第3話 それぞれの敗北
ギーレン将軍が死んだ。
報告を受けたオリヴァー・エリオット将軍は、しばらく何も言わなかった。
天幕の中、地図を広げたままの卓を前に、熊のような巨体が微動だにしない。副官が固唾を呑んで次の言葉を待った。
「……確かか」
「はい。砦が夜半に爆発。ギーレン将軍以下、砦に入った兵は全滅。情報は帝国からのものとなります。後発の輜重部隊も撤退する兵士に遭遇しておりませんので、全滅は間違いないかと……」
「そうか……」
全滅。その事実に、エリオット将軍は目を閉じた。
アルフォンス・ギーレン。自分より十歳若く、身体強化のギフトを持つ俊英。決して仲が良かったわけではない。戦場での流儀も違った。だが、同じギフト持ちとして、互いの力は認め合っていた。
その男が、砦ごと消えた。
「敵のギフト持ちか」
「不明です。生存者もおりませんので。帝国では、突然爆発が発生したと。ギフトによるものか、仕掛けがあったのか、判断がつかないと」
エリオット将軍は低く唸った。
目の前にはルーカス・グレイの軍が陣を張っている。あの若い爽やか顔の将校が率いる帝国軍と、この十日ほどにらみ合いを続けてきた。互いに動けない。動けば損耗する。そういう均衡だった。
だが今、状況が変わった。
「全軍に伝えろ。撤退する」
副官が目を見開いた。
「よろしいのですか。まだ我が軍の戦力は」
「ギーレンが死んだ。この報が兵に広まれば、士気は保てん。それに、元々が陽動。ギーレンが敵の防衛線を突破すれば、こちらも敵地深くへと侵攻する予定であったが、ここにあの氷の皇女でも合流してみろ。こちらは苦戦をしいられる」
あの皇女とはセシリアのことである。
エリオット将軍は立ち上がり、天幕の入口へと歩いた。
「生きて帰ることが先だ。死んだ者の弔いは、国に戻ってからする」
天幕の外に出ると、夕暮れの空が赤く染まっていた。対岸の帝国軍の陣が、遠くに見える。
エリオット将軍は静かに、しかし腹の底から声を出した。
「全軍、撤退! 隊列を乱すな! 落ち着いて動け!」
その声が陣営に響いた。どよめきが起きかけたが、将軍の巨体から発される圧に、兵たちは黙って動き始めた。
―――
帝国軍の陣から、ルーカス・グレイはエリオット将軍の軍が動き始めるのを見ていた。
撤退だとわかるまで、時間はかからなかった。
「……ギーレンが死んだか」
隣の副官が興奮した様子で言う。
「グレイ将校、追撃しますか! 今なら」
「するな」
ルーカスは静かに制した。
「撤退する軍を追えば、こちらも損耗する。エリオット将軍はまだ健在だ。罠かもしれんしな」
「しかし、手柄が」
手柄。
ルーカスは薄く笑った。口の端だけが動く、誰も気づかないような笑みだ。
(手柄を立て損ねたか)
内心でそう呟く。エリオット将軍とにらみ合ったこの十日、自分は何も得ていない。砦を爆破してギーレンを倒したのは別の誰かで、自分はただ睨んでいただけだ。
それがどこか、気に食わなかった。
功績とは、積み上げるものだ。この帝国という腐った建物を内側から壊すためには、まず自分が頂点に立たなければならない。そのためには実績が要る。名声が要る。
(まあいい。機会はまだある)
ルーカスは表情を戻した。いつもの、爽やかな笑顔に。
「全軍、警戒を続けよ。敵が完全に退くまで陣を動かすな」
副官が頷いて走っていく。
夕陽を背に、ルーカスは遠ざかるエリオット将軍の軍を見送った。その横顔に、翳りはなかった。
―――
アッテンボロー大佐が呼び出されたのは、セシリアが帝都への報告書を送ってから三日後のことだった。
軍の上官に呼ばれ、執務室の椅子に座らされたアッテンボローは、最初のうちはまだ余裕があった。自分の報告書は完璧なはずだ。空城の計、夜襲、敵の殲滅。すべて自分の采配と書いた。
だが上官の顔が、いつもと違った。
「アッテンボロー大佐。皇女殿下からの報告書と、貴官の報告書に相違がある」
「は……?」
「貴官は増援要請のために後退したと報告している。しかし殿下の報告では、貴官は砦防衛を少尉に丸投げし、人間兵を連れて離脱したとある」
アッテンボローの背中に、じわりと汗が滲んだ。
「そ、それは誤解でありまして。自分は増援を——」
「砦に残ったのは亜人兵五百と輸送部隊のみ。貴官が連れ出した兵は二千五百。これが増援要請のための移動か」
反論できなかった。
上官は書類を卓に置き、静かに続けた。
「今回の戦果については、混乱の中での偶発的な爆発によりギーレン将軍が戦死したという形で処理する。貴官の采配によるものとは認められない」
「し、しかし! 自分は確かに——」
「大佐。皇女殿下が嘘をつくとでも」
その一言で、アッテンボローは黙った。
結果は降格と左遷だった。辺境の補給基地への異動。栄光どころか、泥の中に顔を突っ込まれたような話だ。
執務室を出て、廊下を歩きながら、アッテンボローは唇を噛んだ。
(なぜだ。なぜこうなる)
頭の中で、言い訳が渦巻く。自分は悪くない。あの砦に残っていれば死んでいた。生き延びたからこそ今がある。そしてあの爆発——あれを手柄にして何が悪い。誰も使わないなら、使った者が得をすればいいだけの話だ。
(ラザフォードが死んでいれば、うまく誤魔化せたのに)
その考えが浮かんだ瞬間、アッテンボローは立ち止まった。
そうだ。あの輸送部隊の少尉さえいなければ。あの軍学校出の庶子さえいなければ。自分の話に矛盾を指摘できる者がいなければ、皇女も疑いようがなかった。
(ジョセフ・ラザフォード)
名前を心の中で繰り返す。憎悪が、じくじくと熱を持って広がっていった。
―――
同じころ、ハイドロジェン王国の議会では怒号が飛び交っていた。
「ギーレン将軍を失い、砦を落とせず、五千の兵が全滅だ! これのどこが完璧な作戦か!」
「エリオット将軍の撤退判断も問題だ! まだ兵力はあったはずだろう!」
「そもそもギーレン将軍が砦に入ったのが失策だ! ギフト持ちをみすみす……」
怒号が重なり、収拾がつかない。
議長が何度も制止を求めたが、誰も聞かなかった。
ようやく場が静まったとき、一人の老議員が立ち上がった。
「敵の報告書によれば、砦での爆発は偶発的なものとのこと。ギフト持ちの関与は確認されていない」
「偶発的な爆発で五千が壊滅するか!」
「では我が軍の兵站管理に問題があったということか。篝火の管理も、兵糧の保管も、すべてずさんだったと」
それもまた、議員たちの怒りに火を注いだ。
誰も気づいていなかった。
その「偶発的な爆発」という説明が、遠い砦でひとりの少尉が苦し紛れに口にした言い訳と、まったく同じものだということに。




