第32話 腐らぬ帝国
皇宮の奥まった一室で、セシリアは毎日同じことをしていた。
父の遺体に、氷のギフトをかける。
薄く、均一に。腐乱が進まない程度に。それだけでいい。
強すぎれば遺体を損壊してしまう。相手を攻撃するのとは違った注意が必要であった。
侍女たちは部屋の外で待っている。この作業は、セシリアが一人で行うと決めていた。
広大な帝国を支配していた男は、暗く小さな部屋で静かに眠っており、娘一人がそれをみているという光景である。
父の顔を見るたびに、セシリアは思う。
(葬儀くらい、さっさと済ませてやれないのか)
しかし、それができない。誰が葬儀を執り行うかで、各派閥が牽制し合っている。そのせいで、先帝の遺体がいつまでも眠れずにいる。
セシリアはため息をついた。
「父上、申し訳ありません」
静かに言った。
「もう少しだけ、待っていてください」
氷の膜が、遺体を薄く覆った。
セシリアは一礼してから、部屋を出た。廊下に出ると、カリナが待っていた。
「殿下、お疲れ様でございます」
「疲れてはいないが――」
セシリアは短く言った。
「ただ、呆れている」
―――
ハートフィールド侯爵の邸宅の応接室で、侯爵は取り巻きたちを前にして愚痴っていた。
「クラウディア妃めが、余計なことをしてくれた」
侯爵は椅子に深く沈み込んだ。その丸々とした体が、怒りでさらに膨らんでいるように見えた。
「グレイを抱き込まなければ、我々もルドルフ殿下を推せたのだ。孫の皇帝など、グラーフェンベルク家のためではないか。しかし、アルベルト皇子に娘を嫁がせた段階で、それはもう諦めていた。だが、グレイがついているとなれば、話は別だ」
「閣下、しかしアントワネット殿下も」
グレアムが侯爵の顔をうかがう。
「アントワネット殿下は疑惑がある」
侯爵は手を振った。
「だが、疑惑があるからこそ、こちらが支えてやる価値がある。恩を売れる」
取り巻きたちが頷いた。
「グレイがいなければ、ルドルフ殿下を推していた。いや、ルドルフ殿下の方が都合が良かった。幼帝なら、周囲が好きに動かせる。グラーフェンベルクもどこかしらに付け入るスキがある。特に軍事ならな」
「では、グレイを排除すれば」
「それができれば苦労はせん」
侯爵は鼻を鳴らした。
「あの男は既に軍の一部を掌握している。それに、ギフト持ちだ。下手に動けば、こちらが返り討ちにされる」
応接室に重い沈黙が落ちた。
「結局のところ」
侯爵は低く言った。
「ルドルフ殿下より先に、アントワネット殿下を皇帝の座に就けるしかない。それだけだ」
―――
帝都の軍営地は、奇妙な緊張に包まれていた。
兵士たちは普段通りに動いているように見える。しかし、その視線が鋭い。誰が誰の派閥か。誰がどこへ動くか。
ルーカス派。ハートフィールド派。セシリア派。
三つの派閥が、それぞれ睨み合っていた。
表立った衝突はない。しかし、食堂で座る位置が変わった。演習での組み合わせが変わった。報告書の回り方が変わった。
すべて派閥で固まっている。例えるなら、学校の仲良しグループのようなもの。
そんな、小さな変化が積み重なって、軍全体が静かに割れ始めていた。
―――
皇宮の執務室で、ウォレス宰相とシュトルム将軍が向かい合っていた。
どちらも、疲れた顔をしていた。
「軍が三派に分かれています。私の引退を見越して、さっそく主導権争い。帝国のためになれと厳しく指導してきたつもりでしたが、己の無能さを痛感しております」
シュトルムが静かに言った。
「表立った衝突はまだないが、このままでは時間の問題です」
「わかっている。しかし、将軍が引退しないうちは問題ないだろうな」
ウォレスは額に手を当てた。
「葬儀が進めば、少しは落ち着く。しかし葬儀が進まない。後継者が決まれば、あとはそれに応じた体制ができるのだがな」
「ラドン教からの調停は?」
「進んでいない」
ウォレスは深くため息をついた。
「教皇領の使者が来ているが、話し合いの席に着かせる相手すら決まらない。どの派閥も、自分が主導権を持った形での停戦でなければ認めない」
「停戦も、葬儀すら進まない。国政の停滞は国力の衰退につながる」
「そうだな」
二人は黙った。
「陛下が生きておられれば」
シュトルムが静かに言った。
