第27話 聖女の算盤
ダニエル・プリーストリーが動いたのは、グレアムからの密書を受け取った翌日だった。
密書の内容は簡潔だった。
「亜人を一人、毒草の運搬者として逮捕せよ。証拠は問わない」
ダニエルはアッテンボローを呼んだ。
「動く機会だ」
アッテンボローは顔を輝かせた。
―――
逮捕されたのは、帝都の市場で荷運びをしていた中年の亜人だった。
犬人の男で、名前はカイといった。十年以上帝都で働き、妻と子供が二人いた。
ダニエルの部下たちが夜中に踏み込んだ。逃げる間もなかった。
取調室で、カイは何度も否定した。
「知らない。毒草など運んでいない。私は荷運びをしていただけだ」
だが、拷問の末に自白した。
何でも認めた。もう痛みに耐えられなかった。
自白調書が作られた。毒草を運んだ。依頼人は誰か。カイは知らなかったので、言えなかった。
「依頼人の名前は不明」と調書に記された。
黒幕への繋がりはなかった。しかし、ハートフィールド侯爵の名前が「犯人逮捕に貢献した」という形で添えられた。
グレアムは報告書を読んで、静かに眼鏡を押し上げた。
(案外使えますねえ。しかし、知りすぎたかも知れませんが……)
―――
帝都で噂が広まった。
アルベルト皇子を毒殺したのは亜人だ。亜人が毒草を運んだ。やはり亜人は恐ろしい。あいつらが治安を悪化させている。
翌日から、帝都の市場で亜人の売り手を避ける者が増えた。亜人が運んだ物資を買い控える者が出た。
それどころか、亜人と見るや喧嘩を売る者が出る始末。官憲も皇子殺しが亜人であったとなれば、被害者である彼らに対し、必要以上に不利な取り調べを行った。
それは軍隊にも波及した。
輸送部隊への影響が出始めたころ、ジョセフの部隊に休暇命令が下りた。
「上の判断だ」
と伝令は言った。
「亜人部隊の輸送は当面見合わせる」
マルチは黙っていた。ダオもタンも、何も言わなかった。
ジョセフだけが、静かに言った。
「わかった」
それだけだった。
―――
皇宮の執務室で、ウォレス宰相とシュトルム将軍が向かい合っていた。
「ハートフィールドが余計なことをした」
ウォレスは珍しく、感情が滲んだ声で言った。
「亜人を生贄にして手柄を作った。だが、これで帝都の亜人への風当たりが強くなった。軍の輸送にも支障が出始めている」
「それだけではありません」
シュトルムが続けた。
「拷問の自白では、黒幕への繋がりが何もない。結局、アルベルト殿下の毒殺の真相は闇の中のままです」
「わかっている」
ウォレスは息をついた。
「しかし今は、陛下が倒れて宮廷が揺れている。誰が皇位を継ぐかで、各派閥が動き始めた。ハートフィールドの件を追及する余裕がない」
シュトルムは黙った。
「誰が次の皇帝になるか」
ウォレスは静かに言った。
「それが決まるまで、我々は動けない」
「中立を、ということですか」
「それしかない。我々は陛下の臣。次の陛下が決まれば引退する身」
股肱の臣ではあるが、それは帝国に対しての忠誠ではなく、現在の皇帝に対してのものであった。
彼らにとってはアウグスト・フォン・オキシジェンの退位が引退の時なのである。だから、次の代には興味が無いし、誰かを手助けするつもりもなかった。
二人は窓の外を見た。帝都の空は曇っていた。
―――
ハイドロジェン王国の王都アクアリスは、静かだった。
二度の戦争で、国力は大きく低下していた。ギーレン将軍を失い、エリオット将軍も一度は退却を余儀なくされた。民の疲弊は帝国と同様、あるいはそれ以上だった。
バルトロ中将は地図を見ながら、静かに言った。
「帝国が揺れている今、絶好の機会ではあるが、攻め込む力は我々にはない」
エリオット将軍は黙って頷いた。
「では、どうする」
「待つしかない」
バルトロ中将は地図を閉じた。
「帝国が安定すれば、また圧力をかけてくる。その前に、国内を立て直す必要がある」
「……そうだな。しかし、それは我々の仕事ではない。無理な徴兵で疲弊した社会を立て直すのは政治の役目」
エリオット将軍は窓の外を見た。アクアリスの街並み。戦争で男が減り、女と老人と子供だけが目立つ街。
「誰かが止めなければならない」
将軍は低く言った。
「この戦争を。過去から続く怨恨の鎖を断ち切らねばな」
バルトロ中将は答えなかった。
―――
ラドン教皇領の深奥、教皇の私室は静かだった。
教皇アリア・サンクトゥスは窓際に立ち、地図を見ていた。
細身の体に白い法衣。ペルシャ人の血を引くかのような顔立ちは非常に整っており、三十代には見えないほど若い。穏やかな目が、地図の上を静かに動いた。
侍女が報告する。
「帝国でアルベルト皇子が毒殺されました。心労で皇帝アウグストが倒れ、宮廷は混乱しております。ハイドロジェン王国も度重なる戦争で、疲弊が続いております」
「そう」
アリアは静かに答えた。その声は柔らかく、聞く者を安心させるような響きがあった。
「ウランの御心のままに、ですね」
ウランとはラドン教の主神であり、唯一絶対神である。
侍女が退室した後、アリアは一人で地図を見た。
帝国とハイドロジェン王国。二つの大国が消耗し、互いに動けない。
(今が動く時だ)
アリアは静かに考えた。
平和条約の仲介。それはラドン教にとって、これ以上ない機会だった。
二国の間に入り、条約を結ばせる。その場にラドン教の旗が立つ。神の名のもとに平和をもたらした宗教として、両国に影響力を増すことが出来る。
この世界でも王権神授説はあった。神が認めた者だけが王となれる。その神の代理人はラドン教だ。周辺国の王は皆、時の教皇によって戴冠式が行われていた。
また、教義も人至上主義であり、亜人を下に見ているため、人の信者も多い。となれば、当然大きな利権となっていた。
(二国が弱れば弱るほど、神の権威が必要になる。神の代理人の言葉が重くなる)
アリアは窓の外を見た。
教皇領の空は、澄んでいた。
「神のご意志を伝えに参りましょう」
その声は、穏やかで優しかった。
その目は、宗教家ではなく、例えるなら猛禽類。獲物を狙う目であった。




