第42話 焦燥
アントワネットの私室は、セシリアがギフトの力を使ったのかと思えるほど冷えていた。
暖炉に火は入っている。しかし、室内の空気が冷たいのは気温のせいではなかった。
ハートフィールド侯爵は、扉を入った瞬間にそれを感じた。
アントワネットは窓際に立っていた。侯爵の入室はわかっていたが、しかし、振り返らなかった。
「来たか」
「はい、殿下」
侯爵は一礼した。丸々とした体が、珍しく縮こまっていた。
「ラドン教の使者が来る。知っているか」
「存じております」
昨日、帝国にもたらされた先触れである。
アリア・サンクトゥスがしびれを切らし、半ば強引に帝国の時計を進めに来たのである。
「戴冠式の打ち合わせだ」
アントワネットは窓の外を見たまま言った。
「つまり、皇帝が決まるということだ。誰が戴冠するかが、大陸に向けて宣言される」
「はい」
「ルドルフが戴冠すれば、我らは終わりだ。私はどこぞの貴族に降嫁、もしくは外国に嫁がされる。それでも、暗殺よりはましだが。それに、其方は軍での権力ははく奪であろうな」
アントワネットはようやく振り返った。
その目は、冷たかった。セシリアとは違う冷たさだ。セシリアの冷たさは感情を押し込めた結果だが、アントワネットの冷たさは、怒りが凝縮したものだった。
「侯爵」
「はい」
「どうなっておる」
静かな声だった。しかし、その静けさが重かった。
「私が継承順位第一位だ。法務局の判断は不当だ。それを覆すと言ったのは、そなたではなかったか」
侯爵は額に汗をかいていた。
「鋭意、動いております。グレイへの不満を持つ将校たちを取り込み、着実に――」
「着実に、では間に合わぬ。言葉はもうよい。結果で示せ」
アントワネットは一歩前に出た。
「使者が来れば、日取りが決まる。日取りが決まれば、覆す猶予がなくなる。そなたにはそれがわからぬのか」
侯爵は黙った。
反論すれば火に油を注ぐようなもの。黙っているのが最善の選択である。
「グレイが将軍になり、コンラートが処刑され、ルドルフの地位は固まりつつある。私には時間がない。そなたにも時間がない」
アントワネットは窓際に戻った。
「結果を出せ。言葉ではなく、結果を」
「……御意」
侯爵は深く一礼して、退室した。
―――
廊下に出ると、侯爵は大きく息を吐いた。
叱られた。それは事実だった。しかし、侯爵には侯爵の計算があった。
(焦るな。焦った方が負ける)
今はまだ準備が整っていない。
権謀術数渦巻く貴族社会を生きてきた侯爵である。兵の運用は無能であるが、策を弄するタイミングは心得ていた。
まだ早いと、経験が教えてくれている。
足早に邸宅へ戻った。
密室にグレアムと数人の腹心が待っていた。
「いかがでしたか」
グレアムが静かに問うた。
「殿下はご立腹だ。使者が来る前に動けとのことだ」
室内に緊張が走った。
「時間がありませんな」
グレアムは指先で卓を叩いた。
「戴冠式の日取りが決まれば、こちらの動く余地が狭まります。使者が到着する前に、何らかの形で帝都の情勢を動かす必要がある」
「グレイへの不満分子は集まっているのか」
「着実に増えています。しかし、まだ一斉に動かせる段階ではない」
一人が低い声で言った。
「セシリア派を崩せないか。あちらはまだ小さい。先に潰せば、その勢力を取り込むこともできるであろう。そうなれば、ルドルフ派を圧倒できる」
「セシリア殿下には近衛がいる。なにより、本人がギフト持ち。計略を仕掛けるのは危険だ」
グレアムは首を振った。
「正攻法では難しい」
しばらく沈黙が続いた。
「ラザフォードの庶子は、まだ動いているか」
グレアムは少し考えた。
「輸送任務を続けています。峠の件以来、警戒を強めているようですが」
「あの男がセシリアに与すれば、厄介だ」
「与する気はないと思います。あの男は派閥に与しない」
「それが問題だ」
一人が静かに言った。
「与しない人間は、こちらにも引き込めない。しかし、向こうもそうだ。セシリア派が引き込めなければ、ラザフォードは動かない。動かない駒は、今は放置でいい」
グレアムは頷いた。
「今は、グレイの足元を崩すことに集中する。使者が来るまでに、軍の内部からほころびを作る」
卓を叩く音が、また静かに響いた。
「急げ。しかし、焦るな」
グレアムは静かに言った。
「焦った方が、負ける」
帝都の夜は、深かった。




