第52話 敵の娘
消臭剤の話は、思いのほか早く広まった。
軍にレシピが公開されてから数日で、各部隊が材料を調達し始めた。兵士たちの評判は上々だった。簡単に作れて、効果が高い。材料費も安い。
上層部では民間にも販売して、軍事費の補填にあてようという話まで出る始末。
これについては、エドワードやヘンリー、ダニエルは報告を聞いて苦虫を嚙み潰したような表情を見せた。
ジョセフが評価されるようなことが気に入らないのである。
一方、ルーカス陣営にも動きがあった。
ハンナが報告書を持って執務室に入った。
「将軍、消臭剤の件ですが」
「ああ」
「発案者が判明しました。第77輸送部隊のジョセフ・ラザフォード少尉です」
ルーカスは書類から目を上げた。
「ラザフォードか」
「はい。部隊内で作り始めたのがきっかけで、セシリア殿下への報告のついでに渡したところ、殿下が軍への公開を勧めたようです」
ルーカスは少し黙った。
「本当に本人の発案か」
「と、いいますと?」
ハンナはルーカスの発言の意図がわからず、聞き返した。
「公爵家出身でありながら、少尉と評価が低い男だ。部下の誰かが考えたものを、隊長として報告した可能性がある。輸送部隊の連中が考えて、ラザフォードが手柄を横取りした、ということはないか」
ハンナは少し間を置いた。
「……調査してみます」
エリックが口を開いた。
「私が確認してみましょう。部隊の隊員に直接当たれば、経緯はわかるはずです」
「頼む」
ルーカスは書類に目を戻した。
「名門公爵家の庶子が、部下の知恵を横取りして上に報告する。よくある話だ」
エリックは何も言わなかった。ハンナも黙っていた。
しばらくして、エリックが別の書類を持ってきた。
「将軍、これを」
「なんだ」
「夜会の招待状です。ハートフィールド侯爵家からです」
ルーカスは受け取った。封を開けずに、差出人の名前を確認した。
ルイーゼ・ハートフィールド。
ルーカスは招待状を、そのまま机の脇の屑籠に捨てた。
「将軍」
エリックが少し困った顔をした。
「一応、目を通されては」
「必要ない」
「しかし、ハートフィールド侯爵家からの招待を無視するのは、政治上――」
「政治の話をしたいのか?」
ルーカスはエリックを見た。
「ハートフィールド侯爵は、我々の敵だ。その娘が招待状を送ってくる。父親の意向か、あるいは娘が勝手に動いているか、どちらにしても受ける理由がない」
「娘は侯爵の意向とは別に動いている可能性が」
「エリック」
「はい」
「父の敵である相手に、招待状を送ってくるとはどういう神経をしているんだろうな。罠かもしれん。浅はかにも暗殺を企てているかもしれないんだぞ」
ルーカスは静かに言った。怒りではなく、純粋な疑問のような口調だった。
「貴族社会とはそういうものか。政治的な敵対関係があっても、笑顔で夜会に招待し合う。父親が裏で何をしていようと、娘は知らぬ存ぜぬで令嬢として振る舞う。そういう仕組みで回っている世界なのだな」
エリックは黙った。
「馬鹿馬鹿しい」
ルーカスは窓の外を見た。
「家柄で全てが決まる。血筋で地位が決まる。能力のない者が権力を持ち、能力のある者が頭を下げる。そういう世界を、何百年も続けてきた。貴族社会とはそういう物だ。それはもうすぐ終わらせる」
ハンナは壁際で黙って聞いていた。
(貴族への嫌悪が、これほど深いとは)
ルーカスの出自を思った。下級貴族の出身。家族の事。軍学校でも、家柄で見下された経験があるはずだ。それが今の彼を作っている。
「それに」
ルーカスは続けた。
「頭がおかしいのか、あの娘は。侯爵家の令嬢が、父親の敵に恋文を送るとは」
エリックが少し目を細めた。
「……恋文、とはどこから」
「招待状の封に、花が押し花で挟まれていた。ラブレターだろうこれは」
「見ていないのに、なぜ?」
「封を開ける前に落ちた」
エリックはため息をついた。ハンナは表情を変えなかった。
「捨てておけ」
ルーカスは書類に目を戻した。
「それより、司祭殺害の犯人をまだ捜しきれていない。早く見つけなければ、ラドン教への説明がつかない。クラウディア妃からも矢のような催促がひっきりなしだ。捜査の進捗を報告しろ。金切り声が耳にこびりついて、夜、眠るのが一苦労だ」
執務室に、笑いが起きる。
帝国の権力者ですら、ここでは恐れられていないのであった。




