第56話 お願い
呼び出しは突然だった。
「セシリア殿下が、ラザフォード少尉に面会を求めています」
伝令兵がそう告げたとき、ジョセフは靴底の補修をしていた。輸送任務の合間に溜まった雑用を片付けていたところだった。
「……小官に?でありますか」
「はい。今すぐ、と」
ジョセフはマルチを見た。
マルチはすでに立ち上がっていた。
「私も行きます」
「お前が来てどうするんだ」
「隊長の護衛です」
「セシリア殿下の御前に護衛を連れていくのか」
「護衛というか……なんとなく」
なんとなく、という言葉の裏に何があるのか、ジョセフにはよくわからなかった。
ただ、マルチの目が「行かせてください」と言っていたので、ジョセフは断らなかった。
―――
通された部屋は、皇族が使うには質素だった。
元々皇族が使うことを想定していない軍の施設である。地図と書類が積まれた机と、床に見られる埃。
軍人であるセシリアは慣れているが、それでも気晴らしに外を見ていた。窓から見える景色は、まだ整備されていない街道だった。
セシリアは机の前に立っていた。
カリナが傍らに控えている。
ジョセフは敬礼した。
「第77輸送部隊、ジョセフ・ラザフォード少尉。お呼びに応じ参上しました」
「楽にしてほしい。なんだ、副官も同席か」
セシリアは言った。いつもの落ち着いた声だった。しかし、どこか固さがある気がした。
マルチはそれを嫌悪と勘違いする。
「申し訳ございません。自分は退室いたします」
そう言われたが、セシリアは手で制した。
「いや、いい。貴官らの輸送部隊にかかわる話だ。副官なら同席するのが当然。座ってほしい。話がある」
ジョセフは勧められた椅子に座った。マルチは後ろに控えた。カリナはセシリアの斜め後ろで、静かに立っている。
セシリアは机の上の地図を広げた。帝国の南東方面の地形図だった。
「ラドン教が教皇令を発布し、我が国を神敵と認定したことは知っているか?」
その問いにジョセフは頷く。
「よろしい。それで、連合軍が組まれ、我が国の南東方面に、クリプトン帝政軍が進軍してくる。指揮官はオズウィン・ドレヴ。水使いのギフト持ちだ」
ジョセフは地図を見た。赤い矢印が、帝国の内側に向かって伸びている。
「帝国はここに防衛線を張る予定でいる」
セシリアの指が、地図上の一点を押さえた。
「フェルゼンブルク」
ジョセフはその名前を知っていた。帝国南東部の城塞都市。堅牢な城壁と、入り組んだ地形で知られる要塞だ。輸送任務で近くを通ったことがある。
「……なるほど」
ジョセフは地図を眺めながら、頭の中で地形を思い描いた。
城壁に囲まれた都市。入口が限られる地形。そして、水使いのギフトに対して、閉じた空間で火を使えば――。
考えが形になりかけたところで、セシリアが口を開いた。
「ラザフォード少尉」
セシリアは地図から目を上げた。
ジョセフと視線が合った。
セシリアの目が、わずかに潤んでいた。
ジョセフは少し面食らった。セシリア・フォン・オキシジェンといえば、氷のように感情を表に出さない人物という印象がある。その目が、今は違った。
「……お願いがある」
セシリアは言った。
そして、頭を下げた。
皇女が、頭を下げた。
ジョセフは一瞬、状況を飲み込めなかった。
「フェルゼンブルクの防衛に、力を貸してほしい。あなたの炎のギフトを」
セシリアは顔を上げた。目が合う。近い距離だった。
ふわり、と香りがした。
花のような、清潔な、しかし甘すぎない香りだった。
ジョセフの心臓が、一拍、妙な打ち方をした。
(いや、待て。落ち着け、俺)
内心で自分に言い聞かせた。
「私一人でも、オズウィン・ドレヴとは戦える。勝てないとは思っていない」
セシリアは続けた。声は落ち着いていた。しかし、言葉の選び方が、いつもより丁寧だった。
