第29話 崩御
アウグスト・フォン・オキシジェン皇帝が崩御したのは、夜明け前のことだった。
侍医が寝室から出てきたとき、その顔を見ただけでウォレス宰相には分かった。
「……いつですか」
「一刻ほど前でございます」
皇帝からの最期の言葉というのは無かった。昏睡状態から意識が戻らず、そのまま身罷ったのであった。
ウォレスは目を閉じた。一瞬だけ。それからすぐに開いた。
「シュトルム将軍を呼べ。それと、各皇族への通知を急げ」
皇宮が静かに動き始めた。
―――
朝の謁見の間に、主要な貴族と将校が集められた。
ウォレス宰相が前に立った。その顔に感情はなかった。長年の習慣が、感情を内側に押し込んでいた。
「陛下がお隠れになりました」
静寂が落ちた。
誰も声を出さなかった。出せなかった。
それからざわめきが起きた。小さく、しかし急速に広がっていった。
ウォレスはそのざわめきを黙って見ていた。
(嵐が始まったか。陛下、これより最後のご奉仕をさせていただきます……)
次の皇帝が決まるまで、国政に混乱を生じさせないこと。それこそがウォレス最後の仕事であった。
各所に半旗が掲げられて、帝都に皇帝崩御の知らせが広まると、人々は口々に「皇帝陛下がお隠れになった。次の陛下は誰に?」と語り合った。
庶民もそこは気になるところであった。
―――
ラザフォード公爵邸に知らせが届いたのは、朝食の最中だった。
公爵は皇帝陛下の状態が思わしくないということで、皇宮に詰めており、それよりも早く情報を得て、そのまま朝の謁見の間での報告に参加していた。
だから、知らせを受け取ったのはエドワードであった。
エドワードは使者を下がらせてから、ヘンリーを見た。
「陛下がお隠れになった」
「……ついに」
ヘンリーは椅子の背もたれに身を預けた。
「葬儀はどうなる」
「そこだ」
エドワードは指を組んだ。
「葬儀を誰が執り行うか。それが最初の戦場になる」
「どういう意味だ?」
「葬儀の主催者が、次の皇帝を決める権限を持つと慣例上みなされる。だから、誰もが主催者の座を狙う」
エドワードは低く言った。
通常であれば、次代の皇帝が先帝の葬儀を執り行う。それが皇帝として最初の仕事になることが多い。
しかし、今回は誰が次の皇帝か決まらないまま、先帝の崩御となった。慣例に照らし合わせれば、葬儀を執り行った者が次の皇帝だということになる。
「アルベルト王子の妻、クラウディア妃は遺児であるルドルフ皇子を擁立するために動くという噂がある。アントワネット殿下は皇位継承順位を盾にする。しかし、男性皇族であるレオンハルト殿下とコンラート殿下も黙ってはいない」
「セシリア殿下は」
「あの方は……読めない。そうした権力闘争からは遠いようにも思えるが、軍部での人気は高い。軍の支持を得ているというのは強みだ」
エドワードは息をついた。
「それに、ギフト持ちで民の人気がある。どこかの派閥が必ず引き込もうとする。例えば姫将軍のような地位を与えて、国政をサポートしてもらうとかだな」
「俺たちはどう動けばいい?」
「まだ動かない」
エドワードは立ち上がった。
「誰が葬儀を主催するか。それを見てから判断する。状況は流動的だ。最初に動いた者が、必ずしも勝つとは限らない。過去には葬儀の最中に暗殺された皇族もいる」
ヘンリーは不満そうだったが、黙った。
エドワードは窓の外を見た。帝都の朝が、いつもと変わらず明けていた。
―――
セシリアがジョセフを呼んだのは、その日の夕刻だった。
談話室に入ると、セシリアは窓際に立っていた。いつもの冷静な立ち姿だったが、その肩に微かな重さがあった。
「陛下がお隠れになった」
「存じております。殿下もさぞやお力落としのことかと」
ジョセフは静かに答えた。
セシリアはしばらく黙っていた。
「あまり父親らしいところは無かったな。公務ばかりで、家族としての時間というものは無かった」
セシリアは過去を思い返してそう言った。
ジョセフは何も言わなかった。
セシリアと皇帝の関係が、温かいものだったとは言えない。政治的に使われ、顔を立てるために動かされてきた。それでも、父だった。だから、セシリアにも多少の喪失感はあった。
「これから宮廷が動く」
セシリアはやがて口を開いた。
「葬儀の主催権を巡って、各派閥が争い始めている。お前の部隊にも、家にも影響が出るかもしれない」
「承知しました」
「ただ」
セシリアは窓の外を見たまま言った。
「今夜は、そういう話をしたいわけではない。私に政治は難しすぎるしな」
ジョセフは少し間を置いた。
「……そうですか」
「ただ、誰かに話したかっただけだ」
セシリアは静かに言った。その声は、いつもより少しだけ低かった。
「父上は、有能な皇帝ではあるが、良き父親ではなかった。それはわかっている。だが」
言葉が途切れた。
ジョセフは黙って待った。
「……いなくなると、やはり堪えるな」
セシリアは窓の外を見たまま言った。
ジョセフは答えなかった。
ただ、そこにいた。
談話室に静寂が落ちた。夕暮れの光が、窓から差し込んでいた。
この日、セシリアがジョセフを呼んだことが、後に噂としてまわり、二人の運命を変えていくことになるとは、この時は誰も知らなかった。




