第2話 空城と炎
砦の門が、開いていた。
ハイドロジェン王国の先鋒を率いるアルフォンス・ギーレン将軍は、馬上から眼前の光景を見て眉をひそめた。
城壁の上には旗が立っている。オキシジェン帝国の軍旗が、風にはためいている。しかし門は大きく開け放たれ、中の様子が丸見えだ。
人の気配は無い。
「……罠か」
副官が横に並んだ。
「将軍、敵兵の姿が見当たりません」
「だから罠だと言っている」
ギーレン将軍は低く唸った。昨日の偵察では確かに守備兵がいた。それがこの朝、忽然と消えている。旗だけが残り、門が開いている。
これが罠でなくて何だというのか。
「全軍、停止。弓兵を前へ」
五千の軍勢が砦の手前で足を止めた。弓兵が城壁に向けて矢を番えるが、返ってくるものは何もない。矢が石壁に当たる音だけが、虚しく響いた。
「……斥候を出せ」
慎重に、慎重に。ギーレン将軍はそう自分に言い聞かせた。
斥候が砦へと近づいていく。しばらくして戻ってきた斥候が報告する。
「将軍、中に人の気配はありません。近寄りましたが、なんら迎撃するような動きはありませんでした」
「考えすぎか?」
「逃げるにしても、軍旗を立てる意味がわかりませんな」
副官と一緒に頭を悩ませる。
これは兵法三十六計の第三十二計を参考にした戦術。地球の将軍であればわかったであろうが、この世界でこれが使われたのは初めてである。
実は、ジョセフは転生者であった。
前世は日本人である。その死の瞬間は悲惨であった。
――視界がゆらぐ。
鼻をつく、焦げた匂い。息を吸うたびに喉が焼けるように痛い。
斎藤悠は、自宅の狭いワンルームで慌てて玄関のドアノブを回した。
だが、金属は熱を帯び、掌が弾かれる。外に出られない。
耳の奥で、何かが爆ぜるような音。天井から粉塵が舞い落ち、カーテンの布が赤く揺れている。
心臓が早鐘のように鳴った。
――どうして。さっきまで、ただコーヒーを淹れて、テレビをつけていただけなのに。
熱が迫る。息が浅くなり、視界の端に黒い影が滲んでいく。
悠は胸をかきむしるように呼吸をしながら、必死に窓へと手を伸ばした。
だが、外気は届かない。煙が押し寄せ、喉の奥を塞ぎ、目に涙をにじませる。
思考は途切れ途切れになり、ただ一つの感覚だけが全身を支配する。
――燃える。空気そのものが燃えている。
その恐怖と圧迫感が、彼の最後の記憶となった。
暗闇が広がり、熱も痛みも遠のいていく。
そして――次に目を開けた時、悠はもう「斎藤悠」ではなく、オキシジェン帝国のジョセフ・ラザフォードとなっていた。
胸の奥には、あの夜に味わった焦げつくような匂いと、火に呑まれた感覚だけを残して。
そして、ジョセフとしての人生を歩んで、今ここにいるわけである。
ギーレン将軍は見事にはまり、少数であるがゆえに、強行突破で兵を損耗するのはまずいと考え、オキシジェン帝国の策を恐れて踏みとどまった。
午後になっても、砦から人が出てくる気配はなかった。夕刻が近づいてきたころ、副官が口を開いた。
「将軍。砦から炊煙が上がっていません」
その一言で、ギーレン将軍の中で何かが繋がった。朝から夕方まで、一度も飯を炊く煙が出ていない。罠を張って待ち構えている軍ならば、兵に飯を食わせないわけがない。
「……撤退したのか」
拍子抜けするほど単純な答えが浮かんだ。敵は砦を捨てて逃げた。旗を残し、門を開けたまま。まるでこちらを嘲笑うように。
追撃を逃れるための時間稼ぎ。
そう結論付けたのである。
「全軍、砦へ入れ。ただし警戒を怠るな」
五千の兵がゆっくりと砦へと流れ込んでいった。
内部はがらんとしていた。兵糧庫には食料が残り、武器庫には剣が並んでいる。慌てて逃げたというより、意図的に置いていったように見えた。
「今夜はここで野営する」
ギーレン将軍は告げた。
「追撃は明日の朝だ。兵を休ませろ」
―――
深夜。
野営地から離れた森の中で、ジョセフは空を見上げた。雲が薄く月を隠している。好都合だった。
敵を倒すための作戦実行のため、一人こっそりと野営地を抜けて砦を目指していた。
「隊長」
背後から声がした。
振り返ると、闇の中にマルチが立っていた。垂れた耳が、申し訳なさそうに伏せられている。
「……ついてきたのか」
「心配だったので」
ジョセフは小さくため息をついた。止めても無駄だとわかっていた。
「見られたくないものがある」
「はい」
「それでも来るか」
「はい。副官ですから」
マルチは真っ直ぐにジョセフを見ていた。その目に迷いはなかった。
ジョセフはしばらくマルチを見てから、前を向いた。
「……来い。ただし離れるな」
―――
砦の城壁が見える大木の上に、二人は並んで腰を落ち着けた。砦の中では篝火がいくつも焚かれ、五千の兵が思い思いに休んでいる。
ジョセフは目を閉じた。
胸の奥で、何かが疼く。あの夜の感覚。熱。閉塞感。喉を塞ぐ煙。
