第31話 皇女の赤面
翌朝、セシリアが目を覚ますと、カリナとリーナが部屋の前で待っていた。
二人の顔を見て、セシリアは何かを悟った。
「……何ですか」
「殿下」
カリナが静かに口を開いた。
「昨日のことについて、申し上げたいことがございます」
「昨日?」
「ラザフォード少尉をお呼びになったことです」
セシリアは少し間を置いた。
「父上がお隠れになった日だ。誰かと話したかった。それだけだ」
「それはわかっております」
カリナは丁寧に、しかしはっきりと言った。
「しかし殿下、考えてみてください。皇帝がお隠れになったその日に、皇女が一人の男性を私室の近くにお呼びになった」
「談話室だ。私室ではない」
「傍から見れば同じでございます。殿下以外に使いませんので」
リーナが続けた。普段は取次役として控えているリーナが、珍しく口を開いた。
「殿下、すでに宮廷では噂になっております」
「……何の噂だ」
「ラザフォード少尉と殿下の関係についてです」
リーナは視線を落とした。
「殿下がお父上を亡くされた悲しみの夜に、あの少尉を呼んで慰めてもらった、と。尾ひれがついて広まっております」
セシリアは黙った。
「尾ひれとは」
「殿下がお泣きになっていたとか、少尉が殿下を抱きしめたとか。そもそも、時刻も日が落ちてからという事になっております。夜ともなれば、男女の間に何かあったのかと思われることもあるでしょう」
カリナが答えた。
「事実無根の話が、事実のように語られております」
セシリアの頬に、かすかに赤みが差した。
「……馬鹿馬鹿しい」
「馬鹿馬鹿しくとも、噂は力を持ちます」
カリナは続けた。
「今は皇位継承を巡って各派閥が動いています。殿下の評判は、そのまま殿下の政治的な立場に直結します」
「わかっている」
「本当にわかっておられますか」
カリナの声が、少しだけ低くなった。
「殿下、申し上げにくいのですが……気落ちしておられるのはわかりますが、あの方を呼ぶのは、もう少しお慎みください」
沈黙が落ちた。
セシリアは窓の外を見た。
「……気落ちしているように見えたか」
「はい」
リーナが静かに答えた。
「あのような殿下は、初めて見ました」
セシリアはしばらく黙っていた。
カリナが静かに言った。
「殿下のお気持ちは、私どもにはわかりません。ただ、男性をお呼びになるなら、せめて他の方も同席する形にしていただければ。それに、公務だと言い訳のできるような状況にしていただきたく」
「……お前たちも同席していただろう」
「談話室の外で待機しておりました。室内には殿下とラザフォード少尉のみでした」
また沈黙が落ちた。
今度は長かった。
セシリアの頬が、先ほどより少しだけ赤くなった。
「……わかった。以後、気をつける」
「ありがとうございます」
カリナとリーナが一礼した。
セシリアは視線を逸らしたまま言った。
「それで、噂を流しているのは誰だ」
「アントワネット殿下の侍女からという話が出ております」
カリナは静かに答えた。
「確証はありませんが」
「……そうか」
セシリアは窓の外を見た。
「姉上らしい」
その声に、怒りはなかった。ただ、少し疲れたような響きがあった。
「殿下」
カリナが優しく言った。
「お気持ちはわかります。ただ、今は慎重に動かれてください」
「わかっている」
セシリアは短く答えた。
カリナとリーナが退室した後、セシリアは一人になった。
窓の外を見たまま、静かに息をついた。
(気落ちしているように見えた、か)
そう思われていたとは、気づかなかった。
(……あの男は、何も言わなかったな)
ただそこにいた。それだけだった。
なぜか、それが一番堪えた。
セシリアはもう一度、静かに息をついた。頬がまだ、少し熱かった。
―――
廊下に出たカリナとリーナは、足を止めた。
周囲に人がいないことを確認してから、リーナが小声で言った。
「……カリナさん」
「なんですか」
「殿下、自分のお気持ちに気づいていないんでしょうか」
カリナは少し間を置いた。それから、小さく笑った。
「気づいておられないでしょうね」
