第53話 教皇令
ラドン教皇領の執務室は常に静かだった。
窓から差し込む光は白く、石造りの壁に反射して部屋全体を均一に照らす。華美な装飾はない。質素な机と椅子。それだけで十分だと、アリアは考えていた。神の僕に、豪奢な調度は似合わない。
ただし今日は、その静けさが保てなかった。
「……まだ、報告がないのか」
アリア・サンクトゥスは書類を机の上に置いた。置く、というより押しつけた。穏やかな所作とは程遠い。
「はい。オキシジェン帝国からは、捜査中である旨の文書が届いておりますが、具体的な進展は……」
報告者の歯切れは悪かった。
「捜査中」
アリアは繰り返した。穏やかな声だった。しかし側に立つ補佐官は、その声の温度のなさに思わず背筋を伸ばした。
「何日経つ」
「……司祭殿が殺害されてから、一月以上になります」
「一月」
アリアは立ち上がり、窓の外を見た。
遠くに見える街並みは平穏だった。礼拝堂の尖塔が空に突き刺さっている。
「帝国の使節に伝えなさい。これ以上の回答を待つつもりはないと」
「では、どのような対応を」
「神の使者を殺して逃げおおせるなら、何が起きるか」
アリアは振り返った。穏やかな目だった。笑ってさえいた。
「神の権威に、傷がつく。そうなれば、次はどこかの国の兵士が教皇領の使節に剣を向けるかもしれない。ラドン教の威光が、冗談の種になるかもしれない。そういうことです。ウランの名を恐れぬ者たちが世にあふれ、社会の秩序は大いに乱れます」
補佐官は黙っていた。
「今回のことは、帝国だけの問題ではない。すべての国への示しになる。神の使者を傷つけた者は、必ず裁かれる。そう見せなければならない。これは秩序の為」
アリアは机に戻り、羊皮紙を取った。そして、ペンを手に取る。
「教皇令を発布します。オキシジェン帝国に対する正義の執行を求める討伐連合を、各国に呼びかけるのです。過去にも、我がラドン教が教皇令を発布し、神敵を滅したことがありました。今回もそのように」
補佐官が息を呑んだ。
「……よろしいのですか。帝国は大国であり、連合を組んだとしても――」
「組める。帝国と敵対している国は、今いくつあると思う」
アリアはペンを走らせながら言った。
「神の名において呼びかければ、これ幸いと旗を掲げる国が出てくる。信仰からではないとしても、それでいい。結果が伴えば、神意は果たされる」
補佐官は何も言えなかった。
アリアのペンだけが、静かに動き続けた。
―――
「……討伐連合」
エリオット将軍は文書を読んで、低く呻いた。
会議室には数人の将校が集まっていた。北西部の軍事拠点。外は曇天で、窓から見える地平線はどんよりと霞んでいた。
「教皇令か。大げさな話だ」
「大げさではありますが、無視もできません」
バルトロ中将が冷静に答えた。
「各国とも呼びかけに応じることでしょう。となれば、我が国も参加するしかありません。なにせ、断れば教皇から睨まれる。帝国との膠着状態が変化するのは良いことですが、それ以外は……」
「我が国に送れる戦力など、たかが知れている」
エリオットは腕を組んだ。
「帝国と接している前線は長い。大規模な兵を動かせば、どこかが手薄になる。帝国がそれを見逃してくれるのか?」
沈黙が落ちた。
「問題は政治的な立場ですね」
レナード・ドルトンが静かに口を開いた。
細い目が、手元の書類を見ていた。
「兵を出せるかどうかの問題より、教皇令に対してどう応じるかの問題です。我が国が完全に沈黙すれば、ラドン教との関係が悪化する。国内の信徒への影響も無視できない」
「では、どうしろというんだ?」
エリオットはドルトンを見た。
「将軍、それは政治家に任せましょう」
ドルトンはあっさりと言った。
「軍が考える問題ではありません。少数の形式的な部隊を送る、あるいは補給の一部を負担するといった折衷案を、外交担当が王都と調整するでしょう。我々はその間に、帝国の動向を注視することに集中すればいい」
エリオットは少し眉を上げた。
「……お前は、帝国がこれにどう反応するかを見ているのか」
「ええ」
ドルトンは書類を閉じた。
「教皇令が発布されれば、帝国は内部で割れます。ラドン教の影響力が強い貴族層は圧力を受ける。どの派閥がどう動くかは、今後の帝国の政治地図を読む上で非常に有益な情報になります」
バルトロが苦い顔をした。
「随分と冷静な見方をするものだ」
「戦場より書類の方が性に合っているものでして」
ドルトンは表情を変えなかった。
エリオット将軍は窓の外に目をやった。
どんよりとした空が続いていた。
―――
帝都ザウアーシュトフが騒然としたのは、教皇令の写しが届いた翌日のことだった。
宮廷は蜂の巣を突いたような有様だった。各貴族家の使者が右往左往し、廊下では小声の相談が絶えない。ラドン教の高位聖職者たちは神妙な顔で集まり、信徒貴族への対応を協議していた。帝国内のラドン教信徒は決して少なくない。
クラウディアは廊下を静かに歩いていた。
周囲の喧騒を、まるで聞こえていないかのように。
