第33話 白馬の大佐
離宮の中は、混乱していた。
ルドルフが泣いていた。四歳の子供にとって、夜中に武装した兵士に囲まれるのは恐怖でしかない。乳母が抱きしめてあやしているが、泣き声は止まらなかった。
クラウディアは蒼白な顔で立っていた。手が微かに震えている。
「グレイはまだか!」
クラウディアが叫んだ。侍従が怯えた顔で答えた。
「使いを出しております。しかし夜中でございますので――」
「グレイに連絡を取れと言った! 何をしている!」
怒鳴り声がルドルフをさらに泣かせた。
クラウディアは部屋の中を歩き回った。外では松明の光が揺れている。コンラートの旗が見える。四歳の息子が皇帝を僭称しているとは何事か。正統な継承だ。法学者も確認した。
(なぜこうなった)
クラウディアは歯を食いしばった。
―――
夜の帝都の街道を、馬蹄の音が駆け抜けた。
ルーカス・グレイが駆け付けた。
少数の騎兵を率いて、離宮の前に現れたのだ。その顔は夜中だというのに、いつもの爽やかな笑顔だ。
「コンラート殿下の兵か」
ルーカスは松明の光の中で、私兵たちを見渡した。
「将軍の命令だ。解散しろ」
私兵の指揮官が前に出た。
「我々はコンラート殿下の――」
「コンラート殿下の名を使って皇族の離宮を囲むのは、謀反に等しい。こちらはシュトルム将軍の正式な命令を得ている。それでもなお指示に従わぬというのなら、ここで一戦交えるが?」
ルーカスは静かに言った。
「今すぐ解散すれば、今夜のことは不問にする。続けるなら、相応の対応をする」
私兵たちが動揺した。
指揮官が後退した。兵士たちが顔を見合わせた。
ギフト持ちのルーカスを相手に、200人程度でどうにかできるわけがない。
ましてや、シュトルム将軍の正式な命令とあれば、謀反人は自分たちということになってしまう。
この時、この場にコンラート殿下がいれば、尚且つ、その殿下に決断力があれば歴史は変わっていたかもしれない。
だから、勝負をするという決断が出来なかった。
ルーカスは馬上から動かなかった。ただ、静かに見ていた。
やがて、私兵たちが崩れ始めた。一人が引き、二人が引き、気づけば隊列が乱れていた。
半刻もかからなかった。離宮の前から、松明の光が消えていった。
―――
離宮の応接室で、ルドルフがルーカスを見上げていた。
泣き腫らした目で。しかし、今はもう泣いていない。
「グレイ、こわかった」
ルドルフが小さな声で言った。
「もう大丈夫です」
ルーカスは膝をついて、ルドルフと目線を合わせた。
「私が来ましたから」
「またこわくなったら、また来てくれる?」
「もちろんです」
ルーカスは笑顔で答えた。
ルドルフがルーカスの首に抱きついた。ルーカスはそのまま、しばらくルドルフを抱いていた。
クラウディアはその様子を見ていた。蒼白だった顔に、少し血の気が戻っている。
「グレイ、助かりました」
「職務ですので」
ルーカスはルドルフをそっと離してから、立ち上がった。
「今後は離宮の警備を強化します。再びこのようなことが起きないよう、手配します」
「ご苦労である」
クラウディアは一歩近づいた。
「グレイは本当に頼りになる。こうして夜中に駆けつけてくれて。夫亡きあと、女と侮るヤカラも多い。ルドルフも……私も不安で仕方なかったが、そなたがいてくれるなら心強い」
その声が、わずかに柔らかくなっていた。
ルーカスは微笑んだまま、半歩引いた。
「お役に立てて光栄です。では、警備の手配がありますので」
「あ、グレイ――」
「失礼します」
ルーカスは一礼して、応接室を出た。
―――
離宮の外で、エリックが馬を引いて待っていた。
ルーカスが出てくると、エリックが小声で言った。
「うまくいきましたか?」
「まあな。恩は売れただろうな」
ルーカスは馬に乗りながら、離宮を振り返った。
「しかし、困ったことにクラウディア妃が色目を使い始めた」
「好都合では?」
エリックは苦笑した。ルーカスは露骨に嫌がる表情を見せた。
「どうするつもりですか?」
「放っておく」
ルーカスは前を向いた。
「職務に徹する。それだけだ」
「割り切れますかね?」
「香水が臭い」
ルーカスはあっさりと言った。
「あれは趣味じゃない」
エリックは吹き出しそうになるのを堪えた。
「それだけですか」
「それだけだ」
ルーカスは静かに続けた。
「それに……どうせ後々排除することになる」
エリックは黙った。
「ルドルフが成長すれば、ルドルフも、クラウディアも邪魔になる。グラーフェンベルク侯爵も同様だ。今は使えるから使う。それだけのことだ。力を持つ前に叩き潰す」
帝都の夜道を、馬が静かに進んだ。
エリックはルーカスの横顔を見た。いつもの爽やかな表情だ。
言っていることは血なまぐさいのだが、外見がそうは感じさせない。クラウディアもそのあたりを見抜けず、ルーカスにすり寄っているのだろうなとエリックは思った。
帝国の夜明けはまだ遠かった。