「しかし、水と氷は相性が悪い。私のギフトを大きく使えば、兵士への巻き添えが出る。今は帝国の兵力を損耗させたくない。なにせ、周辺国すべてが敵だ。あなたの力を借りれば、その損耗を大幅に抑えられる」
「あなた」という呼ばれ方が、ジョセフを困惑させる。
「あなたが何を背負っているか、私は知っている」
セシリアは静かに言った。
「ギフトを使うことで、何かを失うという可能性があることも。それでも、お願いしたい」
沈黙があった。
ジョセフは地図に目を落とした。フェルゼンブルク。城壁。入り組んだ地形。水使いに対して、火を使うなら――。
「一つ、条件があります」
ジョセフは言った。
「フェルゼンブルクの民間人を、事前に退避させてもらえませんか。殿下の名において、命令を出してほしいんです」
セシリアは少し眉を動かした。
「退避、か。理由を聞いていいか」
「私のギフトを大きく使えば、街ごと焼けます」
ジョセフは簡潔に言った。
「城塞都市の中で火災を起こし、敵を焼き殺します。それを起こせば、クリプトン帝政軍を一掃できると思っています。ただし、住民が残っていたら、その人たちも巻き込む。それは嫌なんで」
セシリアはしばらくジョセフを見ていた。
「……街を、焼くつもりか」
「はい。使えるものは使わないと。これが一番こちらの損耗が少ないですしね」
ジョセフはあっさりと言った。
「敵も水使いのギフト持ちを出してきてるんでしょう。こっちも本気でやらないと勝てない。ただ、民間人は別の話です。戦いに関係ない人を巻き込む気はありません」
カリナは表情を変えずに聞いていた。
セシリアは少し間を置いた後、頷いた。
「わかった。フェルゼンブルクの民間人退避命令は、私の名において出す。約束しよう」
「なら、引き受けます」
ジョセフは頷いた。
「しかし、わからんな。相手は水のギフト。火を使ったところで消火されてしまうのではないか?」
「普通の火であればそうでしょう。しかし、私のギフトは普通の火ではありません」
水が火を消す理屈は、熱を奪って温度を発火点以下に下げることと、水蒸気が酸素を遮断することである。
この仕組みは知られておらず、水をかければ火が消えるという現象のみを人々は理解している。
そして、ジョセフは酸素ではなくフロギストンを燃やす。つまり、酸素の遮断は無意味。そして、火が消えるのはフロギストンが無くなったら。温度は関係ない。
火のギフトとの違いはここである。
だからこそ、ジョセフは水のギフトを相手に火を使うことを考えたのである。
「あなたがそういうのであれば、大丈夫なのだろうな」
「精一杯やります」
セシリアは息を吐いた。
わずかに、肩の力が抜けたように見えた。
「ありがとう、ラザフォード少尉」
ジョセフはもう一度敬礼して、立ち上がった。
部屋を出ると、マルチが横に並んだ。
しばらく黙って歩いてから、マルチが言った。
「……隊長」
「なんだ」
「殿下、きれいでしたね」
「そうだな」
「目、潤んでましたね」
「うん」
「いい香りしてましたか?」
ジョセフは少し間を置いた。
「……なんでわかった」
「わかります」
マルチは前を向いたまま言った。声は穏やかだった。しかし、その目の奥に、何か小さなものが沈んでいた。
ジョセフはマルチの横顔を見た。
「どうした」
「なんでもないです」
「そうか」
ジョセフはそれ以上聞かなかった。
マルチも、それ以上言わなかった。
二人は並んで、廊下を歩いた。
―――
部屋に二人が残った。
「殿下」
カリナが口を開いた。
「皇族が軽々しく頭を下げるべきではないかと」
「わかっている」
セシリアは地図に目を戻した。
「しかし、お願いしたかったのだ」
カリナは何も言わなかった。
セシリアの指が、フェルゼンブルクの位置をそっと押さえた。
頼ることが正しかったのかどうか、まだわからなかった。
ただ、頭を下げたことを、後悔はしていなかった。