「グレイ将軍を呼びなさい」
侍女に言葉を落として、彼女は自室に入った。
ルーカスが呼び出されたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
クラウディアの執務室は、ルーカスが想像していたより暗かった。厚い布で窓が半分塞がれている。
部屋の中央に机があり、クラウディアが座っていた。後ろには侍女が二人、壁のように立っている。
ルーカスは、外からの攻撃による暗殺でも恐れているのか?と感想を抱いた。
「グレイ将軍」
クラウディアは顔を上げた。白い肌。落ち着いた声。しかしその目の奥に、隠しきれないものがあった。
「教皇令について、報告は受けているか?」
「はい」
「では聞く。どうするつもりか」
単刀直入だった。ルーカスは少し間を置いた。
「妃殿下は、どうお考えですか」
「私が将軍に聞いている」
クラウディアの目が細くなった。
「帝国はラドン教に謝罪し、犯人を差し出すべきだという意見がある。討伐連合に加わった国々と交渉し、時間をかけて解体させるべきだという意見もある。連合軍が来る前に、先手を打って帝国の正統性を強調すべきだという意見もある。どれも聞いた。将軍の答えを聞いていない」
ルーカスは答えた。
「謝罪は意味をなしません」
静かな声だった。
「司祭を殺した犯人を差し出しても、連合の解体は保証されません。今、教皇令を受けて旗を掲げた国々の多くは、信仰からではなく帝国を叩く口実として動いています。口実を取り除いても、意図は消えません」
「では?」
「帝国内のラドン教を、切り離します」
クラウディアは動かなかった。
「切り離す、とは」
「帝国独自の正統ラドン教を宣言します。教皇庁の権威ではなく、帝国皇帝の権威のもとに置かれた教会を設立する。帝国のラドン教信徒は引き続き信仰できる。ただし、教皇アリア・サンクトゥスの命令には従わない。神の使いを僭称し、私腹を肥やす者に正しき教えを伝えるのは無理というもの」
クラウディアは少し黙った。
「……国内の信徒が納得するか」
「全員は無理です。反発は出るでしょう。しかし帝国が外から宗教的圧力をかけられ続ける状況と、国内が多少揺れる状況を比較すれば、選択肢は限られます」
「もう一つは」
「ルドルフ陛下の戴冠式を、早急に執り行います」
ルーカスは続けた。
「今はまだ、帝国に皇帝がいない状態が続いている。それが外部からの付け入る隙になっている。戴冠式を強行し、帝国の統治体制を対外的に明確にする。連合軍が攻めてくるとすれば、その前に内を固める必要があります。我らが擁立した教皇に戴冠式を行わせましょう」
クラウディアはしばらく黙っていた。
侍女たちは微動だにしない。
「……戴冠式の強行は、反発を招く。アントワネット派は黙っていない」
「黙らせます」
ルーカスは淡々と言った。
「戴冠式を妨害しようとする勢力があれば、帝国への叛意ありとして処理できます。今は外に敵がいる。その状況で内側の敵を排除することには、大義名分が立ちます」
クラウディアはルーカスを見ていた。
この男は何を見ているのだろう、と思った。
外の敵を語りながら、その目は一度も動揺していなかった。
「……一つ聞く」
クラウディアは静かに言った。
「正統ラドン教の宣言。それは誰が主導する」
「帝国の意志として発布します。妃殿下のお名前で」
「それでよいのか?」
クラウディアはルーカスの目を見た。
嘘を言っているなら目が泳ぐはずという思いがあった。
しかし、ルーカスの目は泳がず、真っすぐにクラウディアを見ていた。
「帝国のためです」
ルーカスは答えた。迷いのない声だった。
クラウディアは少しの間、沈黙した。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「……承認する」
それだけ言って、クラウディアは書類に目を落とした。
話は終わりだという意味だった。
「ありがとうございます」
ルーカスは一礼して、部屋を出た。
廊下に出ると、エリックが壁際で待っていた。
「どうでしたか」
「承認を得た」
ルーカスは歩き出した。
「戴冠式の準備を始めろ。それと、帝国内の聖職者のリストを洗い直す。新しい教会に取り込めそうな者と、反発しそうな者を分けておけ」
「……正統ラドン教の宣言となれば、教皇庁は激怒しますよ」
「そうなるだろうな」
ルーカスは前を向いたまま答えた。
「構わない。どのみち今の帝国は、教皇庁とはうまくやれない。敵になるなら、こちらから先に動く方がいい。それに、今だって激怒しているだろう。今が最悪だ。これ以上は悪化しない」
エリックは少し間を置いた。
「……先ほど、妃殿下が『帝国のためか』と聞いたとのことですが」
「聞いていたのか」
「扉の向こうで」
ルーカスは少し笑った。
「帝国のため、と良く言えましたね。疑われませんでしたか?」
「問題ない」
ルーカスはもう一度、フッと笑ってから廊下の先を見た。
窓の外では、帝都が騒然としたまま動き続けていた。




