軍の戦力を、正確に把握していただきたかったからです」
ダニエルは静かに言った。
「帝国は一枚岩ではありません。グレイ将軍は帝国の実権を握りつつありますが、それを快く思わない者たちもいる。私どもは、グレイ将軍とは別の利害を持つ帝国人です」
これはグレアムの指示であった。仮にルーカスが討たれたとしても、帝国にはまだセシリアがいる。そして、ルーカスが勝つにしても被害は大きくなるという目論見だった。
エリオットはしばらく二人を見ていた。
隣に立つドルトンが、小声で言った。
「将軍、面白い話です」
「ドルトン」
「裏切り者の話は、信用できないことが多い。しかし、情報の真偽は別途確認できます。とりあえず、聞くだけ聞いてみましょう」
エリオットは少し間を置いた後、椅子に座った。
「話せ」
ダニエルは頷いた。
「グレイ将軍の北西戦線、現在の実態はこうです――」
―――
天幕の外で、ドルトンは星空を見上げていた。
ダニエルとアッテンボローは解放され、帝国へと帰っていった。
レナード・ドルトンは、あの二人の話を聞きながら、ずっと別のことを考えていた。
帝国内部の対立。派閥の綱引き。そのあいだで、グレイという男が一人で北西戦線を支えようとしている。
(味方に足を引かれながら、前で戦っているわけか)
ドルトンは特に感慨を持つたちではなかった。しかし、それでも少し、妙な気分になった。
あの密書に書かれていた兵糧の数は、想定より少なかった。人員の配置も、本来あるべき戦力よりも薄い。意図的に削られているのか、あるいは他戦線への分散によるものか、あるいは両方か。
どちらにせよ、ルーカス・グレイという男は、十分な手札を持たずにこの戦場に出てきている。
(それで、エリオット将軍を一人で相手にするつもりか)
ドルトンは視線を星から外した。
「こちらも戦闘に勝利し、ラッシュ少将を探し出せなどという無理な命令をされているが、あちらもあちらで、前線の兵の足をひっぱる者がいるのだな」
誰にともなく呟いた。
「たまには、戦場も悪くない」
野営地の火が、風に揺れていた。
―――
ルーカスの天幕は、明かりがついたままだった。
夜が深くなっても、ルーカスは地図を眺めていた。
エリックはすでに寝ていた。ハンナは外で控えていた。
静かだった。
ルーカスは、セスたちのことを考えた。怒って出ていった三人の顔を思った。
彼らが怒るのは、わかっていた。
自分が一人で戦うつもりだとわかれば、怒るのは当然だった。
(今はそれでいい)
ルーカスは地図の北西を指でなぞった。
明かりが小さく揺れた。
ルーカスは気にせず、地図を見続けた。




