第26話 毒と疑惑
アルベルト・フォン・オキシジェン第一皇子が死んだのは、夜宴の翌朝のことだった。
侍従が寝室に入ると、皇子はすでに冷たくなっていた。顔に苦悶の表情はなく、眠るように逝っていた。だが、唇の端にわずかな変色があった。
医師が呼ばれた。診察の結果は、毒死だった。
その知らせが皇宮に広まるまで、半刻もかからなかった。
―――
皇宮の廊下は、静かな混乱に包まれていた。
表向きは落ち着いている。だが、すれ違う侍従たちの目が泳いでいる。廊下の角で、小声で話す貴族たちがいる。誰もが、誰かを疑っていた。
この事態にウォレス宰相は素早く動いた。
皇子・皇女全員の行動確認。妃たちへの聴取。その夜宴に参加した者のリストアップ。毒の種類の特定。
しかし、毒の出所は判明しなかった。
帝国内の勢力か。外国の諜報機関か。宮廷内の誰かか。可能性は広がるばかりで、絞れない。
疑心暗鬼が宮廷を覆い始めた。疑心暗鬼を生ずとはまさにこのことであり、皇宮での食事は敬遠されるし、少しでも普段と違う様子を見れば、証拠隠滅ではないかと噂が飛び交った。
動機は間違いなく皇位継承に絡むものであるが、他の皇位継承権を持った者たちに怪しい動きはなく、犯人の捜索は雲をつかむような話であった。
―――
セシリアの私室に、アントワネットが訪れたのは事件から三日後だった。
二人きりになると、アントワネットは静かに口を開いた。
「大変なことになったわね」
「そうですね」
「アルベルト兄上が……まさかこんな形で」
アントワネットは窓の外を見た。
「毒殺というのが、また陰湿ね。死ぬ瞬間を見なくてもよい。卑怯者のとる手段だわ」
「犯人が見つかることを願います」
「ええ」
アントワネットは少し間を置いた。
「ところで、セシリア」
「なんですか」
「あなたは毒を食べても死ななそうね。あなたがアルベルト兄様の代わりに、毒を食めばよかったのに」
セシリアは静かにアントワネットを見た。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味よ」
アントワネットは微笑んだ。
「あなたはギフト持ちだから、普通の人間より頑丈なのかしら、と思って」
沈黙が落ちた。
セシリアは少し間を置いてから、静かに言った。
「ところで姉上、今回使われた毒草の産地はご存知ですか」
「……いいえ。毒が特定されていたのね」
「はい。帝国の東部が原産地の毒草から抽出したものと医師が言っていました」
セシリアはアントワネットを見た。
「姉上の母上のご実家がある地方で、よく採れる毒草だそうですね」
アントワネットの表情が、わずかに固まった。
「それは――」
「もちろん、関係ないことだとは思いますが」
セシリアは静かに続けた。
「取り調べが入れば、そのあたりも確認されるでしょうね」
アントワネットはしばらくセシリアを見ていた。
やがて、静かに立ち上がった。
「話はそれだけ?」
「はい」
アントワネットは扉へと向かった。その背中は、来たときより少しだけ硬かった。
武人であるセシリアは、その筋肉のこわばりを見逃さない。
扉が閉まった。
セシリアは視線を窓の外に向けた。
「少しはやり返せたかしら」
姉が犯人だとは思っていない。だが、無防備で殴られ続けるつもりもなかった。
言葉で殴ってくるならば、言葉で返す。これもまた、戦いであった。
―――
皇帝が倒れたのは、その翌日だった。
長男を失った心労。宮廷の混乱。取り調べの喧騒。老いた体には、重すぎた。
ウォレス宰相とシュトルム将軍が呼ばれた。
寝台に横たわる皇帝は、声が出なかった。目だけが動いた。二人を見て、それからゆっくりと閉じた。
医師が首を振った。
「しばらく安静が必要です。公務は――」
「わかった」
ウォレスが静かに言った。
「こちらで対応する」
宮廷の実権が、事実上ウォレス宰相に移った。
―――
ラザフォード公爵邸の書斎で、エドワードとヘンリーが向かい合っていた。
燭台の光が揺れている。外の声が届かないよう、扉は閉めてある。
「アルベルト殿下が亡くなった」
エドワードは静かに言った。
「陛下も倒れた。次は誰につくべきか、考えなければならない」
ラザフォード家としてはアルベルト殿下を推していた。これは皇位継承権第一位であり、順当なものであったが、暗殺という手段により別の御輿を担ぐ必要が出てきたのである。
「アントワネット殿下だろう」
ヘンリーが言った。
「皇位継承順位は一番上だ。それに、女性であれば神輿として軽いので、願ったり叶ったりだ」
「だが、今回の毒殺で疑いをかけられている」
エドワードは首を振った。
「母上の実家の産地の毒草というのが。皇位継承権が繰り上がったことで、一番利益を受けるというので、疑われるのも無理はない。殿下やその母上がやったとは思えないがな」
「では、セシリア殿下は。ギフトを持っていて、人気は高い」
「問題がある」
エドワードは少し間を置いた。
「ジョセフと仲がいいという噂が宮廷に広まっている」
「ジョセフか」
ヘンリーの顔が歪んだ。
アルゴン連邦でのジョセフの扱いに、噂好きの皇宮の女性たちが飛びついたのである。
ジョセフも家柄としては申し分なく、皇女を降嫁させるには問題ないという話が出ていた。
「庶子が皇女と……」
「噂だ。だが、特別扱いは事実。そんなところに、俺達が後からすり寄ったとしても、うまみはない」
エドワードは指を組んだ。
「セシリア殿下についた場合、あの庶子が俺達に仕返しをする可能性もある。派閥を急に変えるのが難しいとわかれば、やってくるだろうな。それは避けたい」
「では他の皇子に」
「誰が有力か、まだわからない」
エドワードは息をついた。
「アルベルト殿下を失って、勢力図が変わった。今動くのは早計だ」
そう結論付けた。しかし、これは決められないことへの言い訳である。
「では待つのか」
「情報を集める」
エドワードは立ち上がった。
「誰が次の皇帝になるか。それが見えてから動く。焦った方が負けだ」
ヘンリーは不満そうだったが、反論しなかった。
こういった状況では、様子見の蝙蝠になることは一番嫌われる。早い段階で指示を表明してこそ信頼されるのであり、勝ちが決まってからすり寄ったのでは、その他大勢と変わりはない。
そのことを指摘したかったが、自分でも結論が出せなかったので、反論しないということにしたのである。
書斎に沈黙が落ちた。燭台の炎だけが、ゆらゆらと揺れていた。




