第54話 略奪
ハートフィールド侯爵の屋敷には、表向きの顔がある。
格調ある調度。丁寧に手入れされた庭。品のいい使用人。訪れる者に侯爵家の格式を示すための、精巧な舞台装置だ。
フィリップ・グレアムが通されたのは、その舞台から遠い、奥まった書斎だった。
「教皇令が出たことは知っておろう?」
ハートフィールド侯爵は窓の外を見たまま言った。
「存じております」
グレアムは慇懃に首を垂れる。
相手が見ていなかろうと、そうした態度に抜かりはない。
「グレイが正統ラドン教とやらを宣言した。馬鹿げた話だ。帝国がラドン教皇庁と袂を分かつなど、正気の沙汰ではない」
「そうですね」
グレアムは椅子に座り、組んだ手の上に顎を乗せた。
「それで、犯人のでっち上げを考えておられますか」
侯爵が振り返った。
「考えないわけにはいかんだろう。司祭殺害の犯人を差し出せば、連合軍の大義名分が崩れる。時間を稼げる」
「もう遅いでしょう」
グレアムは静かに言った。
「教皇令はすでに発布されました。参加を表明した国々は、信仰のためではなく国益のために動いています。犯人を差し出したところで、旗を降ろす理由にはなりません。むしろ、帝国が弱みを見せたと判断されるだけです」
侯爵は黙った。
「それに」
グレアムは続けた。
「今回の件は、むしろ好機だと思っています」
「……好機」
侯爵の眉が動いた。
「神敵に認定され、外から敵が来る。帝国は戦時体制に入る。そして、神敵認定した相手とは徹底抗戦。そういう状況で、誰が一番困りますか」
グレアムは窓の外に目をやった。帝都の空は、いつもと変わらず曇っていた。
「ラドン教の勢力です。正統ラドン教の宣言によって、帝国内の教会は立場を選ばざるを得なくなった。帝国に従うか、教皇庁に従うか。従わない教会は反乱勢力と見なせる」
「それは……」
「帝国内のラドン教の資産は、相当なものです。各地の教会、修道院、土地。何百年もかけて蓄積してきた富がある」
グレアムは侯爵を見た。
「今までは手を出すことは出来ませんでしたが、戦時の混乱の中で、反乱鎮圧の名のもとにそれを接収する。誰が動くかは、おわかりですね」
沈黙があった。
侯爵の目が、ゆっくりと動いた。
「……伝統派貴族が、か」
「閣下が旗を振れば、喜んでついてくる方々がいるはずです。連中はそんなに信心深くありませんから、目の前の現世利益に飛びつくことでしょう」
グレアムは微笑んだ。穏やかな、事務的な笑顔だった。
その裏には、伝統派貴族を蔑んだ思想が隠れていたが。
「グレイは連合軍との戦いに集中しています。セシリア殿下もそちらに向く。帝都の内側に目が届きにくくなる。そのあいだに動く価値はあります」
侯爵はしばらく黙っていた。
「……グレイとセシリア殿下が戦況で手を焼いているあいだ、我々は内を固めるということか」
「固める、というより——整理する、と言った方が正確でしょうか」
グレアムは立ち上がった。
「勝敗がどちらに転んでも、帝国内の宗教勢力が弱体化していれば、我々の立場は改善されます。閣下にとっても、悪い話ではないはずです。そして、外敵と戦って疲弊した派閥に対し、閣下とアントワネット殿下の派閥は、教会から接収した資産で力を増した状態になっているとなれば――」
侯爵は答えなかった。
しかしその目は、すでに計算をしていた。
―――
正統ラドン教の初代教皇が選出されたのは、それから十日後のことだった。
名はベネディクト・ハイル。帝国内の聖職者の中でも、早い段階から新体制への協力を表明していた人物だった。年齢は五十に届くかどうか。穏やかな顔立ちで、野心よりも順応を好む人間に見えた。
戴冠の式典は質素だった。
本来であれば盛大に祝うべき場面だが、情勢を考えれば派手にできる余裕はなかった。ルドルフ帝の戴冠式も控えている。
帝都の市民は、その式典をほとんど見ていなかった。
関心が向く前に、別の出来事が始まったからだ。
―――
最初の報告が入ったのは、帝都から二日離れた地方都市からだった。
「聖ルシア教会に、貴族の私兵が押し入りました」
内務の役人が、震える声で報告書を読み上げた。
「教会側が教皇庁への帰属を宣言したことを理由に、反乱勢力の拠点として接収。資産を没収、教会関係者を連行したと」
続報はすぐに来た。
翌日には、別の都市でも同様の事態が起きていた。その翌日も。その次の日も。
伝統派貴族の動きは早かった。
まるで、準備をしていたかのように。
私兵を率いた貴族たちは、教皇庁への帰属を宣言した教会を次々と接収した。建物を占拠し、蓄えられていた金銀財貨を運び出した。土地の証書を押さえた。修道院の食糧庫を空にした。
反乱鎮圧、という名目だった。
抵抗した聖職者は捕らえられた。
数人は、広場で公開処刑された。
―――
帝都から遠い町の広場に、人が集まっていた。
集まった、というより、集められた。私兵が家から引っ張り出した者もいた。
台の上に縄をかけられた男が立っていた。老いた聖職者だった。白髪で、背が曲がっていた。かつては地元の人間なら誰でも知っている顔だった。子供の洗礼を行い、死者の弔いを読み上げ、貧しい者に食事を配っていた男だった。
貴族の代理人が、罪状を読み上げた。
帝国への反逆。正統ラドン教への帰属拒否。教皇庁との内通。
広場の人々は黙っていた。
老聖職者は何も言わなかった。目を閉じていた。唇が、かすかに動いていた。祈りだった。
代理人は下卑た笑みを浮かべて、老聖職者に語り掛ける。
「貴様が無罪であれば、神は助けてくれるだろうな」
その言葉に返答することなく祈りは続いた。
そして、処刑が執行された。
処刑とは庶民にとっての娯楽である。
残酷であるという声はあがらず、帝国への反乱を企てたものの末路を見て、快い感情を抱く。シャーデンフロイデ、あるいは公正世界仮説などによる、溜飲が下がる思いが広場を包む。
人々は満足して、三々五々と帰っていった。
ただし、そうではない者も少数だが存在する。
誰かが誰かの耳に、小声で言った。
「……酷い話だ」
相手は何も答えなかった。
答えれば、次は自分の番になるかもしれなかった。
皆、それをわかっていた。
こうして、庶民の間にも宗教対立の火種が生まれた。