焼け死んだ前世の記憶がよみがえり、額に汗がにじんだ。
息を整える。ゆっくりと、深く。
マルチが隣で息を呑むのがわかった。
空気が変わった。重さが増したような、金属が裏返ったような奇妙な匂い。ジョセフの掌の周りに、ゆらりと淡い揺らぎが生まれる。見えるか見えないかの境界にある、油じみた揺らぎだ。
それが砦の方向へと、ゆっくりと流れていった。
篝火に触れた瞬間——
轟音。
火柱が上がった。一つではない。隣の篝火へ、またその隣へと、まるで意思を持つように連鎖していく。爆音が重なり、爆風が夜の空気を揺さぶった。
次の瞬間、衝撃がジョセフとマルチを木ごと吹き飛ばした。
闇の中で体が宙を舞う。地面が迫る。
だがジョセフの体は、柔らかいものに受け止められた。
マルチだった。彼女はジョセフを抱きかかえたまま、獣のような俊敏さで地を蹴り、衝撃を何度かに分けて殺しながら着地していた。最後に膝をついて、それでも腕の中のジョセフを地面に落とさなかった。
沈黙。
遠くで砦が燃えている。
「……助かったよ」
ジョセフはマルチの腕の中から空を見上げて言った。
マルチは何も言わなかった。ただ、抱えていた腕に少しだけ力を込めた。それだけだった。
が、やがて好奇心に勝てず、口を開いた。
「隊長、さっきのは?」
「僕のギフト。燃える空気を作るっていうのが近いかな」
「はあ……」
マルチは理解できずに気の抜けた返事をした。
「フロギストンっていってね、自然界には存在しない燃える空気を作ることが出来るんだ」
「燃える空気ですか。俄かには信じられませんが」
「そうか――」
ジョセフは考える。
この世界は地球の文明よりも遅れている。
酸素はまだ発見されていないため、燃焼の仕組みを伝えるのが難しいのだ。
「まあ、燃える空気があって、それがかがり火で引火したわけだ」
「でも、爆発しましたよ」
「あれは連続して燃えているんだよ」
「なるほど……って、ギフトですか!?」
ギフト持ちは稀有な存在である。
もしギフトを持っていたら、国が大切にしてくれるのであるが、ジョセフはそれを隠していたことに驚いた。
前世での死が原因かどうかわからないが、燃える元素である燃素フロギストンを生成するギフトを持ったのである。
ただ、前世の記憶から、火を見ると気分が悪くなる。ギフトの能力を使う時の嫌悪感がそれであった。
「そうだよ。ただ、秘密にしておいてね。僕がギフトを持っていることがわかったら、後継者争いが起こってややこしいことになるから」
「わかりました。なんとなく、大変だなっていうことは」
「さて、帰ろうか」
「帰りますけど、これ、どうやって報告するんですか?」
「敵が来たので転進したら、謎の爆発が起こって助かったってことで」
「誰も信じませんよ」
―――
翌朝、野営地に皇女であるセシリア・フォン・オキシジェンが到着した。
帝国の至宝と呼ばれるギフト保持者であり、その存在だけで兵の士気を鼓舞する華やかさを持っていた。
彼女はオリヴァー・エリオット将軍が陽動であり、ギーレン将軍が本命であるとわかってから、急ぎこちらに向かっていたのである。
白銀の甲冑をまとい、騎士団を率いた皇女は馬を降りるなり、煙を上げる砦の方角を見た。
砦では可燃物に引火し、いまだに煙が上がっていたのである。
「……何が起きた」
隣に控えていたジョセフが答える前に、馬蹄の音が響いた。アッテンボロー大佐だった。昨夜の増援要請から一緒に連れてこられた彼は、燃え落ちた砦を見て一瞬だけ目を泳がせたが、すぐに胸を張った。
「殿下、ご覧ください。これが我が作戦の成果です」
セシリアが静かに彼を見た。
「説明せよ」
「まず空城の計で敵をおびき寄せ、砦に誘い込みました。そして夜陰に乗じて一気に火をかけ、敵を殲滅したのです。すべて私の采配通りでございます」
口からのでまかせであるが、偶然にも近いところであった。
その場にいた兵士たちの顔に、複雑な色が浮かんだ。誰も声を上げない。
セシリアはゆっくりと視線をジョセフへ移した。煤で汚れた軍服。その横顔に疲労の色がある。
「ラザフォード少尉」
「はい」
「お前は昨夜どこにいた」
「野営地で休んでおりました」
セシリアはしばらくジョセフを見ていた。それからアッテンボローを見た。それからもう一度ジョセフを見た。
「そうか」
それだけ言って、彼女は砦の方へと馬を進めた。その横顔には何も読み取れなかった。
ただ、通り過ぎる瞬間、ジョセフだけに聞こえる声で彼女は言った。
「アッテンボロー大佐は指揮を貴官に任せて、時間を稼ぎ、防衛線を構築すると言っていたが?」
ジョセフは答えなかった。
セシリアも振り返らなかった。
アッテンボローは逃げた理由をそう述べていたのである。
しかし、砦に戻って見れば白煙を上げており、敵の動きは無かった。
セシリアは嘘を見抜いていたのである。
「さて、困ったねえ」




