第36話 混乱の指揮系統
倉庫の中で、ジョセフは書類を手に唸っていた。
物資の確認リストだ。どこに何を運ぶか。いつまでに。誰の指示で。
マルチが隣で荷物を数えながら言った。
「どうしました」
「上司が誰かわからなくてね」
マルチは手を止めた。
「……どういうことですか」
「輸送命令が三方向から来ている。僕らの隊ではなく、輸送部隊全体の話だけど」
ジョセフは書類を広げた。
「一つはグレイ将軍の名前で。一つはハートフィールド侯爵の名前で。一つはセシリア殿下の名前で」
マルチは書類を覗き込んだ。
「……本当だ」
「どれが正式な命令かわからない。指揮系統が混乱している」
ジョセフは書類を畳んだ。
「シュトルム将軍がいた時は、少なくとも命令の出所はわかりやすかった。引退されてから、誰が上なのか誰もわかっていない。食糧ならまだしも、一つしかないような物資を取り合いされてもねえ。それで命令違反だと言われても、対処のしようがないよ。ま、僕みたいな小隊長には関係のない話だけどね」
「グレイ将軍が総司令では?」
「たしかに、クラウディア妃が新たに任命したさ。しかし、伝統派貴族はそれを認めていない。ハートフィールド侯爵派は独自に動いている。セシリア殿下は……殿下で独自に。ま、グレイ将軍が強引に権力を掌握しようとしていないというのはあるね」
マルチはため息をついた。
「三つに分かれた軍が、それぞれ命令を出しているということですか」
「そういうことだね。これで戦争にでもなったら大変だ。たぶん、お互いの足を引っ張りあうだろうから」
ジョセフはあっさりと言った。
「それと、困ったことに、三方向の命令が矛盾していない。運ぶ物資も、運び先も、それぞれ違う。どれも実際に必要な物資だ」
「では、全部こなせばいいのでは」
「人手がないし、物資もない」
マルチは黙った。
「それに」
ジョセフは続けた。
「どの命令を優先するかで、どの派閥に与しているかを示すことになる」
倉庫に沈黙が落ちた。
「……隊長は、どうするつもりですか」
「小隊長は降りてきた命令に従うまでだよ」
「では、もっと上の階級だとしたら?」
「優先度の高いものから順番にこなす。派閥は関係なく、純粋に物資が必要な度合いで判断する」
ジョセフは荷物を持ち上げた。
「それが輸送部隊の仕事だから」
マルチは少し笑った。
「隊長らしいですね」
「だから、出世できないんだよ」
「したいのですか?」
「いや」
今度は二人で笑った。
しばらく作業を続けながら、マルチが言った。
「そういえば、隊長」
「うん」
「最近、周りの人間の態度が変わっていることに気づいていますか」
「どんなふうに」
「伝統派の貴族出身の将校たちが、隊長に対して妙に馴れ馴れしくなっています」
ジョセフは手を止めた。
「そうかな」
「そうですよ」
マルチは荷物を積みながら言った。
「先週、レムハルト大尉に食事に誘われませんでしたか」
「誘われたね」
「断りましたか」
「断った。忙しかったから」
「その前の週は、ゴットフリート中佐から書類の確認を頼まれませんでしたか」
「頼まれた。普通のことだと思っていたが」
「普通じゃないです」
マルチは手を止めてジョセフを見た。
「あの人たちは今まで、隊長のことを庶子だと言って無視していた。それが急に近づいてきた」
ジョセフはしばらく考えた。
「……なぜだろう」
「隊長は、ラザフォード公爵家の出身です」
「庶子だけど」
「庶子でも、公爵家です」
マルチは静かに言った。
「伝統派の貴族たちは、隊長が自分たちと同じ考えを持っていると思っている」
「僕が?」
「はい」
ジョセフは少し驚いた顔をした。
「なぜそう思うんだ」
「名門公爵家の出身なら、ルーカス将軍のような下級貴族の台頭を快く思わないはずだ、という論理です」
マルチは続けた。
「実際には隊長がどう思っているかは関係なく、出身だけで判断している」
ジョセフはしばらく黙った。
「……そういうことか」
「気づいていませんでしたか」
「全然」
マルチはため息をついた。
「隊長は本当に、そういうことに気づかないですね」
「そういうことより、荷物の方が気になる」
「それが問題なんですよ」
マルチは苦笑した。
「伝統派の貴族たちが隊長を取り込もうとしているのに、隊長は誘いに乗らない」
「取り込まれる気はないよ」
「わかっています。でも、向こうはそう思っていない」
マルチは真剣な顔で言った。
「隊長、少し気をつけてください。誰かに与していると思われると、反対の派閥から敵視される」
「やっかいだね」
「やっかいです」
ジョセフは荷物を積みながら、静かに考えた。
(ラザフォード家の出身だから、伝統派だと思われている。しかし、実際には公爵家とも距離を置いている。それが伝わっていない)
「マルチ」
「はい」
「気づかせてくれてありがとう」
マルチは少し驚いた顔をした。
「……お役に立てて光栄です」
その耳が、わずかに赤くなったが、ジョセフは荷物を見ていて気づかなかった。
―――
翌日、輸送命令が一本来た。
北方の砦への物資輸送。ルーカス将軍に備えるための備蓄だ。
三派のうちの一つ、ハートフィールド侯爵派からの命令だったが、内容を確認すると、砦には確かに物資が不足していた。
「行こう」
ジョセフは部隊に言った。
「僕らでも使わないと回らない任務だ。久しぶりの仕事だ」
ダオが低く頷いた。タンが肩を回した。ノイが耳をぴんと立てた。ビンが尻尾を振った。
「やっと働けますね」
ビンが言った。
「そうだね」
ジョセフは荷台を確認しながら言った。
「ただ、気をつけるように。亜人への目が厳しい時期だ。余計なことはしないこと」
「わかりました」
マルチが出発の準備を進めながら、小声でジョセフに言った。
「伝統派の将校たちが見送りに来るかもしれませんよ。取り込めると思っているから」
「来たら、丁寧に断る」
「丁寧に?」
「どこにも与しないと伝える。丁寧に」
マルチは少し考えた。
「……それで伝わりますかね」
「伝わらなくても、言うだけ言う」
ジョセフはあっさりと答えた。
荷台が動き始めた。帝都の空は、今日も曇っていた。