「それを言っても仕方ない。永久の命を持つことなど、どんな権力者にも不可能なのだからな」
ウォレスは首を振った。
「ただ……」
「ただ?」
「セシリア殿下が毎日遺体の防腐処置をされているそうだ。ギフトを使って」
シュトルムは黙った。
「セシリア殿下には苦労をかけますな」
ウォレスは窓の外を見た。
「我々が情けない」
シュトルム将軍は答えなかった。
執務室に沈黙が落ちた。帝都の空は、今日も曇っていた。
―――
ポロニウム公国の情報局、その奥まった一室で、カイル・モスは地図を見ていた。
帝国の地図だ。各派閥の勢力図が、細かく書き込まれている。
部下が報告する。
「帝国の混乱は続いています。葬儀は進まず、軍は三派に分裂。ラドン教の調停も停滞しております」
「そうか」
カイルは静かに答えた。感情は顔に出ない。出る前に消える。
「ルーカス・グレイが幼帝を担いで実権を握れば、帝国は力を増すだろうな。彼奴はギフト持ちというだけではなく、有能な軍人だ。今までは大佐という地位で、大きな采配は出来なかったが、このままでは軍全体を掌握する。そんな有能な者が指揮する軍に、周辺国は太刀打ちできない」
「均衡が崩れます」
「そうだ」
カイルは地図から目を離し、窓の外を見た。
「仕込みを使う時だ」
部下が頷いた。
仕込み。ポロニウム公国が長年かけて各国に送り込んだスパイだ。普段は現地に溶け込み、何もしない。動くのは、均衡が崩れる瞬間だけだ。
「コンラート殿下の陣営に浸透させてある者を動かせ」
「コンラート殿下を使いますか」
「コンラート殿下は政治闘争に向いていない」
カイルは静かに言った。
「だからこそ、動かしやすい。あの方の周囲にいる者たちに、動機を与える」
「動機とは」
「ルドルフ皇子は皇帝を僭称している。正統な継承手続きを経ていない幼帝の擁立は、帝国を私物化しているというな。コンラート殿下ではそうした動きを止められぬ。暴走しそうな貴族を抑え込むだけの力量はない」
カイルは地図を指でなぞった。
「だから、そういう話を、適切な、暴走しそうな人間に吹き込む。そのまま、クラウディア妃の動きを暴力的に止めようと動くように仕向ける」
「コンラート殿下の私兵を動かして、ルドルフ殿下の離宮を囲む、ということですか」
「うまく、二人の命を奪えればよし。失敗しても内戦になってくれるだろうな」
カイルは静かに言った。
「それで均衡が」
「混乱が極まれば、疲弊する。疲弊した帝国であれば、いかに有能な指揮官であろうと、簡単に隣国を攻めることは出来ない」
カイルは椅子に座り直した。
「理想は帝国の内戦が続くこと。帝国が一人の男に支配されるよりも、複数の勢力が牽制し合う状態の方が、この大陸は安定する」
部下は黙って頷いた。
「動け。時間はない」
カイルは再び地図に目を落とした。
(均衡を保て。それだけでいい)
―――
帝都の夜、クラウディアとルドルフの住む離宮を、松明の光が囲み始めた。
コンラートの旗を掲げた私兵たちだ。数は二百ほど。門の前に整列し、離宮への出入りを封鎖した。
今まさに離宮に攻め込まんとして、命令が下るのを待っていた。
離宮は門を閉め、警備の兵士が緊張の面持ちで武器を構えている。
離宮の中では、クラウディアが状況を把握しようとしていた。
「何が起きているのですか」
「コンラート殿下の私兵が、離宮を囲んでおります」
侍従が震える声で答えた。
「皇帝を僭称しているとして、ルドルフ殿下を――」
「馬鹿な」
クラウディアは立ち上がった。
「グレイは、グレイはいずこに?グレイに連絡を。今すぐ」
ヒステリックな叫び声が室内に響く。
夜の帝都に、緊張が走った。
各派閥に知らせが届いた。
ルーカス派は動いた。ハートフィールド派は様子を見た。
皇宮では、ウォレス宰相が額に手を当てた。
「また厄介なことが」
シュトルム将軍は窓の外を見た。帝都の夜空に、松明の光が点々と見える。
「これは誰が」
「わかりません」
ウォレスは静かに言った。
「ただ、コンラート殿下がこれほど大胆に動くとは思えない。誰かが後ろで糸を引いている」
シュトルムは黙った。
ポロニウム公国の名前は、二人の口からは出なかった。
帝都の夜は、深まっていった。