「あんなに赤くなられてはいましたが、そういった経験もございませんから」
リーナは口元を手で押さえた。
「あのお顔、初めて見ました」
「私もです」
二人はしばらく黙って歩いた。
「あの少尉、どんな方なんですか」
リーナが聞いた。
「私は遠くからしか見たことがなくて」
「輸送部隊の方ですよ」
カリナは答えた。
「しわだらけの軍服で、飄々としていて、どこか掴みどころがない」
「それがどうして殿下に」
「さあ」
カリナは少し考えた。
「殿下に対して、怖じない方なんです。普通の人間は、皇女の前では取り繕う。でもあの方は、そのままで話す」
「それが殿下には新鮮なんでしょうか」
「それだけじゃないと思いますけど」
カリナは静かに言った。
「浴場の件もありますし」
「浴場?」
カリナは口が滑ったと後悔した。
しかし、相手がリーナであれば察してくれるだろうという信頼があった。
「……あ、それは聞かなかったことにしてください」
リーナが目を丸くした。
「なんですかそれ。気になります」
ちょっと信頼が揺らぐ。
「聞かなかったことに、してください」
カリナは真顔で繰り返した。
リーナはしばらく考えてから、小さく頷いた。
「……わかりました。でも」
「でも?」
「殿下、幸せになってほしいですね」
カリナは少し間を置いた。
「……そうですね」
静かに、しかしはっきりと頷いた。
廊下の先に、朝の光が差し込んでいた。
―――
第77輸送部隊の宿営地で、マルチはジョセフを見つけた。
備品の点検をしているところだった。相変わらず、しわだらけの軍服だ。
「隊長」
「うん」
「少しよろしいですか」
ジョセフは手を止めた。マルチの声が、いつもより低かった。
「なんだ」
「噂が出ています」
「どんな」
「隊長と、セシリア殿下の逢引きという噂です」
ジョセフは少し間を置いた。
「逢引き」
「はい」
マルチは真剣な顔で続けた。
「皇帝陛下がお隠れになった夜に、殿下が隊長を呼んだことが広まっています。尾ひれがついて、かなり派手な噂になっています」
アントワネットは軍にも噂を流していた。ジョセフの立場を悪くするためである。
「それは困ったね」
「困ったね、じゃないですよ」
マルチは声を抑えながら言った。
「今でさえ、亜人への視線が厳しくなっています。私たちの部隊は休暇を命じられている。そこに隊長まで宮廷の噂に巻き込まれたら、部隊全体の評判に関わります」
「そうだね」
「わかっていますか」
「わかってるよ」
ジョセフは荷台から手を離した。
「ただ、殿下に呼ばれたら行かないわけにもいかないだろう。断れる立場じゃない」
「それはそうですが……」
「次から気をつける」
ジョセフは静かに言った。
「ただ、今回は本当に何もなかった。殿下が少し話したかっただけで」
「それはわかっています」
マルチは少し間を置いた。
「わかっていますが、周りにはわからない。私だって隊長が殿下とどんな話をしたのか気になりますよ」
「そうだね」
ジョセフはしばらく考えてから、マルチを見た。
「迷惑をかけた。ごめん」
マルチは少し驚いた顔をした。ジョセフが素直に謝るのは、珍しかった。
「……隊長が謝ることじゃないですが」
「いや、謝る」
ジョセフは真面目な顔で言った。
「亜人への視線が厳しい今、余計な噂を立てた。それは僕の不注意だ。しばらくはおとなしくしてる」
マルチはしばらくジョセフを見ていた。
「……わかりました」
それから、少し間を置いて言った。
「隊長」
「うん」
「殿下は、大丈夫でしたか」
「うん?」
「お父上を亡くされて」
ジョセフは少し考えてから、静かに答えた。
「泣いてはいなかった。でも、堪えているようだった」
マルチは黙った。
「……そうですか」
それだけ言った。
その耳が、ほんのわずかに伏せられたのをジョセフは見逃した。
備品の点検を再開した。しばらく使われることはないだろうが、これくらいしかすることが無いのだ。
マルチはまだジョセフに何かを聞きたいようであったが、ジョセフはそれには気づかない。
帝都の朝が、静かに続いていた。




